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地政学的観点から見たハライチ

ハライチがM1グランプリ2021にエントリーしている事がわかり主にTL上でその事が話題になっていましたね。


この事から感じるのは、Twitterでも呟きましたが

「M1グランプリというコンテンツのプラットフォームとしての盤石ぶり」と

「ハライチというコンビの特異な立ち位置」です。


M1グランプリというコンテンツのプラットフォームとしての盤石ぶり

まず「M1グランプリというコンテンツのプラットフォームとしての盤石ぶり」についてですが、ここ最近のM1(得に2015以降からの)に対する芸人さんの関わり合い方、取り組み方、距離感のようなものが変容してきているなとひしひしと感じています。それはM1というコンテンツがテレビ番組として行なわれる賞レース以上の意味や要素を持ち合わせ始めているという事なのではないかという感触があるのです。



ラランドはもはやお笑い好きでなくともその名前は耳にした事がある人も多いと思います。ただ、個人的になりますが彼女達のその活躍を一番最初に知ったのはM1の予選で目立ったコンビという触れ込みでTL上を賑わせていたのがきっかけです。そこからYouTubeのチャンネルに辿り着きGERAというラジオアプリ等、自己フィールドを主にネット上のサービスを中心にその支持層と知名度をデジタルネイティブ世代に波及させその注目度の高さをトピックにテレビなどの大手メディアへの進出の足がかりにしているという印象があります。この間M1の決勝の舞台には一度も足を運んでいません。つまりテレビに出る手段がM1の予選から勝ち上がるのではなく、かと言って全くの別ルートから突如として現れたという感じでも無いわけです。

同じような段階の踏み方には納言の「街ディスり芸」も含まれるでしょうし、ヒコロヒーさんもその注目度が高まったきっかけはみなみかわさんとの即席ユニットでのジェンダー的な観点の漫才をM1予選で披露した事を能町みね子さんに呟かれた事だったと記憶しています。

もちろん今までもM1の予選で注目度を集めて決勝には進出せずテレビで売れたという芸人さんは数多くいると思います。オリエンタルラジオなどがその筆頭的存在でしょう。ただそれはおそらくテレビ業界的なゾーンに向けての知名度の波及がまずあって起用されているというニュアンスだと思います。ラランドにしろ納言やヒコロヒー、ザマミィ、四千頭身などの主に第7世代と呼ばれてるけどその中心から少しズレるような立ち位置にいる芸人さんの多くは賞レースの予選というプラットフォームを既に顧客のいる「場」として扱いその中で商売をしているような状態なのです。それはテレビ業界に向けられて展開していないというわけではないと思うのですが、最大公約数的なマスとして視野には入れつつもそれより手前の範囲でダイレクト課金が成立するという構造を皮膚感覚として知っているという具合なのだと思います。その権益をどんどん拡散させる事で国家的な基盤をも飲み込む程の網を張り巡らせているGAFAとその上でフィールドを横断するように自身の利益率を高めてゆくノマドワーカー的な発想だと。



その事をどれぐらい意図的に演出しているのかは観ている側にはわかる術は無いのですが、オズワルドと空気階段のABCグランプリを見越してのラジオ上でのトークのやり取りはまさしくその大会そのものをプラットフォームとして扱った前提のパフォーマンスでもあったと感じます。M1を中心とした数多とあるテレビ番組としての賞レースとその土台となる吉本興行という組織そのものがもはやプラットフォーム然としている事を東京吉本に属している旧来のよしもとっぽくないと呼ばれ括られているような芸人さんは自覚しているのかもしれません。


さて、その上でハライチです。
この時代に権威と利益を集合知的に掌握し拡散し続ける賞レースビジネスや芸能界とその事務所、GAFA的な独占的支配的影響力を持つIT企業と資本主義社会の行方は気になりますが、それはすぐ答えが出るわけではないから一旦置いといて。

それを踏まえてからの

「ハライチというコンビの特異な立ち位置」という点です。


ハライチというコンビの特異な立ち位置

ハライチは何度もM1の決勝に駒を進めながら同時進行でテレビタレントとしても充分に認知されています。

芸人さんのタイプと言いますか、売れるきっかけには2種類あると思います。
「ネタ」と「それ以外」です。

かなり雑ですが大体この分け方でいいと感じています。

「ネタ」と「それ以外」

例えばダウンタウンやツービート、オードリーは「ネタ」だと思うのですが

タモリ、所ジョージ、ヒロミ、ナインティナイン、平成ノブシコブシ、フワちゃん、などは「それ以外」ということになると思います。

もちろん皆さん「ネタ」は大なり小なりやられていると思うし、逆に「それ以外」という要素も曖昧でありどこからどこまで何を「それ以外」であると定義するのかで変わるとは思うのですが、パッと言われて「ネタ」をイメージするか、そうではないければ「それ以外」かという条件でよいかなと思います。

