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無茶すぎる起業

あれは確か2002年の6月の某日、突然、諸藤に「介護保険制度を知ってるか」と聞かれた。当然知らなかった自分は「知らない」と答え、そのあといきせき切ったように二人で会社を作らないかそこには2兆円のマーケットがあるそこで何か一生懸命やれば飯くらいは食えるオメにプライドなんてこれポチもないだろいいから独立しよういつならできるいつなら今の会社辞められる?と吠えられた。

僕は会社では邪魔者扱いされてたし挙句ある不祥事で子会社に転籍していたし、いい感じで腐っていたので快諾し、確か同年の6月2日で退職したと思う。

僕がこれから記すことは、後に難病に罹患したこともあってマダラにボケた曖昧な記憶に基づくものなので必ずしも現実のものではない可能性もあることあらかじめご了承いただきたい。

退職後は彼の代田橋の駅近辺の一間のアパートを住居に、僕の大森海岸の一間のワンルームを本社に合資会社エスエムエスが創業された。

確か2002年の8月の某日だと記憶している。

当時株式会社最低の資本金はまだ1000万円だったはずでそんなお金なんてあるはずもなく、調べた結果合資会社なら6万円でこさえることができるとかなんだかの理由だったかと思う。

造り酒屋なんかが多いのかな知らんけど。

「同じ釜の飯を食う」てのを物理的に実践している人は割と少ないと僕は思っていて、我々は、のちの2年ほどはごく物理的に「同じ釜の飯」を食っていた。

在職中にかき集めた日本全国の老人ホームの資料を当時の寮の屋根裏に集めた。誰か優しい友達にファイリングしてもらって、大森海岸の本社でにあてずっぽうに電話したところ海老名に本社を置くある会社の社長からめっちゃ晴れた日に呼ばれた。よくわからない風態の若者二人をからかってやろうとでも思ったのだろう。そしてなぜかその日に仕事が決まった。

老人ホームの部屋を埋める仕事。

とまれ、何せ仕事が決まったということは偉大なことなので今でも鮮明に覚えている。

お祝いにと降りたことのない「鶴巻温泉駅」で降りて天下を取った気になって諸藤と日帰り温泉でお祝いをした。

そのころはバスでの通勤、食事はタッパーにつめた白飯に近くのスーパーで買ったアジフライを一尾を半分こ、が昼飯。晩飯は金曜日だけ駅前のてんやという天丼屋で五百円の野菜天丼を。その際50円の割引券をくれるので翌週の金曜日まで大事に取っておいて差し出すと野菜天丼が450円で食べられる。なんてことを真顔で楽しみにしていた。

「どんな些細なことからでも小さな発見はある」とは何かの本で読んだフレーズだけどこの時を思い出すと本当にそうだったと思う。

前職が不動産販売なので老人ホームの部屋を埋める仕事は得意だと、自分達を慕って会社にジョインしてくれようとしてこちらから断った釜野と山本を慌てて呼び寄せて、多分2002年の10月に古いワンルームから小田原のレオパレス21のマンスリーに華麗に引っ越した。6畳一間に四人の家財道具一式の収納美は今思い出しても一見に値すると思う。

額面5万円で食費四人で千円/日。食事当番は日替わり。米だけは各実家からカンパ。あとたまに山本徹に近所のもつ煮込み屋のオカミにもつ煮込みを恵んでもらうように走らせたり、柿を拝借したりも確かした。携帯代は各自自腹。月一飲み会など、自分でも信じられないくらい過酷な条件で始まった生活の中で、写真こそないけれど

「2017年店頭公開」てスローガンが確かに壁に飾られていた。確かに。※当時新興市場がなく店頭公開って呼び名だった


思い通りホーム部屋はすぐに満床になった。

ところが次に売るものがない。

えらいこっちゃ。

先方はずいぶん色々遺留する術を考えてくれたけどの諸藤の英断でいっせんまんえんをなんとか集めて株式会社にしよう。なんなら本社を華の東京にしよやないかと考えて町田駅からかなり歩く新築の一軒家を借りてほど近くの汚いビルの3階?に本社をおいたのが株式会社エス・エム・エス。

事業内容は介護職の人材紹介。中でもケアマネジャーの人材紹介をと。これの集客はちょっとした知恵があって、全国のケアマネジャーの試験会場(非公開)を集めてそこでチラシを配布しチラシにハイチューをホッチキスで止めて社員さんはもとより、親戚家族友達などを総動員して配りまくるというもの。

