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町田くんが、他者のために在る自己を教えてくれた。

町田くんの世界

最近(今更ながら?)、こんなマンガを読みました。

人好きでお人好しな高校生・町田くんの高校生活を描いた物語です。

得意なことが何もないと本人は思っているけど、周りからは愛されている町田くんは、例えば知らない人であっても、とにかく人の役に立とうとします。そんな町田くんと関わった人たちが、彼の周りにどんどん増えていきます。

さて、ここで考えたいなと思ったのは「仕事」についてです。

なんで仕事するんですか?

と聞かれて、「お金のため」と答える人もいれば、「やりがい」と答える人もいるでしょう。個別解の一側面としては間違っていないと思いつつ、その回答にどこかモヤモヤしていた自分もいました。

『町田くんの世界』を読みながら

仕事=自分の才を使って誰かの役に立つ

これが(僕の現状の)最適解ではないかと思いました。

時間の区別

この前提に立って、いくつかの点を考えていきます。まず、自分の時間の使い方。単純化すると、

仕事=誰かのために使う時間
仕事以外=自分のために使う時間
※家事育児は一旦考えないとする

となります。そうなると、仕事中は常に誰かのために時間を使っているので、それが誰なのかを各人が明確にもっておく必要があると考えました。

この点において、「ああ、僕は町田くんほど誰かのために頑張れていただろうか」と、自分のことを反省しながら振り返りました。

仕事を選ぶ

つぎに、仕事の選び方。「将来の夢ってなに?」「やりたいことってなに?」という問いかけに、これまたモヤモヤしていた自分がいました。

これらの問いは、個人を他者から切り離しても答えを成立させることができます。プロ野球選手になるとか、大金持ちになるとか。そこに具体的な誰かがイメージできていなくても、いわゆる夢として個人が目指したい姿が成り立つわけです。

一方で、すべての仕事が夢の回答選択肢に入っているわけでもないですし、すべての人が「○○という夢がある」と回答できるわけでもありません。

「仕事=自分の才を使って誰かの役に立つ」という前提においては、「やりたいことってなに?」という問いに即答できなくても、

  • 自分の才が何か

  • 誰の役に立ちたいか

ということに答えることができれば、仕事が選べることとなります。やりたいことの探究は、内発的動機を醸成する一方で、個人と社会構成員としての個人を混在させるという功罪があったのかもしれません。

自分を知るために

では、「自分の才が何か」「誰の役に立ちたいか」はどのように探究されていくのでしょうか。

僕がパッと思いつくのは、公共性を獲得していく過程でした。誰かから「ありがとう」と感謝されるために行動し、実際に達成できるか。こうした経験の蓄積と省察によって、「自分の才が何か」「誰の役に立ちたいか」という問いに対する自分固有の答えの輪郭が見えてくるように思います。

そう考えると、役に立ちたいと思える対象や行動は多種多様ですから、学校生活の中だけでは登場人物が足りないのかもしれません。

公共性の差異

個人がもつ公共性には当然ながら差異があるように思います。例えば、公共圏の範囲や他者のために使える時間などの感覚の差異です。

自分と離れた場所で災害や紛争があったとき、自分のこととして捉えるかどうか。自分にとっての「公共」の有効範囲の設定如何で、その場所は自分の庭か対岸が決まっているでしょう。
あるいは、長時間労働で心を擦り減らしてしまったとき。自分のために使う時間と他者のために使う時間のバランスについて、自分の最適解と現状にギャップがあるのかもしれません。(念のため、他者のために時間を使う=自己犠牲という定義ではないです。)

しかし、その範囲や時間は可変的であると思うので、仕事をするなかでの経験の蓄積によって、拡張・変質していくのだろうと思います。個人の公共性がどのような要因で変質していくのかは、個人的にとても興味深いので、もう少し探究していきたいところです。

ジレンマ・マネジメント

  • 自分がやりたいことか

  • 誰かの役に立つことか

この2つは二元論ではないように思います。プロ野球選手だってお金持ちだって、誰かの役に立っています。好きだから続けられて、次第に得意になっていき、それを誰かの役に立つ場所で活かすことができた。そんな順序があるように、入り口が違って、やがてオーバーラップして(重なって)いく。

一方で、

  • 個人

  • 社会

の二元論においては、個人世界の個人に焦点が当たり過ぎた、もとい、社会(共通世界)における個人との区別がなされなかったのかもしれません。

その区別を、今回は「他者のために在る自己」という点で切り取り、考えてみました。なぜ、他者のために自己が在るのか、その理由・動機について、人類は相互扶助で助け合いながら生存していく生き物だから、ということも考えられるでしょうし、町田くんは「人が好きだから」という個人の嗜好から説明していました。

何がしっくりくるかは人それぞれだと思いますが、各人がしっくりくる納得解を探っていくことは、(成長以外の目的も持たなければならない)これからの成熟社会で必要になってくるのかもしれません。

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