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象さんの POISON GIRL BAND

街録CHにPOISON GIRL BANDの吉田さんが出演した事が話題になっています。

そしてその中で阿部さんの近況やPOISON GIRL BANDが活動休止している事などに触れていました。

3回もM-1ファイナリストに選ばれている上に、あの独創的なスタイルでの面白さに強い印象が残っている人が視聴者に多かったのでしょう。現在漫才を行っていない事を知った人々がそれを惜しむ声をコメント欄に響かせていました。

厳密に言えば、もちろん解散を表明したわけではなく、あくまで活動休止状態であるのでもうPOISONの漫才が見れなくなってしまったと判断してしまうような段階ではないとは思います。またPOISONは一度解散も経て組み直しているコンビでもありますし、阿部さんと吉田さんお二人のコンディションやバイオリズムの問題でもあるように感じます。吉田さんは作家としての活動もしながら表に出る事も続けていますし、阿部さんともやり取りをしていると話しています。

なので個人的には気長に待ちたいなと思っているのですが、今回気になったのはそれによって表出してきた潜在的なPOISON中毒者の声です。

こんなにも「POISON GIRL BANDの漫才が観たい」という人たちが居るのだなぁと改めて思いました。

あの一度味わったら癖になってしまう面白さに対して今回の反応は当然の結果だと思います。しかし、わかりやすく賞レースで優勝を果たしていたり、タレントとして沢山のメディア出演をしてきたタイプでもなく、かと言って単独ライヴを多数行ったり作品性の高いDVDを発売したりする様な第2芸能界的な場所へ積極的に軸足を置いてゆくようなタイプでもなかったようにも感じます。その上でこういった声が上がると言うことはPOISONは漫才というものでのみこの強度の支持を得ているという事であり、そしてその支持層も含めて逆説的にその部分の洗練具合が突出していたと物語れるのではないでしょうか。

そしてこの活動休止を表明する事で潜在的な支持者が浮き上がってきた一連の現象のようなものを見ていてある漫才コンビを思い出しました。


それは

象さんのポット です。


POISON GIRL BANDと象さんのポットの類似性

象さんのポットは1983年~1994年まで活動していた漫才師です。日本映画大学の生徒だった、としゆきさんとひとしさんが漫才の授業でコンビを結成。ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、とんねるず等を輩出したオーディション番組お笑いスター誕生に出演し7週勝ち抜きで銀賞を獲得しています。ボケツッコミという役割を廃した独創的な漫才のスタイル、それまでのお笑い芸人とは全く異なるテンションを低く淡々と不可思議なボケを重ねていく芸風とキャラクターは一部のお笑いマニアや業界人から高く指示されたと言われています。

おぎやはぎやサンドウィッチマン、東京ダイナマイトなどの声を張らなかったりローテンションで繰り広げるタイプ、シュールや不条理と言われるような東京漫才の礎を築いたとも言われています。

現在は解散し、ネタ作成を担当していたとしゆきさんは「時生今日人」という名義で映像作家として活動しているそうです。

どことなくPOISON GIRL BANDのコントのような雰囲気と言いますか空気感があって面白いです。


どうでしょうか?

そのスタイルと芸風と立ち位置に類似性を感じやしませんでしょうか。

また象さんのポットの解散理由もネタ作りを担当していた側じゃないひとしさんの方から話を切り出したそうです。そこら辺はとしゆきさんと交流のあったランジャタイが話していたりします。

こういったなんとなく読み取れる関係性もどこか似ているなと感じます。

あくまで個人的な感覚です。
というか、だからなんだという話しでもあります。

しかしながらこの類似性はなんなのでしょう?