チラシに記されたフリーダイヤルには当然配布中の僕の携帯電話にかかってくるのだから、当然忙しい。チラシは必要なくてもハイチューが欲しい層は必ずいて、だからか知らないけど相当数の電話はかかってきた。

のちの話だけど、同じ文脈でケアマネ試験対策講座てのも開催して、さる先生を口説いて大学の講堂なんかを安く借りて、全国の居宅介護支援事業所のケアマネジャーの試験の受験生に自動でFAXを送りつけるというもの。

これもかなりヤクザなやり方で全国の介護事業所に一斉にFAXが届くものだから先方はたまったもんじゃない。そしてクレームの嵐。

だからかな?ある年を境にFAX番号は一覧(WAMNET)から一斉に消えた。

それでもうまくいったし、かなりのケアマネジャーを輩出したと自負している。

また、ちなみに諸藤に伝えるとこっぴどく怒るのでここで初めて伝えると、僕の知る高名な占い師に社名を占ってもらったところエスとエムの間に中黒を入れると割と早い段階で上場すると言われた。だからではないだろうけど当社はその後、確か4年と11ヶ月で東証マザーズに上場した。

町田の社員寮?は最大で八人(全社員)で暮らし、同じ釜の飯を物理的に食べた2年ほど。

資本金を食いつぶす形でほぼなくなりかけていたある日、確かGWくらい。

やることなくてみんなでプラスチックのバット片手に草野球をしていた記憶。

残金がもう27万円ほどしかなくて途方に暮れている最中。

口に出すと壊れてしまいそうな心象の中、西日が長い影を落としていたのをなぜか鮮明に覚えていて。

諸藤がその時をぼんやりした景色のなかで「こうやってにんげんは壊れていくんだなって思った」と後から言っていたのを全力で支持する。

一転ケアマネジャーの人材紹介が当たって、そこからはずっと増収増益なのは社員さん及び株主の皆さんがご存知のとおり。この時立ち上げたほとんど全ての事業が今も継続しています。

その時の躍動感を話せとまれに言われるけど胸が痛むし僕はあまり好きじゃない。

そんなの避けられれば本当はいいのだし、今なら資金調達って手段もある。

今のベンチャーは簡単に資金調達しようとするけど、それはじっさいどうなんだろか。資本金が底をツキかけた緊張感と資金を調達した達成感を天秤にかけることは、自身が持つ権限の希薄化をどこまで許容できるか、信用できる株主を増やして競争力を増すかのシーソーゲームなんやろ?

会社の売り上げが飛躍的に伸び社員さんの移動も嵩み、いよいよより都心にとなるのは自然の道理。町田の社員寮?も引き払う時に引越しも自分達、なので後片付けもなんなら僕と前妻とでやった。男世帯なので、トイレの残念な毛やフロアに落ちている残念な毛などを一通り片付けた後、その時を狙ったようにそれまで縁側でお茶を飲んで談笑をしていたご近所の奥様数人に手招きされて行ってみると「あなた方何されてたの?ずいぶん信仰深いわよね?」と。

考えればわかることなのだけれど、毎朝朝早くに八人が家を出て、夜遅く八人が家に帰って来、あまつさえ庭で家庭菜園しさえする若者の集団が、エキセントリックな新興宗教だと思われても仕方ないのかなと。

「違います。新進気鋭の医療ベンチャーです」

じっさい、新興宗教と医療ベンチャーの間のサムシングなんでしょうね。

おそらくあの頃。

そうやって当社は千代田区に本社を移転した。この先もヤドカリみたいに増床をしばらくは重ねることになる。本社を九段下の鰻の寝床みたいな小さなオフィスビルに移転した際には大阪の親には「天皇さんの近所やで」などと違和感しかない細やかな虚栄心が満ちていたように思う。

あの頃の僕らは多分誰一人こんなに大きな会社になるとは思っていなかった。

ただ一人を除いては。

当時の八名も今は一人しか当社には残っていない。

これは前向きな姿勢だと思っています。

無茶だと言えば無茶だし、
無謀だと言えば無謀でしかない起業のはなし。
なんの参考にもならないけれど
たいせつな僕の備忘です。