ハライチはどちらでしょうか?
どちらでもあるような気がします。

その上でさらに細かく見ていくと「それ以外」の要素を「ネタ」に持ち込んでいるタイプもいます。

ロンドンブーツ1号2号やオリエンタルラジオなどがその典型だと思います。

彼らは「ネタ」そのものが「ネタ」然としていません。むしろその既存のネタっぽくなさ、つまりは芸人っぽくなさ、それが前提土台となってその上に「ネタ」が立脚しています。タレント性はたまた素人性のようなものを観客に提供した上での「ネタ」です。

さらにそれとは逆の方法論の「ネタ」の要素を「それ以外」に持ち込んでいるタイプもいます。

アンガールズや南海キャンディーズなどはそれが顕著だと思います。

彼らは「それ以外」に応用させれる事込みで「ネタ」を成立させているような所があります。いじられしろのようなゾーンを意図的にネタに組み込ませていてそのシステムをバラエティのトークや立ち回りに連結させる形で地続きにしてみせるのです。

さて、それらを何となく把握したとして

この
「それ以外」を「ネタ」に持ち込んでいるタイプと
「ネタ」を「それ以外」に持ち込んでいるタイプ

ハライチは一体どちらに該当するのでしょうか?


ハライチは「ネタ」か?「それ以外」か?

ハライチの「ネタ」と言えばノリボケ漫才です。


言わずと知れたハライチの代表作的なネタです。岩井さんの単語の羅列に澤部さんが相槌を打ちながら膨らませてゆく中でそれらの言語感覚や共通認識がどんどんゲシュタルト崩壊してゆき最終的にただただカオスで無意味なノリだけが存在しているという革新的かつシステムとしては普遍性を感じさせる漫才です。

この漫才の中で行われている事は
「それ以外(ノリ)」を「ネタ」に持ち込んでいるのか
「ネタ(ボケ)」を「それ以外」に持ち込んでいるのか
極めて曖昧な領域で成立している不思議な感触の面白さだと思います。

ロンブーやオリラジと比較すると一応漫才として形は成していると感じます。
アンガールズや南キャンと比較するとネタとしてはかなり変化球の一点突破型な代物です。

ですがどちらの要素も満たしながらタレントとしても漫才師としても綺麗に両立させているのです。この二項同体の絶妙なバランスにハライチの芸人としての才が詰まっていると感じます。

そしてさらに個々人で細かく見てゆくと、このノリとボケとのバランスは何層にも折り重なっている事がわかります。

特にノリボケではない漫才をいくつか観ると、そのネタ自体のコンセプトそのものが既存の漫才という土台に乗っかったままでありながら枠組みを外そうとしている原始運動のようなものを感じます。岩井さんの作家性はエッセイでもその土台に対しての枠組み外しを味わえますが、コンビとしてのネタにもその作法を用いて「漫才という形態をフリにして漫才自体を解体するかのようなボケのシステムを構築する」のですが「漫才としては根源的なところで成立させる」というロジックが特に根を張っています。「ダイエット」「政治家」「RPG」「妖精」「塩の魔人、醤油の魔人」などがそうです。

ラジオなどでのエピソードトークもその要領で最終的にはリズムネタのようなゾーンに突入させていると感じます。


またバラエティでの立ち回りを観てゆくと、そのキャラクターの属性をネタという範囲に留まらせたまま相反するように領域展開を成立させているのが確認できます。澤部さんの演技性は漫才の中でツッコミという位置付けをなされていますがどちらかというといじられ的な距離感の計り方の能力値が高くタイミングやボキャブラリというよりも寝技を連打し無理矢理場を繋げる事そのものに面白さを発生させているという感じです。この瞬間接着のみを繰り返す事で親しみやすい明るいキャラクター像を形成していますがこれはノリボケ漫才のシステムを認知しその説明書通りのいじりを駆使出来る先輩芸人の多い空間でこそ効力が増すのです。

なので同世代や後輩の多い座組や関東芸人中心の身内贔屓な空間だとまたポジショニングが変容します。毒を吐いてみたり圧的なものが若干強まる笑いの取り方をする傾向があるのです。ゴッドタンのマジ歌で岩井さんに強めにビンタした時の澤部さんの見極めが特に好きです。


これら個々人の性質込みで観てゆくと

岩井さんは漫才の土台に乗ったまま枠組みを外す事で独自性を生み出す
「それ以外」を「ネタ」に持ち込んでいるタイプで

澤部さんはキャラの一部分を膨らますことでバラエティポジションを陣取る
「ネタ」を「それ以外」に持ち込んでいるタイプで

ある事が感じ取れます。

コンビ同士でも相方のタイプと汎用する性質を持ち合わせながら、それを綺麗に両立させている。いやむしろこの分離している性質を体感として獲得し全体像的に表現してみることで昇華しているという具合でしょうか。岩井さんはネタというマクロの中でミクロな解体を施し漫才に落とし込んでいて、澤部さんはその漫才で組み立てられたキャラシステムを駆使してバラエティというマクロの中でミクロな触媒を成している。両者どちらからの視点で見るかで「漫才」という接合点がミクロなのかマクロなのか異なるという面白いポイントが存在しているのです。

つまりハライチは「ネタ」と「それ以外」のちょうど間の領域で成立しているのです。


ハライチという立ち位置の理由

ではなぜそのような難妙なバランスを成し遂げられるのでしょう?

