香春とキリシタン展の解説・講演内容

「香春とキリシタン展」の講演会での解説説明をお知らせいたします。

 香春とキリシタン 2023年10月29日 日曜日 午後1時より 
   ヴァージナル演奏とグレゴリオ聖歌演奏・講演
   香春町町民センター内

香春のキリシタン
1829年(文政12) の香春に於ける「宗門改め」の記録
 豊前国田川郡の宗門改めは、1793年(寛政5)4月4日、香春町の香春岳の下にある光願寺(大字香春山下町)に於いて「宗門改め」が行われた。 

1829年(文政12)の「宗門改め」の記録には像踏み申さず分として2,078人の記録が残されている。 

一、本家708軒
男女合わせて 2,871人 内 男1,488人、女1,388人
内  像踏み申す分   793人
   像踏み申さず分 2,078人
*金田手永大庄屋六角文書
*「香春町史 上巻」第2章 小笠原時代と藩政の整備 田川郡ノ宗門改め527~529頁
 

像を踏まなかった者が2,078人、本家708軒中、全員キリシタンだったと信じがたい話だが、1829年(文政12)の「宗門改め」の時に、これだけ多くの者がキリシタン信仰(潜伏キリシタン)を堅持して像を踏むことを拒否したことは、小笠原藩の宗教政策を揺るがす非常に大きな出来事だった。

香春町では1632年(寛永9)細川忠利が肥後熊本藩主として転封して豊前を離れて以来197年が経過している。また1644年(正保元)幕府のキリシタン禁教令が徹底され、キリシタンたちは隠れ(潜伏)て信仰する時代になってからも185年が経過している。
 
約200年後に起きた「像踏み拒否」(キリシタン申告事件)から見えてくる、信徒組織 (コンフラリア) の根強さからも、キリシタンを支えてきた幾つかのキリシタン寺の存在が無ければ、1829年(文政12)の「宗門改め」に起こった2,078人のキリシタン信仰の表明「像踏み拒否」という造反は起こり得なかった。
 

香春に於けるキリシタン史の解明
香春のキリシタン寺「不可思議寺」の第2代住職だった細川与五郎興秋(宗順和尚)と中浦ジュリアン神父。興秋の保護、監督を担当していた香春領主の細川孝之。この三人のキリシタン指導者としての働きにより、香春ではキリシタン農民による信徒組織(コンフラリア)が構築された。

そのキリシタン組織が、細川藩が1632年(寛永9)に肥後熊本へ移封された後も、小笠原藩時代も潜伏(カクレ)キリシタンとして存続し続けて、197年後の1829年(文政12)「宗門改め」における「像踏み拒否」の記録となり、香春におけるキリシタンがいたことを証明する唯一の記録にまで結びつくことになる。
 
今まで香春周辺におけるキリシタンに関しての研究はどの大学もしていない。香春にキリシタンがいた事実が、研究を重ねることによりこれから時間をかけて徐々に解明され証明されて明らかになって行くだろう。香春に於いて埋もれたキリシタンの歴史に光が当たり、全てが明らかになった時に、香春にいたキリシタンたちの生き様と信仰が、キリシタン史の中の歴史を造り替えることになる。
 
香春という街で繰り広げられたキリシタンたちの信仰の戦いを、ひとつずつ確認すること、明らかにすることにより、より香春の街の歴史が輝きを増していくだろう。この『香春とキリシタン展』を通して、香春のキリシタンの歴史が新たに蘇ることを心から祈っている。 

*現在確認できる香春地区に宣教したキリシタンの中心人物の存在 

1、 黒田官兵衛孝髙

黒田官兵衛孝髙肖像画・福岡市市立博物館所蔵

黒田官兵衛孝髙(如水)と中津・小倉教会の設立

1587年(天正15)3月、九州平定の戦いで勝利した黒田官兵衛孝髙(よしたか・如水・41歳)は豊前中津においてペドロ・ゴメス(João Gomes)神父を招き、復活祭の日に、黒田官兵衛孝髙の感化により説得され、キリシタン信仰を新たに見出した大友宗麟の嫡子・義統(よしむね・ドン・コンスタンティーノ)、毛利秀包(ひでかね・シメオン、妻は宗麟の七女マセンシア)、毛利家家臣、熊谷元直(メルキオール)、黒田利則、黒田直之(ミゲル)、黒田家嫡子黒田長政(ダミアン)、岐部左近が受洗した。

