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遠い記憶〜その八(祭)~

前回途中でストーリーを変えたので表紙の写真は継続です。
その七で書いたように,何かに導かれるようにして入った大学祭の実行委員会、もう一度よく考えるとそこに至るまでの付箋が見えて来るような

 元々小さい頃からお祭りが好き❤️花火がだーい好き🎆、市内の大きな花火大会は必ず連れて行ってもらったし(両親の実家の近所で開催)自宅近所の神社⛩️の祭りも高校生くらいまで出かけた。付き合う相手がいなければ一人でも。。
 小学校でも、年に一度,『泉祭り』と称したイベントがあって、学校ながらお祭り風な行事があり。
 中学・高校の文化祭でも、何か出し物となれば、率先して参加した。高校3年の時は受験勉強無視して打ち込んだ(その後季節が秋から春に変わったのはやっぱり受験の影響かなあ🤔

こんな経過があるのだから興味を持って当たり前だったかも。

大学祭はそれまでの“参加”するのとは違い,作る側=裏方さん。それがまた楽しい。企画を練って先輩幹部の承認がもらえれば、その実行に向けて準備をを進める。我が学祭は春シーズンに開催するので、一年時は完全に先輩の手足,言われるがままに作業して覚えていく。
 駅前や他校の前で行うチラシ配りは授業をサボってよく出かけた❗️学内に大きな看板を立てたり開催期間前からあれやこれや。時には泊まり込みで作業したり。
 前夜祭と称して期間初日には、市中パレードを行なってアピールするのだが、その時も前日の夜中中かけて山車を運んだり,1時間程度の仮眠の後そのままパレードしたりとかなりハードな行程。でもお揃いのユニフォームのツナギを着て活動するのはどことなく,誇らしかったような気がする。あれを着ていると授業中に爆睡していても先生に起こされることは稀だった。そんな時代だったなぁ

大学祭といえばコンサート。うちの学祭は予算もないのにプロモーターさんによくしてもらって売れだす直前の良いタレントさんを捕まえた。『シュガー』とか『AB's』とか知る人ぞ知る感じのタレントや、『来生たかお』が来た時は控え室前の警備担当だったので,タバコ吸いに出てきた本人と話をする機会もあったり(面白い人だったの印象が強くある)前日からステージ作るのに、重ーいスピーカー運んだり、楽器や照明の準備をしたりと走り回っていた。休憩時間に疲れ果てた仲間は,幅30cmくらいの階段の手すりの上で眠りこけて,階段下に落っこちそうになった逸話もできた。

 そんな状態でも,お客さんが大勢入って盛り上がっていると、ステージが見れなくても,十二分に満足できるのがスタッフのやりがいだった。

秋になると他校の応援に出かけた。自分の大学はほぼ男子ばかりの大学だったので、近隣の女子大の方達に手伝ってもらうことも多く,秋は逆にお手伝いでお返しする番。力仕事担当‼️なのでまた重い機材を運ぶことが多かったし,野音担当の業者さんたちとも顔見知りになったりもした。その伝手でコンサート関係のアルバイトの話が飛び込んだり。。報酬なしのボランティアを頼まれたりと。。いろんなことを経験した。ユーミンの警備の時は、歌声を耳元で聴いたが、背中を向けてお客さんを制止していたので、顔は見れなかったり。そう言えば,自分の学校の野音は一バンドも見ていないなぁ。だいたい他の企画の応援に行っていて。準備と片付けはするのにねえ

後夜祭ではキャンプファイヤーみたいに焚き火して🔥???🔥何したんだっけ。
委員長をやった時は、最後の締めの挨拶して,そのまま池に放り込まれたのは覚えてる‼️

この大学祭の経験で,自分がやりたいことを綿密に計画して準備して,実行することを教えてもらったし、その後の生活(遊び)でも、時折、企画を練って仲間を誘ってイベントを開催したりした。最初にやるのが楽しく思えるのも苦労を楽しめるのも,きっとこの時の経験のおかげだと思う

最後に、一緒にこの時の委員会を盛り上げた友人『〇〇べー』と、後輩のかわむら君にお礼を言っておく。空の上で二人で昔話しててくれ‼️

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