もちろんボケツッコミを明確に分けず二人ともローテンションで不条理な掛け合いを重ねてゆくスタイルの漫才師は他にも数多く存在していますし、また革新的な独自性でもって時代が追い付いていないと評されながら活動を休止しているコンビも数多く存在していると思います。

ただこの微かに感じてしまうシュールや不条理と呼ばれるタイプの漫才師特有の舌触りとでも言えましょうか、なんというかもっと風呂敷を広げてしまえば立川談志の言うところ「言葉のイリュージョン」というものを漫才の掛け合い置いて成立させている最小領域みたいなところでこの2組はかなり近い感触があるような気がするのです。



今回はこの

POISON GIRL BANDと、

象さんのポットの 類似性

について考えてみたいと思います。

あくまで個人的な捉え方のひとつですがお二組がお好きな方はよかったら一緒に思い巡らせれましたら幸いです。



ではまず

単純にこの2組の類似点を上げるとしたら最初に出てくるであろう、「ボケに対してツッコミを入れない」という部分について考えていきたいと思います。

ボケに対してツッコミを入れない


POISONは初期の頃の吉田さんがよく「便乗ボケ」と形容されていてその時のスタイルがかなり象さんのポットに近いと思います。

こうして比べて見るとPOISONの方が言葉の掛け合いの中で引っ掛かりのあるワードをボケとして放ちそれに対して明確にツッコミを入れず半分乗っかるような形で話を進行させてゆくのに対して、象さんのポットはどちらかが小噺的にオチのあるエピソードを話してその返しが明確にツッコミを入れず半分乗っかってゆく事を交互に繰り返して進んでゆきます。

どちらも「会話の成立していなさ」に面白味が発生しているのですが、そのサイズ感のようなものが時代とともに変容している事を感じ取れます。今の方が圧倒的にボケ数が多いしそこに辿り着くまでが早くなっていると思います。ただこの点に関してはこの2組だけでなく漫才師以外にもこういった傾向は表れています。

この「会話の成立していなさ」というポイントに置いて、浮かび上がってくるのは「Wボケ」というスタイルではないでしょうか?

会話の成立していなさ=Wボケ

「Wボケ」の代名詞と言えばやはり笑い飯でしょう。そして最近そういったスタイルで頭角を現してきているのがDr.ハインリッヒだと思います。

ざっくりと大きく括るとPOISON GIRL BANDも象さんのポットもこの辺りと同じ範囲に当てはまると思います。

ただ細かい事を言えばやはりその醸し出てくる雰囲気と言いますかペーソス感に微妙な違いが感じられます。もっと言えば笑い飯とDr.ハインリッヒのスタイル自体にも違いはあります。


笑い飯はWボケなのですがWツッコミでもあります。どちらかがボケた後にその相手側がツッコみ、その後そのツッコんだ側が今度はボケその後に相手側がツッコむというやり取りを交互に繰り返す事でどちらもボケるというスタイルを成立させるのです。

それに対してネタにもよるのですがDr.ハインリッヒはボケに対してツッコミ的な反応や相槌を打つもののその後そのツッコミ的な役割だった方がそれを覆すようなボケを平然と行いそれに対してボケていた側がツッコミ的な反応や相槌を打ったりします。どちらがボケる側でどちらがツッコミ側を分量として多く担うのかのバランスはなんとなく固定されているように見えるのですが基本的にこのシステムでシームレスな「Wボケ」的な領域を展開させるのです。


どちらがPOISON GIRL BANDや象さんのポットっぽいかと言えばそれはDr.ハインリッヒの方の空気感になると思うのですが、この「Wボケ」のスタイルの漫才師とはそのシュールさや不条理さの混沌度合いに差異が感じられそれによって面白さの種類が若干違うもののように仕上がっていると思えます。

それは「「会話の成立していなさ」に対するツッコミ視点」ではないでしょうか。

「会話の成立していなさ」に対するツッコミ視点

「Wボケ」と呼ばれるようなスタイルの上記2組はその披露されている漫才の骨組みそのものが観客に対してボケとして提示されています。笑い飯はそのシステムが認知される以前の段階ではボケツッコミが入れ替わる瞬間の「代われぇ!」と言い放つ部分がウケていましたし、Dr.ハインリッヒは延々と続く悪い夢のような現実離れした描写の中で少しでもイメージ共有を出来た瞬間に観客の「何言ってんだこいつら」が頭上に浮かんだ瞬間に笑いが起きていると感じます。つまり舞台上の2人がボケて観客が全員でツッコんでるような状態です。

