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ほんの少し中東で過ごしただけなのにラーメンが恋しくない

中東はムスリムが多く、お店では豚を出さないのがデフォルトのようだ。もちろん豚が食べられる店がないわけではないが、ムスリムの人が誤って豚を食べてしまうと大変なことになってしまうので基本的に豚はものすごく激しく「豚」という注意書きがあるようなお店でしか出ないようだ。

こちらの料理といえば、ひよこ豆をすりつぶしてオリーブオイルと混ぜたフムス(Hummus)というものが定番で、これがなんだか「めちゃくちゃうまい」というわけではないのだがハマってしまう不思議な食べ物だ。

フムス

普段、アメリカやヨーロッパ諸国を訪れた際は数日で日本食が恋しくなったのだが、中東でフムスを食べるようになってからと言うもの、まったく日本食を欲しなくなった。不思議である。

フムスのお供

フムスは単体で食べても美味しいが、ピタというパンみたいなやつに挟んで食べても美味しい。

これだけでお腹いっぱいになってもいいくらいなのだが、たまには肉も食べたい、ということで豚はないので牛か鶏。中東で肉料理といえばもちろんケバブである。

ケバブ

六本木にケバブ屋ができ始めた頃に一度食べたが、あんまり好きになれなかった。秋葉原にケバブ屋がたくさんできた頃には、あの匂いがかなり苦手になっていた。なのでほぼケバブを食べない人生を選択してきたのだが、中東で実際に食べるとかなり美味しい。あの秋葉原のケバブ屋に漂っているような独特の匂いもしない。実に不思議である。

ただ、この量のケバブは胃が小さくなった(?)僕には多過ぎて全部食べられなかった。決して美味しくないわけではない。というかむしろ美味しいのだが、とにかく分量があるのだ。

そんでやっぱアレだね。
生成された画像も綺麗だけど、自分の足で世界各地を見回って撮影した写真はそれはそれで格別のものがあるね。当たり前なんだけど。

旅先では毎日いろんなことが起きて情報量が多過ぎて色々処理できない。オーバーフローしている。

以前は旅先であったことをいちいち文章にしていたんだけど、最近はYouTubeでまとめるからまあそれでいいかと思ったり。けど、実際のところの本音というか、本音というよりもそこから得られる熟考かな。そういうのは映像にもなかなか残しにくい。文章にしたためて初めて自分でもわかることがあるというか。

要はAI用語風に言えば「マルチモーダル」ということなんだけど。
たとえばエジプトはめちゃめちゃ治安悪くて、僕はカメラずっとまわしてるんだけど、そもそもカメラずっと回してること自体が命の危険を呼び込む可能性が高い。タクシーに乗ってる時ですら「いつこの運転手に拳銃を突きつけられるんだろう?」とか、「この運転手、人里離れたところに俺を連れて行って見ぐるみ剥いだりしないだろうか」とドキドキしながら接することになる。

実際、海外で日本人観光客が到着とほぼ同時に身包み剥がれるなんてよくある話だし、僕の友人でも何人かそういう被害に遭ってパスポートが再発行されるまで帰れなくなった人もいる。

砂漠の日差しが眩し過ぎて久しぶりにサングラスを買った。

でもサングラスってのは、視線を隠す効果があるので護身用としても多少は役に立つ。結局、「こいつ怒らせたら厄介そうだな」と思わせておけばトラブルに巻き込まれる確率は下がる。コロナで筋トレに通うのやめちゃったけど、多少は筋肉がまだ付いてるので、それも気休めくらいにはなる。常に「殴り合いをして相手を倒せるか」を考えながら行動するしかない。

まあでも結局エジプトでは酷い目にあった。
命だけでも助かったのは儲けもんだけど。とにかくエジプト旅行はお勧めしない。男一人だからなんとか生き残ったんだと思う。

この写真を撮るまでにどれだけの戦いがあったことか(でもこの程度の写真)

こういう「怖い」という体験をAIはできないので、人間の書いた文章を読んで「わかったふり」をするしかない。でも本当にどんなことがあったのか、何を見たのか、どんな人と会ってどんな話をしたのか、それは大切なことであればあるほど、書けないんですよ。ブログみたいなところはもちろん、書籍にも書けない。だからAIって、今のところは、どこまで頑張っても、「本だけ一生懸命勉強したナンチャッテ業界人」の領域を出ないんだよね。

出発前、MITの石井裕先生と夕飯をご一緒したときに、「清水さん、あの本のラストに出てくるところって・・・」と言われて、「ああ、石井先生のテレアブセンスが元ネタですよ」と言ってから「しまった」と思った。それならそう書くべきだったと。

厳密には同じものではないし、毎回引用するたびに石井先生のご高明を借りるのは申し訳ないと思ったので敢えて書かなかったのだが、よく考えたら書籍には書いて残しておくべきだった。そこらへんのバランスが実に難しい。

自分の書籍だってこのくらいコントロールできないんだから、普通に日々あった話を全部書ける人なんかいないわけですよ。やっぱり、公開される文章というのは、多かれ少なかれ「自分はこう見られたい」という、「作り物の自分」が前提になってしまう。しょうがないのよ。それは。

