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【短編小説】環礁

 市場スークのスピーカーから、礼拝の先触れアーザーンが流れる。続いて、潮風の中に祈りの言葉が響く。美姫の周囲の印僑や欧米系の人々はしかし、特に気に留める様子もない。多様な人々が集まったこの小さな島国では、宗教や思想などお互いの価値観を押し付け合うことはなく、また侵すこともなく皆が共存している。
 東洋系の一団が美姫の前を通り過ぎていく。手にしたバッグに、高級ブランドのロゴが読める。美姫の耳に馴染みのない言語を喋っているので多分、中国からの観光客だろう。
 買い出しのため久しぶりに出て来たマーレの街は賑わっていた。美姫は連れのユシフを待っている。ユシフは市場で、祈りの一団に加わっている。
 「コンニチハ。ゲンキデスカ?」 
 日本人と見たのか、老人が人なつっこい笑顔を浮かべて、片言の日本語で美姫に話しかけてきた。懐かしい響きだった。
 「私は若い頃、日本の水産会社の船で鰹漁の仕事をしていたんだよ」
 最初の片言以外は流暢な英語で老人は話し始めた。鰹の日本への輸出は、この国の重要な外貨獲得手段の一つだ。近年では鰹節に加工して輸出することも増えている。
 「お待たせ」 
 ユシフが戻ってきた。老人は陽気に「それじゃあ」と言うと去っていった。
 「知り合い?」
 ユシフが美姫に問う。
 「ううん、全然。ちょっと話してただけ」
 美姫は二年前、仕事を求めてフィリピンからこの島国に移って来た。フィリピンでは小さなダイブリゾートでガイドの仕事をしていたが、経営者のイギリス人が突如、リゾートの閉鎖を宣言した。同僚達ともバラバラになり、美姫は一人でこの国に来た。職場は首都のある北マーレ環礁に近い小島だ。
 この島国の国名の由来は真珠の首飾りともあるいは花の環ともいわれる。珊瑚礁が円環状に隆起した環礁と、一二〇〇余りの島々からなる島嶼国だ。美姫はガイドとして、イタリア人オーナーのダイブリゾートに勤めている。
 「厨房に頼まれてた香辛料も買ったし、そろそろ帰ろうよ。荷物は僕が船まで運ぶよ」
 「そうだね。でも、ちょっとだけコーヒー飲んでいかない?」
 「いいね。ここだけの話、職場のオーナー好みのエスプレッソは濃すぎると思うんだ」
 ユシフが悪戯っぽく笑う。現地人スタッフで十八歳、美姫とは姉と弟といった感じだ。童顔と癖の強い巻き髪が実年齢より幼く見せているが、頭の回転が早く気が利く。島の老人達に「賢者ハキームユシフ」と冷やかし半分の渾名をつけられている。
 美姫とユシフは手近なコーヒースタンドに入った。円卓に座ると、アイスコーヒーを二つ注文した。すぐに運ばれてきたコーヒーはよく冷えていて、普段職場で口にするエスプレッソよりも数倍甘かった。
 「やっぱり、こうじゃないとね」
 ユシフが満足げにコーヒーを啜る。
 「そうだね。美味しいね」
 美姫もコーヒーを口に含む。芳醇な甘みが口腔に広がる。体がほぐれていくのが分かった。深く息を吐いて、リラックスする。
 「島を出てくるのが朝早かったし、疲れた?」
 ユシフが気遣うように言った。さっきの老人の英語とは違って、ユシフの英語は少したどたどしい。普段はディベヒ語を使っているが、美姫はディベヒ語は喋れないので英語で話してくれる。
 「ううん、大丈夫。少し考え事」
 「やっぱり、あのことで悩んでるの?」
 美姫は二週間前、オーナーのマウリツィオからある告白をされた。
 「公私とも僕のパートナーになってほしい」
 告白は密やかに行われたのだが、どういう訳かあっという間に職場の皆に、オーナーが美姫に求婚したという噂が広がっていた。
 マウリツィオは若い頃は母国で俳優を目指していたというだけあって、容貌はかなりいい線をいっている。優しくおおらかな反面、企業家としての感覚も持ち合わせていて、リゾートのほかにレストランも経営している。この国は「一島一リゾート」という一つの島には原則一つのリゾート施設しか設置しない観光戦略を取っていて、その大半は資本力のある世界的グループの運営だ。個人経営の彼の手腕は確かと言って良かった。
 「なんで悩むの? 絶対に良い話なのに」
 ユシフの言う通りだ。申し出を受けたら、満ち足りた日々が待っているのは間違いない。
 でも何か違う。マウリツィオに告白されてから、何かがつかえたように胸が重い。
 告白されて以降、頻繁に思い出す男性がいる。さっきも老人の片言の日本語を耳にした瞬間、真っ先に彼の顔が頭に浮かんだ。ただし、恋人同士だったというような深い関係の相手ではない。かつての同僚の一人に過ぎない。だが、日本のどこか片田舎の出身で海好きが高じてフィリピンまで働きに来ていた彼とは、どこか心が通じ合っていた気がする。
 「美姫、このところ笑顔が少なくなったよね。うっかりも多いし、一昨日なんて危うくタンクバルブを閉めたまま潜ろうとしてたし」
 たまたま潜行する直前に気付いたが、一つ間違えれば命に関わりかねないミスだった。
 「求婚されるのって嬉しいことじゃないの? 僕にはまだ実感として結婚ってものが分からないけど」
 ユシフが疑問を投げ掛けてくる。
 「本当は嬉しいはずなんだけどね」
 そう答えながら、美姫は自問自答する。
 「ここの仕事も好きだし、オーナーが素晴らしい人なのも分かってる。幸せになれることも。でも、このままOKすると、何かを見失ったままになっちゃう気がする」
 「そんなの決まってる。前の職場にいた日本人のことだよ」
 「なんで分かるの」
 ユシフの断定に、思わず唇からストローを落とした。
 「フィリピンの話をする時、その人の関わる話だと美姫はとても楽しそうに喋るもの」
 薄々は気付いていた。整理をつけたつもりの感情が、実はうやむやのままなのを。だが、ここまで他人に見透かされているとは。
 「でも、相手は美姫のこと、どう思ってるのかな。もし、再会できてもさ……」
 一瞬、ユシフが言いよどむ。
 「美姫って韓国の人でしょ。上手く行くの?」
 本名は李美姫イミヒ、出身はソウル。ユシフが言うように、美姫と彼の国との間に近年微妙な空気が流れていることは、この国の新聞でも報じられている。ネットで少し検索すれば、お互いの国に対して罵詈雑言を浴びせている人々を見つけるのは簡単だった。通じ合うものがあったと思うのは、美姫の独りよがりの可能性も否定できない。
 「僕らからすれば、日本と韓国にそれほど違いがあるとは思えないけどね」
 異文化から見る異文化とはそんなものなのだろう。美姫にしても、同じ宗教なのに宗派が異なるという理由でシリアやイラン、イラクで人々が争っているという事実は理解しづらい。まして目の前にいる穏やかで聡明なユシフも、それらの人々と同じ神を奉じているとは。
 グラスの氷がからんと音を立てた。
 「出ようよ。それでね、島に帰る前にちょっと寄ってほしい場所があるんだ」
 
