見出し画像

【短編小説】出遅れスタートライン

 アプローチを一歩踏み出した瞬間、ピンを何本倒せるかはだいたい予想がつく。球が手から離れるまでに少し修正できるものの、最初のほんの数動作でほぼ投球結果が予測できるのがボウリングだ。投球動作の最序盤でその一投の結果が分かるのと同様に、一、二フレーム目でストライクが取れなかったらそのゲームのスコアもほぼ見通せてしまう。序盤で大したスコアにならないことが分かってしまうと、その後最終フレームまで投げ続けるのがひどく無駄な時間に思える。物事は最初が肝心というのなら、投げ始めの動作と序盤のフレームという二つの「肝心な最初」でボウリングは成り立っている。
 近いことが書道にも言える。最初の一文字、いや一点一角でその書き始めた文字列がどの程度のものになるかはほぼ予測がついてしまう。だから例えば楷書で全紙作品を仕上げようとした時、最初のひと文字で納得いかない線や形を書いた時は、その後を書き続けるにはかなりの気合いと集中力がいる。結局どこかおざなりになって、とても作品には仕上がらないものになる。
 僕の大学生活の始まりもそんな出だしの悪さだった。一浪しても第一志望に受からなかった僕は、滑り止めの私大に半ば嫌々入学した。推薦やたまたま現役で合格したらしいあまり受験勉強に励んだ形跡がないほかの学生を見ると、ひどく高三からの二年間が虚しいものに思えた。初めての一人暮らしをもやもやした気分で迎え、科目登録など最低限の用事でしか大学へ足を向けなかった。そのせいかサークルやクラブ活動の勧誘をまるで受けることもなく、気がつけば桜もすっかり葉桜の四月半ばになっていた。方言も積極的にほかの学生と交われない原因の一つだった。
 だからといって、なにもサークルに属さないのも淋しい。先輩がいないと、単位の取りやすい楽勝科目や二年時に振り分けられるゼミの指導教授の情報も入っては来ない。それなりに話し相手を見つけてこちらでの話し方を身に付けないと、いつまでも方言が抜けない。そんな打算的な理由で、やむなく子供の頃から続けてきた書道のサークルに入会希望を出しに行ったのは、すっかりキャンパスの新入生歓迎行事も一段落した頃だった。学生生活の出遅れ感は否めなかった。
 ごーん。隣のレーンで誰かが派手にピンを吹っ飛ばした。
「やるじゃん、唐沢。またストライクかよ」
 まだ顔と名前が一致しない先輩が、レーンの唐沢先輩に声を掛ける。
「やるんだよ。地方出身者をナメんなぁ」
 二年の唐沢さんが応える。現役入学なので、先輩とはいえ同い年だ。
 「地方出身者をナメんな」というのは、ボウリングとカラオケは地方出身者が上手いという俗説に立っている。地方の高校生の娯楽といえばボウリングとカラオケしかないので、上京して来た時、総じて上手というのだ。都市部出身者は高校時代から合コンに出たりイベントサークルに所属したり、クラブ・・・(平坦に発音するほう)に通うとかほかにもっと娯楽があったので、ボウリングとカラオケはそれほど上手くはないとされている。
 ゴールデンウイークに帰省しなかった僕は、連休に暇なメンバーが集まってのボウリングに参加している。帰省しない新入生をよりサークルに繋ぎ留めるための企画らしい。
 同じレーンには三年生男子の時田さんと、もう一人先輩らしい女性、背は低いが笑顔が感じがいい新入生の博多さんがいる。彼女はよく笑うが、すごく無口だ。投球者は僕を含めて四人だが、スコア画面にはもう一人名前が表示されていて、その人の順番はスキップされている。
 何度目か先輩と思われるほうと言葉を交わすと、「同学年なんだし、敬語はやめてよ」と笑いながら言われた。だが、どう見ても僕より年上に見える。それに敬語のほうが訛りが出にくいので、少しは地方出身の劣等感を感じなくて済む。
「同学年?」
中園なかぞのといいます。老けて見えるのなら、その目は正解。わたし、社会人入試だから」
 一ゲーム目が中盤に差し掛かったころ、新たに男の人が僕らのレーンに来た。
「お、まだ追いつけるな。悪いが連続で投げさせてくれ」
 そう言うとその人は五フレームぶん、続けて投球した。僕らのフレームに追い付くと、シートに腰掛けた。
「遅いよ、芝崎」
「ちょっと野暮用でな」
 中園さんはなぜか、その男性ともタメ口だった。
 ボウリングは三ゲームで終了し、新宿駅西口の居酒屋に場所を移して懇親会となった。僕のスコアは上位のほうだったが、高二の一番上手かった頃にはとても及ばなかった。
