Shigeru Tanada

Shigeru Tanada

最近の記事

イエスと聾唖者について考える 2

イエスはろう者と出会ったのか?まず、イエスはろう者と会ったことがあるのか考えてみよう。新約聖書はイエス以降のことが書かれている。マルコの福音書7章32節から37節には、イエスが、耳の聞こえない人を<耳が聞こえるようにし、口が聞けるように>したとある。 まるで、耳が聞こえない人は「ことばも聞けず、ことばも言えない」という、癒しが必要な対象となっている。また、旧約聖書のレビ記19章 14節に とあるように、ユダヤ人がエジプトで生活を営んでいた当時から、耳の聞こえない人がいたこ

    • イエスと聾唖者について考える

      序なぜ書こうと思ったか 「イエスと聾唖者」について、書こうと思った背景を。イエス・キリストが何故、僕たちの救い主と言えるのか、イエス・キリストが説く「神の国」となどんなところであるのかを考えた時に、神はイエス・キリストを通して、聾唖者である僕に何を伝えたかったのかを考察してみたかったからである。教会に行くといつも、「イエス・キリスト」について説教を聞くことになる。もちろん、教会は聾唖者のための教会であって、牧師も聾唖者である。にもかかわらず、聾唖者である僕は、イエス・キリス

      • 筑波大学附属聾学校同窓会創立130周年記念祝賀会で

        10月10日(月)あと5日。筑波大学附属聾学校同窓会創立130周年記念祝賀会は、2021年に予定されていた。コロナ禍により延期となった。2022年に実施することが決まり、記念式典の案内があった。僕は当然参加するつもりでいた。参加するかどうか迷っている同窓生がいたのも事実。同窓会が筑波大学附属聾学校に与えた影響はとてつもなく大きい。小学部に在籍していたときに入学式や卒業式でみた同窓会長の「たった一人だけの手話による語り」が、大きく僕たちに影響を与えている。だからこそ、記念式典の

        • 君が代の手話訳に思いを馳せる

          国歌「君が代」はどんな歌なのか国旗及び国家に関する法律で、国歌は「君が代」第一と定められている。  君が代は  千代に八千代に  さざれ石の  いわおとなりて  こけのむすまで 「君」をめぐる解釈 平成11年に国旗及び国歌法が施行されているが、これまでも「君」が何を指すのか議論が続いていた。昔から「君が代」に馴染んでいた人たちは、当然のように「天皇」を意味すると理解している。僕も、筑波大学附属聾学校小学部の音楽の授業における「君が代」合唱の練習で「君」は「天皇」であると教わ

        イエスと聾唖者について考える 2

          手話CG実況に思う

          NHKによる手話CG NHKが手話CGの開発に多大な資金を注いでいる。当初の手話CGはNMMがほとんどなく、日本語単語に沿って表現するだけのものであり、とてもほめられたモノではなかった。しかし、オリンピックにおける実況中継を手話CGで行っているというツィートが流れた。確認してみるとバスケットボールの試合を手話CGで実況していた。NMMもマウシングもろう者に近い状態で表現できていたし、日本語に対応させたものではなくチキンと翻訳された状態であった。カラクリをみると、実況の内容にパ

          手話CG実況に思う

          TOKYOオリンピックとコロナ

           8月1日の今日。オリンピックも中盤に差し掛かった。ピーク。これと並行して、新型コロナウイルス感染も東京では第5の波を迎えた。最初の緊急事態宣言の時よりも感染者が増えていると言うのに、人出は当初の緊急事態宣言の時よりもかなり増えている。新型コロナウイルスがどのようなものであるかわかって来たと言うこと、死亡率が季節インフルエンザよりも少ないと言うことが、データからわかって来たと言うのもあるのだろう。ただ、医療現場が逼迫しつつあるという悲鳴も上がっている。  ワクチンを打つ打た

          TOKYOオリンピックとコロナ

          卒業式〜たった一人だけの手話語り

          聴覚口話法の牙城として知られている聾学校は、聴覚口話法の限界を最もよく知る学校 僕が東京教育大学附属聾学校にいたときの話である。昭和50年代で、ちょうど東京教育大学が筑波大学になろうとしていた。この学校は、筑波大学附属聴覚特別支援学校の前身。日本唯一の国立の実験的な要素を有する聾学校である。今では、聴覚口話法に力を入れているが、手話についても思い入れが全国でも強い学校としても知られている。「え?」と思う人がいるかもしれないが、全国の聾学校が聴覚口話法に傾倒している中で、唯一

          卒業式〜たった一人だけの手話語り

          デフフッドを取り入れた授業作りへの道筋

          デフフッドの視点で授業を実践という教育目標「デフフッド」とは、「ろう者になるための自己探求過程」のことです。聾学校における重点目標として、「デフフッドの視点で教育の実践を図る」を盛り込むことは重要な意義があると考える。各教科において、教科書をそのまま使うのではなく、ろう者の視点、たとえば手話特有の語り、見方を取り入れたり、ろう者の立場ならどう考えるかを踏まえようというものです。 数学科にこそ、デフフッドの視点が求められる 特に数学科の場合はデフフッドの視点がとても大切である

          デフフッドを取り入れた授業作りへの道筋

          「普通」と「フツウ」、「デフフッド」と「フツウフッド」

          「普通」と「フツウ」 私が聾学校に入学したのは、昭和45年で、3歳だったと思う。身体障害者手帳には「原因不明による全ろう」とあり、感音性難聴で補聴器を使っても明確に音を聞き分けることが難しかった。当時の東京教育大学附属聾学校萩原浅五郎校長(昭和43年没)が聾教育誌今月のことばに寄稿した『9歳レベルの峠』にあるように、日本語による抽象的思考を身につけることが聾教育の課題とされていた。そんな聾学校に入学したのだが、当時の聾学校に「聾唖教員」がいると言うこと自体が実に珍しいことであ

          「普通」と「フツウ」、「デフフッド」と「フツウフッド」