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地域社会の未来を考えるという行為

倉敷市で開催された「高梁川流域連盟70周年記念講演」にて、パネルディスカッションのモデレーターを担当し、高校生・大学生が考える高梁川流域の未来について意見を聞きました。

パネルディスカッションの概要

ディスカッションを貫く全体の問いは

としました。大原あかねさんと問いを考えるなかで、イメージというものを言語のアウトプットではなく、視覚や触覚で未来を捉えたときに、それは「イメージ」が限りなくそのまま表現されるのではないかという仮説に至りました。

パネリストの高校生・大学生の回答はこんな感じでした。

ディスカッション中で展開した問いは下記のとおり。

  • 「個人的な思い」と「俯瞰してみると」で色や手触りが違うのってなぜ?

  • 想像した未来のまちの中に自分っている?いない?

  • 改めて、どんな未来をイメージしましたか??

  • 願望が生まれるためには何が必要なのか?

  • イメージした未来に近づくためにはどんな手立てが必要だろう?自分がやりたいことや大人に協力してもらいたいこと

高校生・大学生の回答からの考察

「俯瞰してみると」の回答に影響を及ぼしているのは、それぞれが住むまち(市町村)の文化や自然、特産品などの産業、原風景。一方で、「個人的な思い」には、人と人との温かい相互作用が反映されているようでした。

想像したまちに自分がいるようなイメージで考えたのは2人、いないイメージだったのは4人。イメージした未来について、何か新しい創造性を見出したイメージだったのは3人、現在の延長として維持・継続のイメージだったのは3人でした。

未来を想像するという行為とは「予測」か「願望」か。成長社会においては予測と願望にさほど差分はなかったように思います。成長の斜面を振り返りながら、この先もきっとこの坂道は続くだろうと予測し、それは願望でもありました。一方で、僕らが生きてきた30年は踊り場の成熟状態でした。平坦な道を地続きで予測すると、その先は現在の維持・継続となるわけで、新たなポイントを願望として創造する必要があります。

では、願望の創造にはどんな要因があるのでしょうか。ディスカッションの中では、挑戦できる機会ややりたいことをやりたいと言える環境が必要なのではないかという話も出ました。

個人的に思ったのは、過去からの延長では創造できない場合、違うところから借りてくる思考(アナロジー思考)によって、願望が創造可能ではないかということです。

時間軸の延長とボートの数

しかし、このディスカッションの中で彼らが維持・継続したいと考えていたのは、環境の保全や文化の継承の領域であり、維持がある種の理想状態。何か新しい創造性を見出したイメージは産業の領域で、これは発展が理想状態なので、どちらも願望足りうるイメージだとも(後から)思いました。

未来を考える行為について、フランスの詩人・ポール・ヴァレリーの詩(下記)を引用しながら、このディスカッションから触発されることがありました。

湖に浮かべたボートをこぐように人は後ろ向きに未来へ入っていく
目に映るのは過去の風景ばかり 明日の景色は誰も知らない

ポール・ヴァレリー

ひとつは、目に映る過去をどこまでの時間軸で考えるか。自分の生きた(直近)30年は踊り場だったけど、高梁川流域の70年、あるいはもっと長い時間軸では過去のかたちや捉え方は異なります。

もうひとつは、ボートは1隻なのか。浮かぶボートはもっと多く、互いに触発されながら集合知で未来を創造していくことで、新たな目標地点が見えてくる気もしています。

パネルディスカッショを省察する

聴衆としても、司会者・登壇者としても、パネルディスカッションって難しいなと毎回思うわけです。パネルディスカッションを工学的に捉えることで、この足踏み状態から少しでも前進できるのではないかと思い、司会者としてのファシリテーションを省察しました。

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