ですがPOISONや象さんのポットはそれよりもう少し舞台上の2人にツッコミ的な視点の余白があるのです。

完全に観客がツッコミ側に回っていると必ずしも言えないゾーンで繰り広げられている会話なのです。微量に考えオチ的な成分が注入されていて、この漫才の中でのみ構築されている法則性のようなものがうっすら感じられるという感覚があります。言語で例えると日本人にとって、Wボケが英語、POISONや象さんのポットは中国語ぐらいの解離のし方をしているのです。まだちょっとニュアンスはなんとなく分かるのがPOISONや象さんのポットと言いますか。

非常に感覚的な話になっているので、この「会話の成立していなさ」を面白さの肝としている漫才のスタイルに、実際に役割としてツッコミが明確に組み込まれているタイプの漫才師を比較対照として並べてみると分かりやすくなるのかもしれません。

笑い飯のシステムに明確なツッコミの役割を組み込んでいるスタイルは

Aマッソ だと思います。

ネタによるのですが、加納さんが一見するとツッコミのポジションを取っている様でいてそのワードや言い回し、ツッコむポイントや逆に流しているポイント、もしくはツッコミつつもそこに乗せている感覚や思想的なもの派生して付け加える別の要素などがボケのそれになっている部分がAマッソの独自性であると感じます。ともすればそれは文学性とも呼べてしまうような代物をボケの側からではなくツッコミ側から放っています。これによって笑い飯のように交互にボケツッコミを繰り返す事なく、村上さんはボケのまま加納さんはツッコミのまま「会話の成立していなさ」を提示出来ています。ボケツッコミに置ける価値観の多様性とも言えるかもしれません。


そしてDr.ハインリッヒのようなボケに対してツッコミ的な反応や相槌を打ちつつもそれを覆すようにボケを両者平然と行うシステムにツッコミの役割を組み込んでいるスタイルは

ブラックマヨネーズ だと思います。

ブラマヨも一見すると明確にボケツッコミの役割が分かれていて両者お互いの領域を侵食しないような立ち位置に居るかと思われますが、掛け合いがヒートアップしてきた中盤以降の流れの中でツッコミの役割であったはずの小杉さんが追い詰められてボケとしか思えないような発言をツッコミで放ち出します。そのパート以降ボケとして細かい事を気にしすぎる発言をしていた吉田さんがツッコミ的な機能を担っていくのです。これはボケツッコミという役割というより「大雑把な人」と「神経症な人」という役割でありそれがタイミングや角度によってどちらも論理が成立したり破綻したりするというシームレスな覆しが常に両者に孕まれていることを表されています。

いかがでしょうか?

笑い飯 と Aマッソ

Dr.ハインリッヒ と ブラックマヨネーズ

こうして並べてみるとどちらもWボケのスタイルにツッコミという役割を入れている事で「会話の成立していなさ」に対してツッコミ視点を獲得しやすくなっているのが感じられませんでしょうか?


さて、その上でPOISONと象さんのポットです。

この「会話の成立していなさ」に対するツッコミ視点に余白が感じられる2組に役割としてのツッコミが組み込まれたスタイルはどのようなものになるのでしょうか?

POISONにツッコミを明確に組み込んだスタイルは

シンクロニシティが近いのではないでしょうか。

よしおかさんのボソボソと呟くようにボケを提示してゆくそのサイズ感と阿部さんのワードの引っ掛からせ方に近いものを感じます。また西野さんの振り回されている感を醸し出しつつ全体的に回し気味にツッコんでゆくフォームは淡々としているテンションに違いはあれど吉田さんに似ている部分があります。これは後期の便乗ボケではなく明確にボケツッコミを分けた時のPOISONにかなり通ずるものがあると感じます。

会話スピード調整の主導権がボケ側にあるかツッコミ側にあるかがPOISONとシンクロニシティの大きな違いではありますが、スタイルだけでなくコンビバランスも近しいと感じます。またそういった演者技術的な部分だけでなく文脈構造的な部分に置いてもボケがそのボケを放つ理由のようなキャラクター設定も含めてきちんと描かれていると感じます。阿部さんのフルスイングもよしおかさんの拒否反応も相方に対する理解の無さが示されており、またその相方側の方の吉田さんと西野さんも理解をしようとする姿勢は崩さないけど親身になるほど介入はしないというような立ち位置に留まっています。よってお互いが理解し合わないまは突き進んでゆく「会話の成立していなさ」が両者強く打ち出されています。


象さんのポットにツッコミを明確に組み込んだスタイルは誰でしょうか?

