パブリックとプライベート及び時間と空間での「線引き」が必要なのだ。

『論争によって妥当な落としどころを探ろうとするのであれば、「私がもっとも傷ついたのだ」と言ったもの勝ちになってしまうようなロジックを持ち出すべきではない。それは「論争をしたい」のではなく、自らの政治的イデオロギー、あるいは社会学的な教条に恭順するよう要求するものに他ならないからだ。あらゆる表現に、必ずしも批評的・規範的な意図や意見表明が込められているわけではないし、一見すると性的に見える表現に、見るものの性的な関心を惹くだけでない表現が込められていることもある。ひとつひとつの表現がもつ文化的・創造的な文脈を軽視し、「加害/被害」という対立軸に回収して是非や善悪を評定しようという試みが、違和感と反発を招くのは当然のことだ。そうした態度は、異国の文化の調査にやってきた「文明国」の人間が、その国の人々の生活を自らの価値観や規範意識に照らして「あなた方の文化は野蛮で下劣である。よりただしいあり方へとアップデートすべきだ」と、文化の歴史的蓄積を無視して「忠告」しはじめるのとさして変わりはない(もちろん、そうする自由はある。表現への批判それ自体も表現の自由だからだ。さらに私は、そうした行為を傲慢な驕り高ぶりであると批判するが)。社会の価値観や倫理観は移ろうものであり、それに伴って、表現物の内容や、多くの人が共感する表現もまた変化してゆく。建設的な議論によって、その時々の妥当な落としどころが継続的に検討されることは重要だ。しかしそうした議論と、個人の「抑圧経験」に対する特別な配慮の閾値をどこに設定すべきかという議論は、別々に両立するものである。混同されるべきではないだろう。』

「個人の不快」を利用して社会を変えようとするのは「政治的」と言える。それを最も効果的に使ったのは20世紀の怪物AHだろう。その歯止めはパブリックとプライベート及び時間と空間での「線引き」が必要なのだ。

二次元イラスト炎上論争「“悪い”表現」は、いったい誰がどう決める?
「累積的な抑圧経験」は根拠になるか
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/69449

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