薩摩島津氏の平定を終えた豊臣秀吉は、7月、九州平定の論功行賞により、黒田官兵衛孝髙に豊前六郡(京都、仲津、築城、上毛、下毛、宇佐)12万石を与え、同じキリシタン大名である毛利勝信(本姓・森吉成)には、企救(規矩・きくの)と田川の2郡、小倉6万石を与えている。これにより香春町には田川郡の行政役場が置かれ多くの毛利家家臣のキリシタンが住むことになった。毛利勝信の家臣のキリシタンと、黒田官兵衛孝髙の中津城に有るキリスト教会から宣教が開始され香春や田川方面にも伝道が開始された。 

1588年(天正16)黒田官兵衛孝髙は中津を豊前の首都として整備して中津城を築城し、多くのキリシタン家臣を擁護して、中津の街を中心に周辺の農民の多くがキリシタンになった。 

1588年(天正16)黒田官兵衛孝髙が築城した中津城

黒田官兵衛孝髙のキリシタン政策は、1599年(慶長4)10月、セスペデス(Gregorio de Céspedes)神父を招いて、中津教会と修道院(レジデンス)を中心に精力的に宣教を展開している。1600年(慶長5)関ヶ原の戦い後の12月、黒田藩藩主・黒田甲斐守長政の筑前名島(福岡・博多)への移封までセスペデス神父の指導のもと宣教は継続された。 

グレゴリオ・セスペデス神父
Gregorio de Céspedes、1577年(天正5)に日本に着いた。最初は九州で働いていたが、京阪地区に派遣され1587年(天正15)7月の禁教令までそこで活動した。 

セスペデス神父は大坂教会の司祭として、細川ガラシャ夫人をはじめ、細川忠興の弟・細川興元、忠興の長女・長、長男・忠隆、次男・興秋、次女・多羅をキリシタンに導き、これらの人々の改宗に重要な役割を果たしたことで、細川家との深い繋がりがあった。 

その後、再び九州に戻り、1593年(文禄2)の冬、文禄の朝鮮の役に参加していたキリシタン武士達を訪問するために朝鮮に渡った。途中しばらく対馬に滞在した。セスペデス神父は対馬の領主、宗対馬守義智の妻(小西行長の次女マリア)に援助されて対馬での伝道を開始し20人の武士達に洗礼を授けた。朝鮮に渡って、セスペデス神父と彼の同伴者ハンカン・リアン修道士は熱心に宣教活動をして、特に宗対馬守義智の家臣達の間に伝道を行った。
セスペデス神父の朝鮮での宣教はあくまで日本人キリシタンを対象に行われており、敵対関係にあった朝鮮の人々への宣教ではなかった。 

1598年(慶長3)8月18日の豊臣秀吉の死去により、同年11月、日本軍の朝鮮よりの撤退が始まった。セスペデス神父は日本に帰った後、再び九州で活動をしていた。1599年(慶長4)10月、黒田官兵衛孝髙の招きで中津に来て、イエズス会の修道院・教会を作って本格的に豊前に於ける宣教を開始した。 

加賀山隼人正興良は下毛(しもげ)郡奉行となり、禄も六千石に加増され、重用されて政治の枢機にも参与することとなった。興秋のキリシタン擁護のもと、隼人正とセスペデス神父は信者獲得に全力で取り組んでいる。セスペデス(Gregorio de Céspedes)神父は興秋と隼人正の霊的指導司祭であった。毎週捧げられるミサに興秋と隼人正興長家族の敬虔な姿があった。この中には隼人の三人の娘の姿もあり、小笠原玄也の姿もあった。この時期、豊前のキリシタンたちは活発な宣教活動を展開している。 