先日、同人誌を買った、というか買わされた。酔っ払いの文芸の同好の志が集まって作った、いわゆるコピー本だ。著者の一人から買って、感想を言えと言うのでその場で読んだ。

読んでみると、なるほど文芸が好きなだけあって、文体はしっかりしている。

ただどれも面白くない。面白くない理由は明白で、全員がペンネームで書いているのに、コンテキストをすっ飛ばして「二日酔いの朝、こんなことがあった」みたいなことを文芸"調"に書いているだけなので中身がないのである。

それに引き換え、以前ゴールデン街で買った(買わされた)ホストの同人誌はめちゃくちゃ面白かった。それはホストという特殊な人たちの価値観、行動、非道とも思える女性への扱い、それでもすがってくる女性の鬼気迫る感情というのが、巧みに織り交ぜられていたからだ。

どちらも、「自分が体験したこと」を書いていることに違いはないのだが、なぜ面白さに差が出るか。

二日酔い、これはたいていの人が経験している。その二日酔いの朝に、公園で変な人をみただとか、あまりにも普通なのである。そこにその人が書き手でなければいけない理由ナラティブが全くないのだ。

ただ体験したことを書くのであれば、自分は何者で、誰もが目にする出来事を見て何を考えたか、まで書かないと表現とは言えない。公園で不審者を見たという話だけでは、自動車を見て「ブーブーだ」と言う子供と変わらない。それが「あなた(著者)」にどういう影響を与え、「あなた(著者)」はどう変化したのか、こそが中身である。

少し前まで、世の中にあるインターネットの文章をとりあえず全部学習したAIが意外と賢くならないというのは世界中のAI研究者の悩みの種だったのだが、最近、「闇雲に大量の文章を読ませるよりも良質な文章だけを選んで読ませた方がずっと賢くなる」ことがわかった。当たり前である。世の中にある情報のほとんどは拙いかものであって、真に万人が読むべき/知るべき知識というのはそんなに数があるわけではない。

ホストの話が面白い、という指摘で勘違いしてほしくないのは、「非日常だから面白い」というわけでもないということだ。ホストがテーマでもつまらない文章はいくらでも書ける。

読者はまず書き手と自分との共通点を探す。ホストなら男性読者は「男」という共通点から始まる。「男なら誰でも、女性にチヤホヤされたいと一度くらいは思ったことがあるのではないか」という一文があれば、首肯する読者が何人かいる。この何人かを掴むために、それ以外の読者を切り捨てる。

文章を書くということが本質的に枝刈りプルーニングであるということが大規模言語モデルの発展でいよいよ明確化してきた。つまり、文章というのは長くなればなるほど、読者を減らして(枝刈りして)行く性質がある。最初に掴んだ読者を、いかに巻末まで完走させるかというのが文筆業というものだ。

僕の文章に食べ物の話で始まるケースが多いのは、食べ物を「食べる」という共通点を読者と共有することからスタートするからだ。間口は広ければ広いほどいい。

ただ、結局僕はコンピュータとAIの話しか興味がないから、食べ物の話であっても旅行の話であっても結局そっちのほうに話が進んでいく。ここで読者を振り落としていく。でも別にそれで問題ない。僕は聖書を書いてるわけじゃない。

正直、今年出した二冊はAIを執筆に活用したため、個人的には少し不完全燃焼である。本としては編集者の人力のおかげでいいものになったと思う。が、やっぱり、頭からお尻まで自分が書いた方がいい。AIなんか使わない方が僕の書きたいことが書ける気がする。確かに、省力化、つまり「わずかな時間で本を書く」ということはAIによってできるようになったが、それが素のままでは「僕の書く文章」とかけ離れている以上は、そこまで踏み込んで書けない。

あるいは、自動化するにしてももっと踏み込んだ自動化、やはり自分の文体を学習させて語り口を自分に寄せたり、自分が体験したエピソードを挿入するにしてももっと効果的にやる方法はないか考えてしまう。

まあ二冊の本を書いた時点と現時点で、だいぶ変化しているので、GPT-4Vを使ってそろそろ三冊目も書けるかもしれない。なんせマルチモーダルなんだから、僕が旅先で撮ってきた写真や動画をAIに見せて、それでなんとか面白い文章を書いてみい、という。そんなものが商品になるのかどうかはわからないが、少なくとも何もしないよりはマシではないかと思う。新しいメディアを理解するには、まず誰よりも使ってみることだ。GPT-4VのAPIも来月あたりに解放されるらしいから、それを待つか、それを待たずして今のGPT-4Vで何か書き始めるか。それもちょっと考えてみたい。

ただ本当に「面白い話」っていうのは、やっぱり酷い目に遭わないと出てこなくて、そう言う意味では僕が今回アフリカや中東やインドで遭った「酷い目」は、僕にとって肥やしになったのかもしれない。日本はなかなかぬるま湯だから、まあ滅多にそんな目に遭ったりしないからね。

今回の世界一周で、なぜ自分が唐突にそんな危険な思いをしようとしたのか自分でも理解できなかったのだが、おそらく本能的に「酷い目」に遭いたかったのだろうなあ。