こちらも解散してしまっていて漫才師でもないのですが、スタイルとしてはGO・JOが近かったのではないかと感じています。

俳優として活動している阪田マサノブさんのキャラクターの印象が強いとは思いますが、そのボケの放ち方は相方の吉見さんとの掛け合いを成立させてゆきつつも小噺的な話の膨らませを行った上でオチに向かってゆきます。コントという形式を取りつつも言葉の笑いが重視されていて演技の中で別の不条理空間を作り出しそれを「会話の成立していなさ」として提示してツッコまれるという少し二重構造になっています。

これは象さんのポットがショートコントを行っていた時の構造とちょうど逆の割合で成立していると思います。コントの中で繰り広げられる小噺を会話として噛み合わせないボケ方と、観客との掛け合いとして提示されるショートコントの中で会話の噛み合わせないボケ方は、そこに演じ込みとしてベースに敷かれているキャラクターの違いはあれど味わう不条理感覚はかなり近しいものがあるのではないでしょうか。GO・JOのようなキャラコントの土台の上にギリギリ乗りながらもそのボケ方にリアリティを保ったまま不条理な事を言うラインのネタは昨今あまり観れなくなったように感じます。象さんのポットもGO・JOも漫才とコントというジャンルの違いはあれど突き詰めていた方向性は似た領域だったのではないでしょうか。


さて

POISON GIRL BAND と シンクロニシティ

象さんのポット と GO・JO

こうして並べてみるとAマッソやブラックマヨネーズよりもそこに入るツッコミ視点に、より活動区域が広く設けられている事が感じられはしないでしょうか。端的に言えばAマッソやブラマヨよりツッコミにキャラを乗せていないというか。ツッコミにアクがなくてより純度の高いツッコミという役割に当てはまれる現象が発生していると思います。これが「「会話の成立していなさ」に対するツッコミ視点」でありその余白です。

漫才として披露されている会話劇そのものに要するツッコミの割合という感じです。もし今上げた面々に3人目の相方がいてそのポジションがツッコミだった場合どのくらいメタ的な視点を獲得できるかの違いなのかもしれません。笑い飯やDr.ハインリッヒには「何言ってんだ」というシンプルなツッコミで成り立つ可笑しさですが、POISONや象さんのポットは「何言ってんだ」だけではなく「それはわかるのかよ」「その返しおかしいだろ」「どこ掘り下げてんだよ」「急にベタだな」「そもそもテンション低すぎだろ」というようなツッコミのバリエーションが豊富になると思います。

ピン芸で言えば街裏ぴんくの漫談には「全部嘘だろ」というシンプルなツッコミで成立させる事が出来ますが、永野のネタには「何でそれが面白いと思ったんだよ」という一周回った視点でのツッコミを必要とするという構造と一緒です。

ちなみにですがダウンタウンも初期の頃は明確にボケツッコミを分けていないスタイルだったという話も聞きます。数少ない資料を観るとうっすらとその名残が感じられる漫才も残っています。そしてこれらのスタイルにツッコミ視点を持ち込んだ形に近いのはまんじゅう大帝国ではないかと感じています。



長々となりましたが、こういった要素によりPOISONと象さんのポットは「ボケに対してツッコミを入れない」事での「会話の成立していなさ」に対するツッコミ視点が余白として近いゾーンにある、という事がなんとなく感じ取れたのではないでしょうか。


そして類似性という点でもうひとつ
「テンションの低さ」というものも上げられると思います。

テンションの低さ

漫才に置けるスタンダードなテンションというものがあるのだと思われます。例えばアンタッチャブルやタイムマシーン3号、横山やすし西川きよしなどはどちらかと言えばハイテンションにベースが設定されていると思います。