中津城主・細川興秋の深い信仰と加賀山隼人正の揺ぎの無い信仰、セスペデス神父の慈悲深い霊的指導により、下毛郡内6ヵ村は14名の惣庄屋(手永)に任されているが、その内の12名の庄屋がキリシタンになった。当然村落単位で信徒組織(コンフラリア)が組織され、慈悲の組織(ミゼリコルデア)も活発な活動を展開して人々の相互扶助により助けられた多くの人々が新たにキリシタンになった。 

この時代、入信に導いた一番効果的な宣教は、信者たちの献身的な宣教とそのキリシタンとしての姿だった。異教徒は自分たちが接したキリシタンの生活やその話により、神への道と光を見出した。信徒使徒職の働きによる伝道は、神父の説教よりもはるかに異教徒たちへの手本となり、無私無欲でキリシタンとして人々に奉仕する姿を見て、多くの人がキリシタンとなっていった。 

3、 細川忠興

細川忠興肖像画・永青文庫所蔵 細川ガラシャ展目録より

1600年(慶長5)12月、丹後宮津から豊前中津へ移封された細川忠興は、12万石から39万9,000石の高禄での中津城へ移封した。細川忠興には豊前国と豊後国崎の木附郡(現杵築市)速水郡(現湯布院町)が関ヶ原の恩賞として与えられた。禄高3倍強の異例の高禄での豊前移封だった。

細川忠興は、中津教会で宣教活動をしているセスペデス(Gregorio de Céspedes)神父にそのまま中津教会に留まる様に要請して伝道を許可している。

1601年(慶長6)12月、小倉城を預けていた実弟の興元が出奔した。兄である忠興とのキリシタン問題が興元の出奔にまで発展した。興元は敬虔なキリシタンであるので、兄忠興との御家騒動を避けるために自ら細川家を出奔する形で身を引いている。 

1601年(慶長6)12月の興元の出奔事件の後、忠興は豊前の首都を中津から交通の要所に当たる小倉へ移すことを決め、1602年(慶長7)11月下旬、小倉城へ移った。中津の街に住む家臣団、住民たちにも小倉移転を強制して、中津の街ごとの小倉への移転となった。

1602年より細川忠興の居城となった小倉城

貧しい中津教会と修道院の移転費用は忠興が全額保証して、小倉の1番良い地(現北九州医療センター)に新しい教会を建てている。
1611年(慶長16)までの10年間は、忠興とキリスト教会の最も良い関係が築かれた時代だった。 

1602年から1604年 細川興秋が城主を務めた中津城

忠興の小倉への移転後、中津城主になったのは次男興秋(長岡与五郎興秋)である。1602年(慶長7)から1604年(慶長9)11月までの2年間、中津城主を務めた。

中津教会と修道院が細川忠興の要請で首都小倉へ移転した後、中津教会には1603年(慶長8)フィリピンのマニラよりゲバラ(Diego de Guevara)神父、オルティス(Eustaquio Ortiz)神父が中津の教会に在中するようになった。この二人の神父はアウグスチヌス会の神父である。

中津教会は忠興の首都小倉移転に伴い、教会堂と修道院を解体して小倉に移設したため、空き地になっていた中津教会の跡地に仮の小さな教会堂を建てていたが、宣教の活発化に伴い教会が手狭になったために、正式な大きな教会堂を建立し「無原罪の聖母」に捧げた。
同年、ゲバラ神父が本国へ召還されたため、代わりにエルナンド(Tomás Hernández)神父が豊前中津教会に派遣されている。

1611年(慶長16)12月、小倉教会のセスペデス神父の急死(脳卒中)により忠興は「キリスタン禁止令」を発令、伊東マンショ神父は追放された。小倉教会は解体され、信者を小倉から追放し、キリシタン弾圧を始めた。
忠興のキリシタン迫害により、48人のキリシタン指導者が無実の罪で処刑された。

1611年(慶長16)12月、細川忠興の「キリシタン禁教令」により中津教会も閉鎖・解体され、伊東マンショ神父は体調不良のため、長崎へ退去した。

1605年(慶長10)に豊後臼杵の稲葉一通に嫁いだ細川ガラシャの次女多羅は、母ガラシャの信仰をしっかりと受け継いだ女性で堅い信仰を持っていた。多羅は稲葉一通との結婚に際して、自分の信仰を認める箏、臼杵領内のキリシタンを迫害をしないことを確約させている。

