2024年のお正月
2024年元旦のことを覚えているだろうか。
その日、僕は六本木のタワーマンションの一室で、六本木ヒルズと東京ミッドタウンを両睨みしながら、おせち料理を食べていた。ここはそのどちらでもなかった。眺めはいいし、コンシェルジュもいる。有名政党の党首ともエレベーターですれ違ったが、誰もが知ってるというわけではない何の変哲もないマンション。
ここに住む友達の家で毎年元旦と二日、酒を飲んでおせち料理をたべて過ごすのが最近のお正月のルーティーンになっているからだ。
その日は友人がとっておきの極上のワインを開けて、みんなで盛り上がって飲んでいた。毎年恒例の、実に楽しい飲み会だった。
しばらく飲んでいると、突然、「クラッ」と来た。
酔いすぎたのか?
否、それはおかしい。普段飲む分量からすればまだワイン一本くらいしか開けてないし、ハイボールも5,6杯しか開けてない。これで僕が酔うわけがない。
でもその日はなぜか、唐突に「クラッ」と来た。酒に何か悪いものでも混ざっていたのだろうか。いやいやまさか。ブルゴーニュの名門ドメーヌに限ってそんなはずはない。
ではいったいどういうことか。
わかりやすく言えば、ストロングゼロだ。
ストロングゼロ。あの、一缶飲むだけでクラッと来てセンベロならぬワンコインベロと言われるハイアルコールドリンク。ストロングゼロを飲んで立ち上がった時に似ていた。「クラッ」
だが、そう思っているのは僕だけではないようだった。
友人が怪訝な顔をしてテーブルに置かれたグラスを見ていた。
グラスの中で真紅に佇むワインは、まるで魔法がかかったようだった。
誰も手を触れていないのに、優雅な舞を待っているのである。
左へゆらりと舞ったかと思えば、右へゆらり、かと思えば、縦にジャンプ。
まるでプリマドンナのような動きにスタンディングオベーションを送るかのように、全員のスマホが一斉に鳴り響いた。
「地震だ!」
タワーマンションというのは、実用性が低い。
すぐにビルの管理会社から全巻放送が入る。
「地震のためエレベーターが使えなくなりました。業者が到着して確認作業をするまでしばらくお待ちください。業者の到着は5時間後の予定です」
まあそりゃエレベータも止まるわな。
呑気な酔っ払いどもは口々に他人事のようなことを宣った。
「結構大きかったね」
「まだ揺れてるよ」
免震構造を持つタワーマンションは揺れを抑え込むのではなく、むしろ積極的に揺れることによって地震のエネルギーを効率的に逃すよう設計されている。
ただそれが意味するところは、なまじの一軒家より遥かに大きく激しく長い時間揺れるということである。
「オエエエ!」
嘔吐こそしないものの、アルコールと地震のダブルパンチでグロッキーになる。そんなところへコンシェルジュから連絡が入ってきた。
「お客様がお見えです」
友人がインターホンに対応する。
「え?通してよ」
「お客様にお迎えに来ていただかないと本人確認ができませんので・・・」
なんということだろう。
平和でハピネス溢れる予定だったパーティは一瞬にして懲役を伴う煉獄へと変わった。
この場合、懲役⚪︎⚪︎階である。
「いや、⚪︎⚪︎階から階段で身元確認に行けっていうの?そこにいるの、俺の息子だよ」
「いや、しかし本人確認していただく規則ですので・・・」
「・・・・」
しかし友人も酔っ払いではあるが馬鹿ではない。
「わかった。どうしても俺が本人と直接確認しなきゃならないんだね?」
「はい。そういう規則でして・・・」
「あなたが立ち会わないと行けないと」
「はい」
「じゃあさ、あなたが彼を連れて⚪︎⚪︎階の俺の部屋まで登ってきてよ。そしたら俺、違うなら違うって、ドアホン見て言うから」
小一時間ほどして、息子氏は一人で現れた。コンシェルジュが自分の言ってることの馬鹿馬鹿しさに気付いたのか職務放棄を選択したのかはわからない。
しかしそんな悲劇は、翌日のパーティで上書きされる。