そしてそこよりやや下がるけれども日常会話のそれよりも少し上がっていて、ハイでもローでもない形式ばった喋り方になっているナイツや和牛、磁石あたりが漫才の型と呼べるテンションではないでしょうか。

それらと比較した場合、さらにそこから一段下がる人前に出るような覇気ではない喋り方をしているおぎやはぎや馬鹿よ貴方は、オズワルドなどのローテンション漫才師。POISON GIRL BANDと象さんのポットはここに属していると思います。

これらのテンションの違いを比べて観てゆくと、ざっくりとした印象ではありますがハイからローに降りてゆくにつれ間合いが延びてゆくためかツッコミのポジションの方にも可笑しみを含ませてゆく分量が多くなっていっているのが感じ取れます。そしてその可笑しさの方向性はなんという滲み出るような佇まいからくるくすぐりがベースにある印象です。ローであるがゆえに自然体を演じ続けている異物性を静かに浸透させているかのような塩梅なのです。

そしてその上でPOISONと象さんのポットです。この2組ももちろんツッコミのポジションの方にも可笑しみを含ませています。ですが上記したように「ボケに対してツッコミを入れない」のです。実はローテンションで明確にツッコミをここまで要さないスタイルはかなり珍しいと思います。おぎやはぎにしろ馬鹿よ貴方はにしろオズワルドにしろ、やはりキャリアを重ねていくにつれなのかツッコミが分かりやすくボケへの指摘を行い観客に笑いどころを提示する作業をしっかりと担っています。

やはりそれは漫才という形式上、2人の人間が目の前のお客に向かって語りかけているという構造のためどうしてもその提示が必要になってくるのではないでしょうか。「ボケに対してツッコミを入れない」という行為は観客や視聴者にツッコミの役割を担ってもらうというルール設定であり、それは日常生活で言えば会話の成立しない相手とのコミュニケーションに他なりません。

会話の成立しない相手とのコミュニケーション

このスタイルの到達点のようなサンプルがあります。

笑っていいともの最終回目前の回に披露された太田光さんとタモリさんのユニット漫才です。

事前にしっかりと打ち合わせが行われた上で2人があまりにも支離滅裂で意味不明、荒唐無稽で出鱈目な会話とも呼べないようなコミュニケーションを提示し漫才としての原型をほぼ留めていない漫才を行ったのです。

テレビタレントとしてすっかり認知されている2人が普段とは違う様相で繰り広げられる無理問答染みたやり取りはタカアンドトシのトシさんが観客の代弁として外側から野次るようにツッコミを入れる事で笑いとして成立するという一流タレントの最高峰の余芸がそこにはありました。簡単に言えばふざけ倒していました。


そして雑に言えばPOISONや象さんのポットは突き詰めるとこういった面白さになるのだと思います。

意味や理解やもっと言うと表層的には面白さそのものなどが無いという状態です。一度それを空洞的に作り出してからその周囲である外側からのツッコミ視点で面白味を見いだすという脳処理を無意識に働かせることで成立するというような行程を辿っています。漫才という会話の形式が意味の無い単語の繋ぎ合わせに過ぎない事を確認させてくれるのです。


もちろんただ滅茶苦茶な事を言えばいいと言うわけでもないと思います。太田さんとタモリさんにはテレビタレントとして認知がフリとして観客や視聴者に刷り込まれていたからこそそのギャップの幅によって滅茶苦茶な事をしている可笑しみが発生していたのはもちろんなのですが、そこにはその上で面白く聞こえる声の出し方、間合いやテンポ、緩急、抑揚、所作、佇まいはあったと感じます。この即興コンビに置いてはやはりタモリさんの方にその可笑しみの主軸があったように思います。


そしてその可笑しみの主軸はPOISONに置いては阿部さんであり、象さんのポットではひとしさんがそれぞれ担っていたのではないでしょうか。

自然体と可笑しみの主軸

特にこの「人志松本の◯◯な話」で阿部さんが披露した原付に乗ってた時の話は、その話し方のテンポ、間合い、抑揚の完成度がかなり高かったと思います。ちょっとネタバレになってしまいますが正直言い方だけで成立させています。というかそれだけでここまでの可笑しみの強度を捻出させる事が出来る事に阿部さんの凄みはあります。