 席はなんとなく中園さんと芝崎さん、博多さん、自分で固まった。僕以外の三人もそれほどサークル内に知っている人がいない感じだった。
 ビールが進むにつれて、それなりに四人に会話は増えていった。現役か一浪だと法的には酒はまだダメな年齢だったりするが、律儀にそれを守っている学生など皆無だろう。
「中園さんは芝崎さんとは知り合い?」
 ボウリング場での疑問を彼女にぶつけた。
「俺ら高校の同級生」
 芝崎さんが答えてくれた。
「こいつ、ひどいんだよ。さんざん大学楽しいって人に吹き込んどいて、自分はまともに講義に出席してないし、書にも取り組んでないの」
 中園さんがお酒が入って上気した顔で芝崎さんを指差して攻撃する。
「バイトに明け暮れてたからな」
 芝崎さんもしれっと中園さんの糾弾をかわす。夫婦漫才のような展開だ。
「あんまりこいつが楽しいっていうもんだから、わたしもどうしてもこの大学来たくなって、働きながら学費貯めてたの。だからこの年までかかったんだけど、まさかこいつと学生生活がかぶるとは思わなかった」
「もう一カ国、もう一カ国とバックパッカー続けているうちに学生生活も八年目に突入しちまった」
 芝崎さんは帰国してはアルバイト、資金が貯まると旅行というふうに学生生活を過ごしたという。大学生八年目ということは、二十代後半に差し掛かっている。とすれば、中園さんは卒業する時は三十路?
「ぎりぎり四年分の学費しか貯めてないから、残りの生活費なんかはバイト掛け持ちしなきゃ」
 二人は岐阜県出身だった。中園さんは高校卒業以来勤めていた地元の会社を辞めて上京してきたらしい。
「思い切りましたね」
 僕が感想を漏らすと、「また敬語になってる」と中園さんが笑った。続けて「苦学生は辛いのぅ」と芝崎さんが茶化すと、中園さんはお手拭きを彼の顔に投げつけた。
「まったく、たぶらかしておいて、からかうなっての。貧困女子に堕ちたら恨むからね」
「この年になって『女子』じゃないだろ」
 芝崎さんがさらにからかうと、中園さんは今度はテーブルの上にあった枝豆のカラをビシビシと芝崎さんに投げつけた。
「痛っ。目に塩が入るからよせ。もし貧困層に入りかけたら、その時は俺が養ってやるから。来春からは会社員の予定だし」
「だれがあんたの扶養家族になるか。そもそも会社がブラックだとか文句言ってすぐに辞めそうだっつーの」
 中園さんが笑いながらグラスを空けた。そのタイミングで別の先輩が呼び掛けたので、彼女はそっちを向いた。彼女が気付いたかどうかは分からないが、このやりとりの一瞬、芝崎さんはすごく真剣な表情を見せた。
 突然、ぐっと右袖を引かれた。引っ張ったのは博多さんだ。博多さんは少し目が据わり、良い感じに悪い方向へ出来上がりかけていた。酔うと変わるタチらしい。
「榎本はどの先生の講義を受けたかったん?」
 昼間の無口な彼女は完全にいなくなっていた。すっかり僕を呼び捨てだ。僕の返答も待たずに彼女がまくし立て始めた。
「わたし、宮本教授の民俗学の講義を受けたかったんよ。じゃけぇ、どうしてもここへ来たかったん」
 彼女の標的はすぐに僕から芝崎さんに転じた。「どこの国が一番面白かったん?なぁ?」と、芝崎さんにからみ始めた。
「どこが一番かは難しいな。総じて貧しい国ほど人が優しいってのが面白かったな。カメラ盗まれたりしたけど、盗む奴もどことなく憎めない、本当の悪人でないような。悪事を働く中にも、どこか愛嬌があるというか」
 博多さんの豹変も気にせず、芝崎さんは真面目に答えていた。それほど酒は強くないのか、上半身はぐらぐらと揺れだしている。
「ええなぁ。わたしもあちこち旅してみたいけど、二浪じゃけぇそうもいかんじゃろうなぁ」
 とてもそうは見えないが、博多さんは一つ年上だった。
「二年なんて大した遅れじゃないさ。本当に目的があれば何年もかけてするべきだよ。俺なんて、七年かけてさんざん東京の面白さを吹き込んでやっとまたあいつと同じ街に住めるようになったし」
 酔った二人の会話は噛み合っているのかいないのか、僕の酔った頭では判断が難しかった。芝崎さんの目線の先には中園さんの横顔があった。僕はそのうち美味いと思うようになるのかどうか分からないまま、今はただ苦いとしか感じないビールを口にし続けた。

この記事が参加している募集

新生活をたのしく

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?