意識高い系大学生の大反省タイム

今日、鳥取環境大学生が中心に活動している生山大學さんの拠点であるシェアハウスにお邪魔しました。

NPO法人学生人材バンクの原田さん、一緒に行ってくれた鳥取大学のふみかちゃん、私達を受け入れてくださった西川さんをはじめとする生山大學界隈の皆さま、本当にありがとうございました。

今回のnoteは、今日思ったことと帰ってから考えたことをつらつら書いただけです。日記調で進めていきます。

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 そこにはとんでもなくキャラが濃い人達がいた、本当にキャラが濃いってこのことを指すんだなと思った。変人の巣窟とか、平成が生んだ最後の魔窟とか自虐のレベルが半端なかった。振り切れている人って、本当に自分たちのことや自分のことを自虐するよなって思う。宗教だって言われてもそれをネタにして笑うし、壺を売ってそうとか、マインドコントロールとか言われてもそれをネタに笑ってるし、異質なものを見る目で見られていても、スポットが当たらなくても、本当にやりたいことをやっている人たちは、自分や自分たちの軸がしっかりとある、どっしりしているなあと感じた。
 生山大學さんは、良い意味でヲタクの集まり。自分の好きなことを出来るように自分を魔改造した人たちが集まっているような、そんな印象を受けた(笑) 何言われようが、どういわれようが、自分の好きをやっている人たち。何も特別なことはしていない、毎日毎日好きなものに触れて親しんで、それで知識や経験がついてきて、好きなことのセンスが磨かれていってるそんなところ。
 いつでもオープンで、開かれている自由度の高い空間だなあと思った。その分、オタッキーじゃない人にとっては敷居の高い空間なのかもしれないけど(笑) 後継者は必要だけど、あのメンバーを見て話を聞けば、絶対に携わりたいと思う人が増えると思った。
 とにかく後先のことなんて考えずに、とりあえず行動に起こせばめぐってくる縁や機会っていうものがあるんだなあと再認識。この、生山大學さんのメンバー、本当に素敵な仲間だ。良いなあと思いながら、とくたけ、みゆちゃん、あんこのことを考えた。私の仲間は、きっとあの3人。なにかを一緒に作ったことはないけど、何か共通しているからあの雰囲気、あの空気感が生まれるんだろうな。その共通しているものは、なんだろう。きっと、生山大學さんの人たちと似ているところなんだと思うけど。まだ、言葉にするのが難しいなって思った。3人に会いたいな、早く。

 今日は、時の重みの話が出た。大学1,2年生が感じる進路や将来への不安と、3,4年生が感じるそれは異なる。
時間の重みを軽視している低学年のころと比べ、高学年になると、進路や将来のことを先の話だと軽視できなくなる。奨学金返済、家庭の事情、将来社会に対する不安などなど、卒業後に不安を抱える学生は多い。今日の場合は全員そうだった。不安を感じていた。不安をできるだけなくした状態で学生にいて欲しいとは言う議論も出たけれど、私はそうではないなかなって思った。
 将来に対する不安や、てか将来に対さなくても、何か物事に対する不安は、否定したり改善したりぬぐったりするよりかは受け入れるものだと思う。痛みや不安も知っている人でいたいと私は思った。
不安から逃げているから行動している底上げの矢部さん、不安はつきものだってわかっているから、その不安と付き合う方法を見つけている。
私は、不安は自分を知る大切な指針だと思った。何に不安を思うかで何を大切にしているか、何を知っているか経験しているか(その逆も然り)、また逆に何に縛られているのかがわかると思うからだ。
不安になるのは今の自分を守ろうとするから起こるのであって、自己防衛としての不安を無くすことはしなくてもいいと思う。自己防衛機能は、自分がいままで経験して酷く嫌だったこととか予測のできない未知なものに対して働くと思う。
だから、不安とどうお付き合いしていくか、その付き合い方を大学生活の内に、いや生きていきながら学んでいきたいと思った。今のところ、不安を感じるから不安から逃げる考え方と、不安を感じるということは自分にとってプラスになることのチャンスかもしれないと不安=成長だと思う考え方の2つくらいかな、思いつくのは。不安って結局ストレッチゾーンであるから。不安が成長につながる成功体験をたくさんするのも一つ、不安と付き合っていく一つの方法なんだろうなって。でも、自分一人じゃ最初の一歩はなかなか踏み出せないから、それこそ原田さんのいう『伴走者』のようなきっかけを与えて成長の養分を与えてくれる人が周りにいたり、生山大學さんの仲間たちのように同じような年齢層の何かやっている仲間・友人に影響されたりすることでゆっくり進んでいくんだろうなと思った。
でも、それを俗にいう意識の低い大学生に紹介したところで、それは理論に過ぎないから、理論だけを言って信じるようなバカは私のような素直な人間くらいしかきっといないから、もし、意識の低い人間の意識が高くなって欲しいと願うなら、行動で思いを表現するしか方法はないんだろうなと思う。