その日もやっぱり僕は六本木のタワーマンションで、昼から極上のウイスキーのソーダ割りを飲んでいた。銘柄は忘れたが、「まずい」と思わなかったんだから多分極上のものだっただろう。テーブルには角しかなかったが。
するとテレビで信じられない光景が映し出された。
ジェット旅客機が炎上していたのだ。
「おいおいこれは助からないだろ・・・」
さすがに酔いも覚めてハラハラしながらことの成り行きを見守り、最終的には乗客乗員が全員生存し、海上保安庁の職員が機長を除いて殉職し、ペットたちは死亡するという切ない結末に胸を痛めた。
それからしばらくは、地震のニュースを見ても、「大変だねえ」以外の感情が浮かばず、コンビニでポケットの現金を募金したり、何かの募金窓口に少額のお金を振り込んでそれで自分の中では決着したと思っていた。
ところが、である。
久々にひられた技研フリマにやってきた友人の助ちゃんが、珍しく脇目も振らずに真っ直ぐに僕のところにやってきて、サントリーの角ハイボールのロング缶をドンと置き、続いてビーバーという北陸名産のお菓子をカウンターに置いて、自分は一番搾りの缶をプシュッと開けて、言った。
「これ、奢りだから」
世の中にただ酒ほど美味い酒があるだろうか(反実仮想)。
「どうした、スケの字、藪から棒に」
俺もロング缶をプシュッとやって話を聞いてみた。
「このビーバーは、北陸の名産品なんだ。特に青のり味が絶品で、東京じゃあまず手に入らねえ」
「そうかい。確かにこいつぁ初めて見るビーバーだ」
ビーバーは、我が北越長岡にお馴染みの銘菓で例えるなら、亀田のサラダホープのような味がする。
加賀百万石の海苔の佃煮といえば、かつて俺が惚れ込んで通販で何度も取り寄せたこともある逸品だ。
実のところ、これは本当のことなのだが、僕は故郷の北越長岡に次いで、この加賀百万石を愛してやまないのだ。
HHKBのエヴァンジェリストを引き受けたのも、少なからずこの加賀百万石の縁が関係している。我が生涯の友であり師である後藤禎祐も、その同級の宮本茂も金沢美大のOBなのである。また、日本に唯一のこる正統派ルーロー飯の最後の生き残り、髭長魯肉飯も、やはり金沢にだけ残っているのである。
UFOが多数展示されているコスモアイル羽咋も石川県、もうとにかく石川県無くして俺の人生は豊かにはなり得なかったと言える。
「で、この青さのりビーバーは金沢土産かい?」
「いや、銀座のアンテナショップで買ってきたんだ」
おい!東京じゃ滅多に買えねえって話はなんだったんだ。
「スケちゃんは石川だったか」
「ああ。それも珠洲でな。今回、大変なことになった・・・」
「すず?はて、そこはどんなところだったかな」
「毎日ニュースでやってるだろ」
自慢ではないが毎日見てるニュースはAIのニュースばかりで、いわゆる普通のニュースはスマートニュースと週刊文春くらいしか見ていなかった。
「すまん、そこがどこだかわからないんだ」
「能登半島の、先っちょで、今回の地震で最大被害が出たと言われている場所だよ。これがうちの実家だ」
そうして見せられた写真は、驚きの一言。家がペシャンコに潰れている。
「こりゃあえらいことだぜ」
「そうなんだよ」
そこでスケさん、ぐいっと一番搾りを飲み干した。
「助けてくれよ、旦那」
「おいおい、俺は政治家先生でも篤志家でもないんだぜ。ただのしがない雇われバーテンダーで、配達員は休業中だけど・・・」
するとさっきまでベロンベロンに酔っているように見えたスケさんが、真顔に戻ってる。
「そういうの、いいから」
確かに、まだ三ヶ月も経ってないというのに元旦の地震のことなんかすっかり忘れていた。この三ヶ月の間にも、AIは実物そっくりの動画を作り出して、3Dも作って、世界理解とかして、Grokがオープンソースになって、OpenSoraができて、Karakuri-70Bがでてと目まぐるしい。
しかしそんな目まぐるしい世界とは全く逆の、遅々として復興の進まない世界もある。それが今の能登だ。