 ユシフの案内に従って美姫はボートを走らせた。やがて、ユシフが前方を指差した。
 「あそこだよ。まだ島としての名前はないし、ひょっとしたら名前が付く前に潮の流れが変わって砂が流されたり、海面上昇で沈んじゃうかもしれないけど」
 温暖化という一国では抗いようがない危機に、この楽園のような国が直面しているという事実が胸を打つ。ユシフが指した先には、クロワッサンからドーナツになりかわりつつあるような形のサンドバンクがあった。減速してボートを停めた。
 「死んだおじいさんが言ってたんだ。迷った時はここを歩いてみろ、そしたら答えが出るって。僕はまだそうしたことはないけど」
 ユシフの祖父によると、そのサンドバンクは全長一キロ足らず。まだ完全には陸地化していないが歩くぶんには安全ということだった。
 「行ってみなよ。何かあったらすぐにボートを寄せるから。でも僕が操船してもオーナーには内緒だよ。まだ免状持ってないし」
 ユシフが片目をつぶる。
 「分かった。行ってみる」
 存在自体がまだ心細い陸地に、舳先から降りた。砂状になった珊瑚の欠片が、足下でしゃりと鳴った。ボートを背にして歩みを運び始める。一度振り向くとユシフが微笑んでいた。「ほら、思い切って」。表情がそう言っていた。さらに数歩確かめるようにゆっくり歩くと、意を決して足を早めた。
 ボートから離れると周囲は砂と海と空しかなく、風と波の音しか聞こえない。鮮やかな太陽光を受けて澄んだ浅瀬の水の中には、小魚が群れていた。
 美しすぎてどこか寂しく厳しい風景だった。地上に自分一人しか存在しないような錯覚に陥る。「戻ろうか」。一瞬、弱気に捕らわれた。しかし、ドーナツ型のようなサンドバンクを歩いている以上、前へ進んでも結局は元の場所に戻る。それなら前だけ見たほうがいい。不安をうち消すよう足を運び続けるとやがて、歩き始めた場所が再び前方にあった。変わらずボートの上でユシフが笑っている。
 「どう?」
 ユシフが船上から聞く。
 「うん。決めたよ」
 「そう。良かった。おじいさんの言う通り、効果あったんだ」
 どう決めたのかまではユシフは踏み込んではこなかった。
 「帰ろうか」。ユシフが船縁ふなべりから手を差し出す。ボートへ引き上げてもらうと、美姫はエンジンを始動した。いつもと変わらない手際の良さで、ユシフが錨を上げた。

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