臼杵教会は1577年(天正5)に薩摩島津軍により破壊されていたが、結婚後すぐに臼杵教会を多羅は再建している。1606年(慶長11)には佐伯に教会を建て、その後日向の国・延岡(縣)にも教会を建てた。1611年(慶長16)には大友宗麟の死去した津久見にも教会を建てている。臼杵領内に於いて多羅の庇護のもと宣教は水面下に於いて順調に進んでいた。

1611年(慶長16)父忠興により豊前に於いて「キリシタン禁止令」が出されたとき、中津教会から追放されたエルナンド神父、オルティス神父たちを密かに臼杵に呼べ寄せ、臼杵領内に匿い宣教に従事させた。2人の神父たちの宣教活動は、2年後の1613年(慶長18)の多羅の突然の病死まで継続された。

 4、伊東マンショ神父

伊東マンショ肖像画・ドミニコ・ティントレット画

天正遣欧少年使節の首席を務める。1569年(永禄12)日向国都於郡城において誕生。1578年(天正5)薩摩軍の日向侵攻により豊後の大友宗麟を頼って落ち延びる。臼杵の野津の到明寺(キリシタン寺)を与えられた。臼杵教会で受洗。府内(大分市)のセミナリオに入るが、有馬のセミナリオへ移り学ぶ。 

ヴァリニャーノ巡察師に認められて大友宗麟の名代として1582年(天正10)2月、長崎より出発、遣欧使節に首席として参加する。スペイン国王・フェリペ2世や、ローマ教皇・グレゴリオ13世・シクストゥス5世に謁見を果たす。1590年(天正18)7月、長崎に帰国。8年6ヶ月の長旅だった。 

1591年(天正19)3月、豊臣秀吉の聚楽第で御前演奏をする。
同年7月、天草の修練院でイエズス会に入会して神父になるための修練を積む。

1601~1604年マカオに中浦ジュリアンと共に派遣され、倫理神学を治める。帰国後、有馬のコレジオで音楽・ラテン語の教授をする。 

1608年(慶長13)から4年間、小倉教会に奉職、セスペデス神父の片腕として教会宣教を推進する。

1611年(慶長16)12月、セスペデス神父の急死により、領主細川忠興は「キリシタン禁止令」を発令。小倉を追われた伊東マンショ神父は信徒組織を再編成して迫害に備えた。中津教会へ避難してクリスマスを祝い、長崎へ退去した。1612年(慶長17)11月、胸膜炎の病気のために長崎のコレジオに於いて死去した。享年43歳。

5、細川孝之
香春岳城主、1601年(慶長6)より1623年(元和9)12月の出奔までの21年間。孝之の館敷地内に髙座石寺(キリシタン寺・大字香春殿町)が建立されていた。

興秋を匿い擁護した細川孝之は、初代細川家当主・細川藤孝(幽斎)の四男、1585年(天正13)生まれ。幼名茶知丸、与十郎、
孝之は香春岳城主(二万五千石)後中務少輔、休斎宗也と号する。
(イエズス会の記録では洗礼は受けていないがキリシタンである)
興秋にとって孝之は2歳年下の叔父という関係である。

 *『16,17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期 第5巻 21
 1606,1607年の日本の諸事
233頁
孝之の改心
 『この婦人(麝香)には越中(忠興)殿よりも若い息子が一人いる。彼は教理の説教をすでに聞いてきており、キリシタンになることを切望している。しかし、全日本の君主(徳川家康)を慮って敢えてそうはせずに、望み通りできる時を待っている。

彼もこの四旬節に我らの教会に苦行者たちを見に来た。そして敬神の念を強め感動したので、我らの修道士を呼んで尋ねた。そのような血の鞭打ちの苦行をすることは異教徒にとっても功徳があり、救済の役に立つのか、と。修道士が、質問が要求している回答を与えると、彼はそれに満足して、その茨の鞭を一本見せてほしいと空とぼけて修道士に請うた。
そして、手に取ると。そのままそれを持って家に帰ってしまった。翌日、重立った家来たちを呼び「キリシタンになって予に倣おうと決意している者は予と一緒に鞭打ちの苦行をせよ」と言った。そのような決意と意思を抱く人たちはそのための準備をした。そして、邸の垣根の内側で全員が激しい血の鞭打ちを行い、その高貴な青年は教理受講者でありながら、皆の中で最も厳しく一番熱心に鞭打ちをした。」