今、書いていて、突然の大反省モードに突入した。今までの私は、理論ばっかり勉強して、わかったつもりになっていたんだなという反省をしている。結局、行動をして形になっていくその過程を踏んだ人でしか見れない景色と一緒にいられない仲間がいるんだなということが今日分かった。
私は、人から意識高い系って言われているけど、本当にその通りだと思う。意識高かった、正確に表現するなら理論だけわかったつもりになって周りに動け動けって言ってばっかりの相当うざい人間だ。意識高いというか、意識だけ浮遊していて生きていないも同然、意識他界系大学生って言った方が良い。
理論はわかっているから頭の中ではそれなりなんだけど、それは人には見えない意識の中だけだから。実際の生身の岩見しおりは、動けていない人間だった。理論の中では完璧だけど、実践で行動して失敗するのが怖くて動かない。そして、どんどん自分のことが嫌になって、自己否定に走り出した私は、周りの人が動ける人間になってほしいから機会の提供をたくさんするようになったり、意識の低いと自分が勝手に思っている人のことを批判することで、自分をなんとか立たせようと、存在意義のあるものにしようとしていた。
自分の論理が正しいことを証明したいがために、自分ではなく人を動かそう=他人に責任を負わようとしたり、「あの人たちは何も考えていないんだろうな」とか思いながら、いろんなことを考えている自分を肯定したり、安定した生き方をしたい価値観を批判することで、リスクを恐れず行動する(なお、頭の中だけ、実際はそうでもない)自分を肯定していた。

急に、思い出した。半月くらい前、私が尊敬して信頼してやまない底上げのことを「宗教だ」と言われ、そんな底上げにインターン行ったことや京都の月一行動学舎に参加していることを「お前のやっていることは金と時間の無駄だ」と言われ、ものすごくショックだったし、憤怒したことがある。
その時は、自分の信じているものを酷く否定され、泣いた。怖かった。自分が信じているものは、自分の理論の中では人類全員が理解できるものだと思っていたからだ(当時はアホだった)。
でも、実際は、そうじゃない。私が本当に良いと思ったもの、これには価値があると思ったものでも、それは私の頭の中ではそうであるだけで、他の人がどう思うかはわからない。自分は、そんな自分の理論を守るために他者へ責任転嫁したり、他者批判をしたり、自分への批判に対して過剰なまでの拒否反応を起こしていたと思う。
 でも、今、もし、同じことを言われたら「そうなんよ~私、底上げ教の信者なの。今度、持ってるだけで人生が変わる壺持ってくるね!」って言える。いろんな人がいる中で、いろんな価値観や考え方、信じるものがある。すべて同じなわけがない。だから、もし今度、否定や非難の声を向けられた時には、自虐しちゃおうって思う。自分の理論を守るため、対立するのではなく、自分の理論はそれで大切にするけど、人同士違いがあることを受け入れて、笑いに変えていこう。

なんか、すっごい話が飛んだけど、また生山大學さんにお邪魔したい。美味しいお魚とか蟹とかをお土産に(財布のひもが許す限り)!
こんなに素敵な気づきを頂いたお礼に、また行くぞ。

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