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#84 早合点

『ものの見方が変わる座右の寓話』
書籍の中の寓話を紹介します。


「京の蛙と大阪の蛙」
京に住む蛙はかねてから大阪見物をしたいと思っていた。春になって思い立ち、街道を西向きに歩いて天王山に登った。

大阪に住む蛙はかねてから京見物をしたいと思っていた。同じ頃、思い立ち、街道を東向きに歩いて天王山に登った。

京の蛙と大阪の蛙は頂上でばったりと出逢った。互いに自分の願いを語り合った後、「このような苦しい思いをしてもまだ道半ばだ。この分では彼の地に着いた頃には足腰が立たないようになるだろう。

ここが有名な天王山の頂上で、京も大坂も一目で見渡せる場所だ。お互いに足をつま立てて背伸びをしてみたら、足の痛さも和らぐだろう」。両方の蛙が立ち上がり、足をつま立てて向こうを見た。

京の蛙は「噂に聞いた難波の名所も、見てみれば何ら京と変わらない。しんどい思いをして大阪に行くよりも、これからすぐに帰ろう」と言った。

大阪の蛙は「花の都と噂に聞いたが、大阪と少しも違わぬ。おれも大阪に帰る」と言い残し、のこのこと帰った。両方の蛙は向こうを見た心づもりであったが、実は目の玉が背中についているので結局は古里を見ていたのだ。


京の蛙も大阪の蛙も早合点をしている。早合点とは「よく聞かないで分かったつもりになること。また、十分に確かめないで勝手に承知すること」である。誰でも一度や二度、会話をしているときに早合点した経験があるだろう。早合点は人間関係を壊しかねない。

「聞く」場面に限らず、「見る」という場面でも私たちはしばしば早合点をする。

物事や人物を「よく見る」というのはなかなか難しいことだ。知識があればあるほど「よく見る」ことは難しくなる。

文芸評論家の小林秀雄は、知識はよく見ることを妨げると言う。

「見ることは喋ることではない。言葉は眼の邪魔になるものです。例えば、諸君が野原を歩いてゐて一輪の美しい花の咲いているのを見たとする。見ると、それは菫の花だとわかる。何だ、菫の花か、と思った瞬間に、諸君はもう花の形も色も見るのも止めるでせう。諸君は心の中でお喋りをしたのです。菫の花という言葉が、諸君の心のうちに這入って来れば、諸君は、もう眼を閉ぢるのです。それほど、黙って者を見るといふ事は難しいことです」(「美を求める心」『小林秀雄全集  第九巻』新潮社)


分かったつもりになること。また、十分に確かめないで勝手に承知し、恥ずかしい思いや、失敗したことがある。

「それって○○でしょ」というように、会話の途中でジャックしてまうことも。

「わかった」というある種の安心や達成感が、思考を停止させてしまう。

最後まで聴き切る。最後まで確認する。この丁寧さ、相手へのリスペクトが何よりも大事。

自分の得意分野、知識のある分野こそ注意が必要である。

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