1602年(慶長7)藩主忠興の中津から小倉への首都移転に伴い、中津城には興元の養子に出されていた細川興秋が2万5,000石を拝領して新しい城主として任命された。
 

孝之の受洗と出奔
1623年(元和9)12月、香春岳城主(2万5千石)である忠興の末弟・孝之(休斎・38歳)が突然出奔した。出奔の原因は孝之がキリシタン迫害の姿勢で臨んでいた兄忠興の政策に背く行動があったと考えられる。孝之は兄忠興のキリシタン排除政策の犠牲となった。
キリシタンである孝之は兄忠興のキリシタンに対する迫害、重臣加賀山隼人正に対する処刑・殉教に異議を唱えて対立したと考えられる。

細川家より出奔した人々、興元、忠隆、興秋、孝之はすべて洗礼を受けたキリシタンであり、忠興からキリシタン棄教を強制され、信仰を堅持するためと御家騒動を避けるために自ら出奔という形で身を引いた人たちだった。長女・長、次女・多羅もキリシタンである。 

孝之が洗礼を受けてキリシタンになったという記録はイエズス会にも細川藩の記録にも記載されていないが、当時、香春町周辺で宣教活動をしていた中浦ジュリアン神父を興秋が香春採銅所の「不可思議寺」に匿っていることから、孝之はこの機会に中浦ジュリアン神父より秘密裏に洗礼を受けキリシタンになったと考えられる。また1619年(元和9)10月に処刑・殉教した加賀山隼人正の墓碑建立をしたことの2つが原因と考えている。それゆえ、兄忠興の怒りを招き、香春城召し上げ(没収)となった。これ以外にこの時期に孝之が出奔する原因は考えられない。 

1623年(元和9)12月、中浦ジュリアン神父より秘密裏に洗礼を受け、キリシタンになり加賀山隼人正の墓碑を建立したために、香春城を召し上げられた孝之の取るべき行動は細川家から出て行くことしか道は残されてなく、兄興元、忠隆、興秋の例に倣い、孝之までお家騒動を起こす前に自ら出奔という形で細川家を出て行き、父幽斎の京都で持っていた領地からの扶持で、忠隆と共に京都で暮らし始めている。孝之は残りの生涯を京に於いてキリシタンとして過ごしている。形だけだが豊前藩主忠利から三百人扶持が支給されている。 

孝之は1647(正保4)年7月7日、京の屋敷に於いて63歳で死去している。
埋葬地は京都大徳寺高桐院塔頭条勝庵。 

6、白翁誾龍(ぎんりゅう)和尚
髙座石寺(大字香春殿町)住職

髙座石寺・細川孝之の館内に作られたキリシタン寺

孝之(38歳)は1623年(元和9)12月に出奔したが、孝之の居住していた館の敷地内にあった髙座石寺はそのままキリシタン寺としての役目を果たしキリシタンたちを保護していた。 

孝之の出奔後も髙座石寺の住職・二世白翁誾龍(ぎんりゅう)和尚はそのままキリシタン住職として宣教の責務を果たしていたが、9年後の1632年(寛永9)12月、忠利が肥後熊本へ移封された際、細川藩と共に熊本へ移封した。髙座石寺は熊本の坪井町(現・坪井町3丁目9・8)へ移り「泰陽禅寺」と名称を変えて現在まで存在している。 

髙座石寺は細川藩の肥後移封と共に二世白翁誾龍(ぎんりゅう)和尚が熊本へ移ったために、住職不在の無住の寺となり約100年、住職不在の時期が続き荒廃が続いた。
*香春町歴史探訪 香春町郷土史会編 25 76~77頁 香春町教育委員会 