「ギャラは?」
「角ハイロングもう一本と、あおのりビーバー」
角ハイロングも魅力だが、あおのりビーバーがなくなってしまう世界はちと惜しい。
「しょうがない。角ハイロングをもう一本飲み干す間まで、知恵を貸すとするか」
そうして思い立ったのが、シラスで配信中の「教養としてのAI講座」である。現在、僕の主な食い扶持はUberEats配達員に端を発するこの番組に依存している。
「教養としてのAI講座」は高単価だが、基本的に平日は毎日配信、休日も週に一度の目安で「シラス特別講義」としてAIにまつわるさまざまな事柄をレクチャーしている。
ちょうど今取り掛かっているシリーズで、「AI時代の仕事論」という講義があり、他のシリーズと違ってこれがなかなか終わらない。「AI時代に仕事がどう変わるか」「会社はどう変わるか」がテーマであるため、終わりたくても終わることができないのだ。
その意味で、能登の復興にAIをどう適用できるか考えることは、格好のコンテンツとなる。しかもシラスなら、生配信でお金を稼ぐことができ、その一部を寄付するような仕組みを作ることも可能だ。
「旦那、そろそろ何かいい案思いついた?」
俺は二本目のハイボールを空にすると、頷いた。
「よし、任せとけ。能登を救いながら俺の食い扶持も稼げる妙案を思いついた」
シラス番組でこの構想をぶち上げると、賛同する声が内外から数多く上がった。みんな実際にケーススタディとしてAIを適用できるか考える様子を見てみたいし、自分も考えてみたいのだ。何しろ高額な番組なので購読者は経営層や経営幹部層がほとんどだ。誰でも「新しいビジネス」を考えることに興味を持っているのである。
かくして俺は、休日を返上して能登に赴くことにしたのである。
だがそこに広がっていた光景は、想像を絶するものだった。
俺は2011年3月11日の東日本大震災も、その前の中越地震も実際に被災地に行って被害を確認していた。
その経験を持ってしても、能登の状況は、目を覆うような有様だった。
行けども行けども瓦礫の山。
それどころか、やっと復旧したと言われる高速道路も、実際にはあちこち陥没して側道を無理やり繋げて運用する次はぎ運用。これではとても大型トラックなど走れるわけもない有様だ。
道は普通にあちこち陥没してあり、陥没してなくても応急処置をされているだけなので車がアトランダムに跳ね回る。
「これは君ねえ、来いと言われなければ来れないよ」
金沢市からレンタカーで三時間。
ようやく珠洲にたどり着いた僕は驚愕しながらも呆れてしまった。
途中、のと里山空港で休憩を挟みつつも、あまりの悪路にグロッキー状態でたどり着いた。
実際に被災地につくと、生活必需品は各種ボランティアや篤志家、協賛企業のおかげである程度充実しているようだった。トイレは仮設といえど水洗式だったりして、衛生は保たれていると言っても、とはいえ体育館での集団生活はいつまでも続けられるものでもない。
最近、再オープンに漕ぎ着けたという地元のピザ屋さんでピザを食べた。
「ここで食事してる分には、ここが被災地とは思えないな」
なあんて言っていたのだが、街に出れば瓦礫、瓦礫、瓦礫の山。
途中まで写真を撮っていたのだがあまりに瓦礫が多くて写真を撮るのをやめてしまった。
「崩れてないように見える家も、みんな赤紙貼ってあるでしょ」
そう、家々には「危険」と書かれた赤い紙が貼られていた。一見すると大丈夫そうでも、今にも倒壊の危険があるのだ。
「じゃあこの辺の区画全部ダメじゃん。こんなの地方都市の予算で自力再建とか不可能でしょ」
「そうなんだよ」
「俺は今日、母と避難所で寝て明日帰るから」
スケさんはそう言って避難所に残った。
天変地異による被害を目の当たりにするたび、俺は人間の、自分の無力さを痛切に感じて切なくなる。これが神の思し召しというのなら、神ほど役に立たんものもない。
日本に強い宗教意識が育たないのは、こういう天変地異が定期的に起きるからではないか。