その理由のひとつにコンビ名の由来となった埼玉県上尾市の原市という地域が関係しているのではないでしょうか。

原市(はらいち)は、埼玉県上尾市の大字。市の統計などでは原市地区で分類されている。郵便番号は362-0021[3]。前身となる自治体の原市町 (埼玉県)の項目も参照。鉄道駅はあるものの畑や田んぼが広がり、雑木林や原市沼などの湿地帯もあるなど、のどかな自然に囲まれた地域であるが、徐々に開発が進行し住宅団地や工場等の立地も見られる。面積は3.1639 km2で上尾市の町・字では大字平方に次いで広い。 Wikipedia「原市」より

そもそも都道府県に置ける埼玉という場所のパブリックイメージや江戸時代の陸路としての要衝からなるポジショニングと、その中での関東ローム層上大宮台地上での絶妙に都会でも田舎でもない場所という立地的バランスが、岩井さんと澤部さんの特性からなる関係性を包括しているように感じてしまうのです。

岩井さんの「根暗ヤンキー」と形容されたり「尖っている、腐っている」といじられたりする側面と「アニメオタク、BL好き、猫好き」という要素は少し時代が遡れば両立が難しいもしくはまだ限られた範囲でこそ効力が増すパーソナルだと理解されているかもしれません。

また澤部さんのデビュー当時の「童貞キャラ」的なものや「皆が好きなものが好き」というような取っ付きやすいお茶の間ニュアンスを武器として全面に出していながら結婚を機にそのいじられ方は許容しつつも「実は暗い」「学生時代はいじりを通り過ぎたいじめに近いものも受けていた」等の今までの骨組みを外しながら別の文脈の建造物を建てるかのようなキャラの脱構築をさり気なく遂行させていたりします。

これらの属性の横断とも呼べるような変容や両立は
地域性(ノリ)と時代性(ボケ)の関係に等号が結べるのではないでしょうか。

時代や地域が変われば澤部さんの体育会系マインドの方がヤンキー的だし、岩井さんの持つ文科系エレメントの方が大衆的ないじられしろがあると捉えられるのだと感じます。

それはやはり埼玉という東京に隣接する県の中の
上尾市という少し中心からずれた地域の南東部に位置している
原市という場所だからこそ均衡を取れる視野なのかもしれません。


いかがでしたでしょうか?

ハライチが「ネタ」と「それ以外」どちらの要素も満たし両立させるタイプであり、その源流は二人の出身地である原市という場所の影響があるのかもしれないという点から

「ハライチというコンビの特異な立ち位置」を

何となく共有できたのではないでしょうか?

ハライチの醸し出しているエモさのようなものは関東圏に位置しながら地方性の最大公約数を保持しているという項目が不特定多数的に共感を強く生むからかもしれません。

ちなみに付け加えると、
「ネタ」と「それ以外」という分け方は、芸能史等を遡るとかなり古い文献からそのジャンルの成り立ちや分岐点がわかるのかもしれませんが、近代のテレビ史を起点として考えた場合クレイジーキャッツの存在が大きいかなと感じています。本業落語家や演芸の畑ではない人々が余芸的にお笑いを取り入れるスタイルという部分に置いてそのどちらの側面も満たしていると感じます。それらがテレビの中でタレント性という機能を軸に「お笑い」的な文化として浸透しきった中でハライチが行っている「お笑い」的な芸能の上でのジャンル解体システム構築(岩井さんは音楽性への回帰、澤部さんは演技性を伴わせた幇間的な余芸の現代的な組み立て)はちょうどその中核のどちらの要素も持っているポイントに位置しているのかもしれません。


M1グランプリという全国区のプラットフォームでもハライチというコンビは埼玉の原市的なポジショニングを取っていると思います。既にメディア露出も多くなっていながら何度かポイントポイントで決勝には進出していてタレントとしてはフィールド横断を繰り広げ個々人では断層は違えどすっかりお茶の間に認知されたお笑い芸人でありながらこのタイミングでの参戦は自らの存在をミクロとマクロどちらに属させるか規定していないからこその挑戦なのだと感じます。

そんな中でのハライチのM1ラストイヤー
どんな漫才が繰り広げられるのか非常に楽しみです。

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