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これからどうする?

『やりたいことは全然なくて、やりたくないことはほぼ全て。振り返ると、学校自体が「なんかルール上行くことになってるから行く」場所でした。「やりたくないこと」をしているワケですから、当然、与えられたものの中から選び判断するというモチベーションも湧きません。でも、やらないと怒られる。「怒られること」は「やりたくないこと」なので避けたい。結果、やっているフリをすることが習慣となりました。「フリ」はやりたくないってほどじゃないけど面倒だし、このままじゃ駄目だと積極性を持とうとした時期もありました。が、中学のあるとき。逆に私の「フリ人生」に拍車をかける出来事があったのです。「フリ」はやりたくないってほどじゃないけど面倒だし、このままじゃ駄目だと積極性を持とうとした時期もありました。が、中学のあるとき。逆に私の「フリ人生」に拍車をかける出来事があったのです。美術の写生大会でのことです。数少ないクラスの友人が、漫画のカケアミみたいなのをいくつかチャチャッと描いただけのものを「壁」と言い張って提出したのです。「そんな手の抜き方があったのか…!」と目から鱗でした。そこで私は彼を真似して、画用紙に縦線を二本引いただけのものを「電柱のアップ」と言って提出したのです。しかし「壁」はOKで「電柱」は認められず、描き直しを命じられました。そのしばらく後、今度は読書感想文の授業のときでした。「壁の絵」の彼は、先生に返された私の作文を覗いてこう言いました。「え、なんでお前のが良くて俺のが駄目なの? お前の真似したのに」——彼は手抜きだとして書き直しを命じられたそうです。聞くに、彼は夏目漱石の「こころ」を読んで、自分で考えたKの名字を羅列したそうです。一方私は芥川龍之介の「河童」を読んで、自分で考えた河童語を羅列していました。たしかにぱっと見では違いがわかりません。が、このとき私は、両者の明確な差に気づいたのです。私は今回、手抜きしようと思って「河童」を書いたわけではありません。一方彼も、かつて手抜きで「壁」を描いたわけではありません。しかし前回の私と今回の彼は、おのおの自分のやりたくないことを手抜きするために互いを模倣していたのでした。私はこのとき、やりたくないことを前にしたら「なるべく楽できるように手を抜く」ではなく「やって苦じゃない程度にがんばる」という意識でいれば、意外とすんなり通ることを発見したのです。その意識を持って過ごすようになった結果、むしろ独創的と褒められたことさえあります。学校のことでやりたいことなんて一つもないけど、そこに能動的とか受動的とかの判断を持たず、流れ作業としてこなす。これが一番「ちゃんとしている」と思ってもらえることに気づき、その誤解のままに、悪目立ちしないだけの無感情な少年となりました。ウラを返せば何も判断しない人に「擬態」することで、いとも簡単に普通の人間としての扱いを受けることに成功したのです。そんな「フリ人生」の裏でやっていたことといえば、漫画とか小説とか映画とか音楽とか、一人で楽しめるものばかりを漁って接種することでした。そして、友達がいないから誰かとそれらを共有することもなく、フリの自分とフリじゃない自分の差はどんどん大きくなっていきました。~まるで選択を強要されているような気持ちになり、十代の頃の「選びたくないものの中から選び」かつ「その中から楽しみを見つける」という学生時代の課外活動に感じていた苦手意識が思い出されます。それをまるまる放棄してきた自分は、一方的に提示された情報を目にすると一気にめんどくさくなるのです。これが冒頭で書いた「所属意識の欠如」に繋がっています。所属意識を持つということは、自分で好きな物事を判断するということです。判断するということは、成長の機会を持つということです。自分はそれを通過していないために、周囲と自身の内面とを照らし合わせる習慣を身につけなかった。言い換えると、好きな物事についての意識を他者と共有する機会を得ぬまま大人になった。自分の「好き」はあくまで自分が勝手に好きなだけであって、その「好き」の観点・角度・拡張性が他人と同じかどうかは「好き」である事実とは無関係。好きっぷりについて周りと足並みを揃える必要はない。長らくそれが自分の常識でした。~「自分は、自分の好きなものと同じものを好きな人たちと、同じ場所に所属している」という意識の持ち方がわからないので、そこに混ざってはいけない気持ちになるのです。乾燥機の中身のように渦を巻いて拡散・攪拌されている情報を、透明な蓋の外から眺めているような感覚です。自分の書いたものについても同様で、自分は面白いものを書けたと思っていても、それを人に勧める上でうまく伝わる言葉が思いつきません。それどころか、無理やりひねり出した宣伝文句を見せたらかえって興味を削いでしまうのではないか? という懸念の方が強いです。だって自分の本が好きだと言ってくださる方って、たぶん自分と同じような人間だから、ポジティブな文句で生活に取り入ろうとしてもきっと距離を置かれるでしょう。「置いてあるところがあるってさえ知らせてくれたら、あとはこっちで勝手に探して取りに行くから」と自分なら思うし、宣伝なんてしたら押しつけになってかえって迷惑かもな。迷惑だよな。迷惑に違いない。よし、やめとこう。ってなります。わかってはいるんです。面倒ごとを避けてきた結果、自分がいちばんめんどくさくなっているってことは。でも、古い寓話の登場人物みたいだと落胆するばかり。自分にとって、自分の振る舞いはずっと「ちゃんと普通の人だって思ってもらえる」ための擬態だったので、今になって自己アピールというやつの大切さを痛感しております。という流れで、じゃあこれからの目標は擬態からの脱却だな、いつか自身の良さを堂々と伝えられる人間になれたらいいな、という方向でまとめようと思いましたが、なんか白々しいなと思っちゃう自分がいまして、どうもまだ先は長そうです。さしあたり、砂映画の良さを上手く伝えられるように妻相手に練習してみようかと思います。それではまた。』

所属意識の欠如、もしくは集団行動への苦手意識による普通の人と思われる為の擬態テクニックが向上し、自分ではない自分を演じてきた結果が自己アピールすらできないかなり厄介な自分を作ってしまったようだ。これからどうする?

SNSで「うまく自己アピールできない自分」には、なにが欠けているのか?
ネット上の「宣伝」について考えてみた
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/75626

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