またひとしさんの可笑しみも漫才を見れば一目瞭然だと思います。特に突出していたのは受けの間合いの上手さです。これも言い方だけだと捉えてしまう事は簡単ですが、この言い方を出来る人は今の時代でもなかなか居ないと思います。というか今の時代ならもっと出来ないと思います。スリムクラブのようにたっぷりと間合いを取りすぎる事で発生する可笑しみではなく、そのゾーンに突入する既の所ギリギリで言葉を発するがゆえに生じる納まりの良さに可笑しみがありそのさじ加減に絶妙さがあります。

そしてPOISONと象さんのポットはこの阿部さんとひとしさんのボケとツッコミというポジションが漫才を行う時の立ち位置も含めて逆に配置しているところにポイントがあると思います。つまりは可笑しみを受け流すか、もしくは受け止める可笑しみなのか、ボケという名の不条理への対峙が時代とともに変容した事の現れであるのかもしれません。

この動画の阿部さんの引きこもり時代の話も絶妙にその可笑しみをローテンションで淡々と披露し周囲に受け流されること込みで面白さが増幅していると思います。

引きこもるという行為そのものが自己と世界の対峙に感じる不条理性への受け止めであり、その受け止め自体がボケとして機能し受け流される事も含めて自己が不条理な存在として世界に対峙するという循環が感じられます。

「ローテンションでボケに対してツッコミを入れない」事で引き起こるその可笑しみの主軸は、極めて自然体でありながらその瞬間漫才を行っていない全ての現象事象に対峙して余白にツッコミを入れているのと状態としては一緒なのではないでしょうか。

亮さんの「もう一度引きこもれ」というアドバイスは、そういった自然体で不条理に対峙する事への養いをするという意味であながち間違っていないのでは?と思うのはいささか深読みしすぎでしょうか。

回りくどくなりましたが「テンションが低い」という点で、両者可笑しみの主軸が自然体で不条理に対峙する事で面白さを発生させているのと、それを受け流すか受け止めるかという部分での性質の違いも感じ取れたのではないでしょうか。


POISON GIRL BANDと象さんのポットの不条理


さて、まとめると

POISON GIRL BANDと象さんのポットは

「ボケに対してツッコミを入れない」事での「会話の成立していなさ」に対するツッコミ視点が余白として近いゾーンにある

という点と

「テンションが低い」という点で、両者可笑しみの主軸が自然体で不条理に対峙する事で面白さを発生させている

という点で

類似性がある事がなんとなく感じ取れました。


もちろんこの点に当てはまる漫才師は数多いるでしょうし、これからも観るのでしょう。ですが、あくまで個人的な捉え方とした上で類似性を感じた2組の漫才師がツッコミやテンションという部分で面白さを模索し洗練させそのスタイルをここまでの完成度にしそして評され時代的なものも含めて現時点での立ち位置になっているという事実を胸に留めておきたいなと思います。

皆さんはどう感じますでしょうか?

POISON GIRL BANDや象さんのポットへの「時代が追い付かなかった」というような評価や印象は。


それはその時覚える不条理さも含めてある種の普遍性も同時に舌触りとしてあります。

今後どうなるのかはわかりません。もう観れないかもしれないし、案外あっさり活動再開をして普通に観れるかもしれません。それはPOISON GIRL BANDにしろ象さんのポットにしろ自己以外の世界への対峙というものは不条理である事そのものなのです。ですがそんな中で私達がPOISON GIRL BANDや象さんのポットに対して感じた面白さは確かなものだと思います。そしてそう思いながら淡々と進んでいくしか出来ません。



そう感じる事すら不条理なのでしょうか?



この言葉の羅列も

POISON GIRL BANDや

象さんのポットのような

意味の無い単語の繋ぎ合わせに過ぎないのですから。



そういう事って、あるよな 。












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