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1996年、夏

ゼロを含む3桁の掛け算


14の春

「ドン」。何が起こったか分からなかった。初めて感じる痛みだけで、立っていること、喋ることも出来なかった。蹲るだけだった。周りが話しかける声は聞こえた。目に野球ボールが当たった。何カ所かに分かれてバッティング練習をしていた。バッティングピッチャーをしていた僕。打ち返された打球を野手から取って、振り向いた瞬間談。隣の打球が左目に当たった。予防用のネットはなかった。病院で3週間入院した。退院時、医師から「少なくても1年間は運動禁止。片手のプロ野球選手(ジムアボット)はいるけど、目が見えなくてプロ野球選手になった人はいない。もう野球は諦めなさい。」と言われて、看護師と母親がいる前で泣いてしまった。野球が出来ると思っていた、多分好きだった僕。

14の夏~15の春 

家に帰って、中体連を控えた野球部を退部。体育の授業は見学。学校の送り迎えは親の車という日々を送る中、医師の言葉に反抗しだす。「ジムアボットも最初は周りから無理だと言われていたらしい。それでも諦めなかったからプロ野球選手になることが出来た。自分も医者に言われたから駄目だと決める必要はない。自分のことは自分で決めることが出来る。医者を見返す。」それから、甲子園を狙える高校を選んで受験勉強を始め、合間にボールを握ったり腹筋をしたり、出来るトレーニングをした。辛くなかった。むしろ高校で輝く自分を想像して、「今にみてろ」という気持ちだった。高校はトップの成績で合格した。

15の夏 

高校野球。甲子園。プロ野球選手。入院から帰ってきたら離婚した母親を助けられる。希望しか持っていなかった僕は、野球部入部後、夏には希望の半分が消えかかっていた。中学校時代バリバリに練習してきたライバルでもある同級生。1年間ほとんど運動をしていなかった自分。朝練、夕方の練習を苦もなくこなて、最終のバスが来る前まで自主練する先輩。練習についていくので精一杯だった。最初はキャッチボールもまともに出来ない。誰か片目をつぶってキャッチボールをしてみて欲しい。距離感がつかめない。夏休みに入ると、練習は一日中になる。休みは台風の時以外はない。もともと元日だけが休みの部だ。春に20名いた同級生は11名になっていた(秋には9名になる)。それでも辞めなかったのは、14歳があったからだ。余白じゃない。000があったからだ。炭酸飲料禁止、お菓子禁止、スポーツドリンクか果汁100%以外禁止。そんな僕に、38歳の私はあげたいと思う。一番大きいサイズのガラスコップに冷たい氷の入った生茶。

11名で挑んだ1年生大会は県準優勝だった。