どれだけ神仏を信じようとも、大自然は罪のない人の命と生活を気まぐれに容赦なく奪っていく。奪ったことに対する反省も後悔も感じられない。
フィクションの中で、神に祈るキャラクターが出てくると、我々はそれを「設定」だと解釈する。「そういう設定」なのだと。これはもしかすると欧米人は少し違う感覚なのかもしれない。
例えば異教徒を拒絶するタイプの宗教を信じている人たちなら、アニメのキャラクターが何らかの(自分達の神と無関係な)神仏を信仰していると知った時点で嫌悪の対象になるだろうし、異教徒を許容する宗派の人なら「ああ、この世界にも神がいるのだな」と思うのかもしれない。
だがどちらにせよ、どこの神も何も救ってくれなかった。中越も東北も北陸もだ。
潰れた家屋や家屋に押し潰れたクルマや家財を見ると、胸を締め付けられそうになる。
昔、俺がとても小さい子供の頃、アップライトピアノが唯一の母との接点だった。母は朝から晩まで(自分の好きなように)働いていて、家庭に帰ってくるような人間ではなかった。母の手料理など食べた記憶はほとんどない。ごく小さい頃、家にあったアップライトピアノで運指を教えてくれたわずかな思い出だけが、母を身近に感じることのできる記憶だった。だが母は、そんな俺の思いなど露ほども知らず、知ろうともしないどころか、そんな感情が存在することにさえ気づかずにそのアップライトピアノを業者に売り飛ばして、小さなグランドピアノを買った。グランドピアノはすでに一台あったのに。
そのアップライトピアノが引き取られる時、五歳の俺は泣いて制止した。でも子供のそんな叫び声は、大人にはただの雑音だ。そうして俺と母とのほとんど唯一の紐帯は断ち切られた。以来、母を「ママ」と呼ぶのをやめた。
人はモノや場所、時には柱のキズにさえも、感情を込め、思い出し、愛着を抱くことがある。
そうしたものを全て、一夜にして奪う。それが天災だ。
それが神の所業だからと納得ができるだろうか。俺はできない。
どんな平凡な家でも自動車でも、買う人、買った人には何らかの愛着や理由がある。そうしたものを失う悲しみは火災保険で賄ってもらえることは決してない。
コロナが始まった頃、俺は全国の状況が知りたくてフィールドワークに出かけた。フィールドワークで大切なのは現地の人と話すことだ。その時一番手っ取り早かったのは相席屋に行くことだ。
東北地方の相席屋は、他の地域とは全く異なるルールで運用されていた。相席屋は基本的に男性が全額払い、女性は無料の飲食を得られる代わりに男性の話を聞くというのが普通だが、東北地方のその店では、女性は来店するごとに男性と無関係に「ポイント」がもらえ、ポイントが一定数に達すると化粧品や生活必需品がもらえるというシステムだった。
鈍感な俺はその意味に気づかず、普通に会話した。25歳くらいの女性二人だった。「映画が好き」というので、「シン・ゴジラは好き?」と聞くと、「ああいう、人が大勢出てきて生き物をいじめる映画は・・・」と暗い顔になった。「旅行が好き」と言うので「修学旅行どこに行った?」と聞くと、「そういうのはなかった」と彼女たちは語った。
翌日、僕は南相馬で市議をやっていた但野さんに会いに電車に乗った。
それで僕はその日が3月11日だと思い出したのだ。
彼女たちの話を聞いた日は2021年3月10日。震災の一日前。彼女たちは15歳だった。修学旅行がないはずである。
天変地異の裏側では、おそらく信じられないくらい多くの人が、教育を受ける機会を奪われている。
僕はまだ三ヶ月も経っていない地震のことをあっさりと忘れ日々の仕事に忙殺されていた。今この瞬間も、他の地域と同じような教育を受けることができない子供達が北陸の地に大勢いるのだということを忘れてはならない。
10年後のため、今できることは何か。
考えてみることは、誰にでもできる。
だが問題は、行動できるかだ。
考えるだけでは何も変えられない。行動しなければ。