5歳児でも男女の差の好奇心からこの様な遊びをしてしまうのだ。

『 「幼少期からセクシュアリティ教育を始めることは重要ですが、幼児に、性行為自体を直接的にフォーカスして教えることは、まずあり得えません。それでも、子どもたちは大人が思っている以上に、気持ちのこと、からだのことに興味を持っているし、それに関して伝えるべきことはたくさんあります」とトンミ氏は言う。幼稚園児ぐらいの年齢でも、「一緒に遊びたい!」だけでなく、そこから少し発展して、「大好き!」「一緒にいたい!」「手を繋ぎたいな」といった思いを抱いたりする。それはとても自然なことだ。だからこそ、その気持ちや行動とどう向き合ったらいいのか、学んでいくのだという。フィンランドのカリキュラムでは、「悲しいときはどんな感じ? 怒ってるときは? 楽しいときは? 誰かを好きと思ったときは?」といった「気持ちに気づく」ところから始まるという。~“いいよ”って言ってもらえたら一緒に遊べるし、“だめ”って言われたら、待ったり、他のもので遊んだりしようね、と。それから、嫌だって言ったのに、相手に聞いてもらえなかったりしたら、大人に相談しようね、ということも伝えていくのです」(トンミ氏)~「じゃあ、他の人に急にからだを触られたらどうしようか、ということをいっしょに考えます。自分のからだは自分のものだから、他の人が勝手に触っちゃいけないし、他の人のからだも勝手に触っちゃいけない。嫌だったら嫌って伝えようね、と。それでも聞いてもらえないときには、安心して伝えられる大人に相談しよう、ということを話していきます。それじゃ、誰かを好きだなって思ったとき、手を繋ぎたいなと思ったときには、どうしようか? そういうときも、おもちゃのときと同じで、ちゃんと相手に聞いて、いいよと言われてからじゃないとね、と理解を広げていくのです」最初、なぜセクシュアリティ教育でおもちゃの話!? と思った人もいるかもしれない。でも、おもちゃも性的同意の話も同じなのだ。性の話も実は日常の平凡なルールの延長線上にあり、「軽くならいい」「冗談ならいい」など、そこだけ特別なルールが適用されるわけではない。だからこそ、性の話だけを抜き取らないことも重要だし、こうやって日常に起こるプロセスを踏んで伝えることで、「性が特別なことではない」ことを自然と理解できるようになるのだ。「幼児ぐらいの年齢から、自分と他者との境界線をはっきりさせながら、コミュニケーションや交渉のスキルを小さいうちから練習します。そうすることで、将来もっと大きな複雑な人間関係や出来事でも、対応できるようになるのです」(トンミ氏)これこそが、幼児へのセクシュアリティ教育の根幹だ。トンミ氏の話を伺いながら、幼児だけでなく、職場で一方的なボディタッチなどを平気でやってのけてしまう方々に是非この話を聞いて頂きたい、と思ったのは、きっと私だけではないだろう。先ほど「性に関することも日常のいたって平凡なルールの延長線上」だと述べたが、実はもうひとつ重要な意味がある。それは、他の事柄と同じように「性に関わることも話してもいいこと」として学んでもらうことだ。最近は「性にオープンに」とか「セックス・ポジティビティ」とか、そういうフレーズも囁かれるようになった。みなさんはその言葉に、どんなイメージを持たれているだろう?「性にオープン=ヤリマン」、「なんでもあっけらかんと話すこと」とか、そう思っている人は少なくないように感じる。もちろん誰と何をしても、何を話してもそれは個人の自由ではあるけれど、ここでの「性にオープン、ポジティブ」というのはそれとは違って「必要な時にきちんと恥の概念なく話せること」を意味する。~「性器は恥ずかしいものだから、人に話しちゃいけません、と教えられた子供が、誰かから意に反して触られたり、からかわれたりしたとしたら、どうでしょう!? どうやって信頼できる大人にそれを相談できますか? 恥の概念なく、生殖器も自分のからだの一部として認識できていたら、他者に好きにさせないと言う意味でも、誰かに相談するという意味でも、安全を守るスキルにも繋がるのです」(トンミ氏)確かに、20代になっても性器周りのことだから恥ずかしい、と病院に行くのをためらう友人もいる。また。性暴力被害の訴えにくさにもこの「恥」「触れてはいけないこと」「人に悟られてはいけないこと」という概念は大きく影響している。とはいえ、性にポジティブ、オープンに、と言っても、分別なくどこで何をしてもいいというわけではもちろんない。公共の場と、プライベートな場は分ける必要はある。例えば、子どもはよく裸で走り回ったり、ところ構わず性器いじりをすることがある。そういうときも、ただ「ダメでしょ」怒鳴るのでは、からだや裸そのものを恥ずかしいもの、いけないものと認識しかねない。そうではなくて、「確かにそれは気持ちのいいことかもしれないけど、自分の大切なものだから、自分の部屋でだけにしようね」というふうに、恥を植え付けず、それでいて境界線をはっきり認識してもらえる言い方で伝えるのが理想的だとトンミ氏は言う。トンミ氏は、大切なことをたくさん語ってくれたが、私自身、いまだに自分の感情を相手に伝えることが苦手だ。フィンランドの幼児が学習する、はじめの一歩の「感情に気づく」がまずできない。というより、無意識に消してしまう。なぜなら、相手の反応が怖くて、相手とは異なる自分の感情を言えなかったとき、「嫌だ……」と思い続けながら相手に合わせることはとてもつらい。~これってまさに、5歳児頃にあるべき教育がすっ飛ばされたまま、恥の概念だけは脈々と受け継がれてきた結果とはいえないだろうか。自戒も込めて、そろそろこの流れを断ち切らなければ。日本はフィンランドのような幼児期のセクシュアリティ教育は組まれていない。教育が違う、性に対する価値観が違う、で流してしまうのではなく、どんな年齢からでも、自分の感情を掴み、伝え、聞き入れられる経験、それを積み重ねることに意味があると私は感じている。性に関わる事柄も大切なことで、話していいと知っていれば、最低限必要なときに必要なことを少しずつでも話せるようになるはずだ。先のアンケートによれば、女性の4人中3人は、相手に合わせるため自分の思いを消したことがあり、2人に1人は気が乗らないにも関わらず性交渉に応じたことがあると答えている。どちらもかなりつらい。しかし、ひとりひとりのあと一歩の理解と勇気でこういった現状は少しずつでも変わる可能性がある。』

私は「5歳からの性教育」が必要な実体験をした。幼稚園児の私と男女の友達の3人で園舎裏の雑草に隠れてお互いの性器を見せ合った。おぼろげな記憶では誰からともなく話が出てそういう遊びをしてしまうのだ。5歳児でも男女の差の好奇心からこの様な遊びをしてしまうのだ。

24歳大学院生が驚愕したフィンランド「5歳からの性教育」の中身
「性教育」はイコールセックスではない
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68061

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