7、妙漢尼
秋月文種の妻、秋月種実の母・妙漢尼(キリシタン)1595年(文禄4)に香春に帰省して、一宇(庵)を建立して余生を送っている。1625年(寛永2)この地に「来迎寺」が建立されている。妙漢尼は1570年代に秋月に於いてルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida)により宣教が開始された時期に、秋月家一族全員が洗礼を受けている。 

 1570年(元亀元)ルイス・デ・アルメイダ(Luis de Almeida)が、当時の九州探題の大友宗麟に願って秋月種実宛の紹介状を書いてもらい秋月の街を訪問している。アルメイダの訪問が秋月種実にとって初めてのキリスト教との出会いだった。妙漢尼は秋月種実の母であるからキリシタンである。ルイス・デ・アルメイダより1570年頃に受洗した。 

妙漢尼の兄、原田義種は香春社の大宮司と領主を兼ねた在地土豪だった。
妹が秋月氏第15代秋月文種に嫁つぎ、晴種、種実、髙橋種冬、長野種信、原田親種室、5人の子供を産んでいる。香春には1595年(文禄4)に帰省して、一宇(庵・後の来迎寺)を建立して余生を送っている。*豊前村史

現人神社(お申様)・採銅所駅の北側・祭神・原田義種・妙漢尼の実兄

 「採銅所駅の北にある「現人神社」(お申様)の祭神は原田義種である。原田義種は妙漢尼の実兄にあたり、香春岳城主だったが、大友宗麟に攻められ1557年(弘治3)に香春岳城は落城した。落城に際して身を隠した洞を野猿が取り囲み、そのため義種は大友の追手から逃れることができ、老母との最後の別れをすることができた。義種は香春岳落城の責任を感じて先祖の位牌を前に自害した。村人たちは義種の霊を現人神社に祀ると今まで香春地方を襲っていた疫病や飢餓は収まった。野猿が今まで姿を見せなかった人里にも現れたことで、疫病や飢餓は消え去った。」
*現人神社に伝わる言い伝えによる 

実妹の妙漢尼(キリシタン)は実兄である原田義種が祀られている「現人神社」近くに庵を構えて、兄の菩提を弔うと共に、残りの余生を採銅所で送ろうと考え1595年(文禄4)故郷の香春へ戻ってきたと思われる。

来迎寺の創建は1625年(寛永2)。1615年(元和元)以来、隣の敷地は不可思議寺であり、興秋が匿われている寺である。細川藩の最高機密に相当する興秋隠蔽の寺の隣に、仏教寺院が創建されること自体、まず領主の細川孝之が許可するはずはなく、間違いなく来迎寺はキリシタン寺として建立されている。不可思議寺、来迎寺、髙座石寺の3寺は、香春における中核をなすキリシタン寺だった。また1627年(寛永4)以来、中浦ジュリアン神父を興秋は不可思議寺に匿い、中浦ジュリアン神父は興秋により、脳梗塞の治療を受けて快復。
細川藩が肥後へ転封される1632年(寛永9)12月まで、6年間、この寺を本慮として豊前、豊後、筑前、筑後を宣教していた。
 

8、細川興秋・長岡与五郎興秋
1602年(慶長7)より1604年(慶長9)11月までの2年間、中津城城主であり、下毛(しもげ)郡奉行をしていた加賀山隼人と共に、セスペデス神父の指導のもと、熱心な宣教を展開して、14の永手の庄屋の内12名がキリシタンだった。キリスト教の宣教は隣町である香春へも行われていたし、香春城主である孝之も宣教を容認して後押ししていた。 

1604年(慶長9)12月、廃嫡され江戸へ人質として送られる途中、京都建仁寺十如院より出奔した。1604年より10年間、祖父幽斎の援助により、養父興元と共に京都に住んでいる。1605年(慶長10)天草佐伊津の金濱城主の関主水の娘と結婚、嫡子興季が誕生。 

1610年(慶長10)祖父細川幽斎、父忠興により、香春領主・孝之に命令して豊前田川郡採銅所に「不可思議寺」を建立した。
初代住職に「宗慶」が就任していたが、1614年(慶長17)12月に発病、1615年(慶長18)4月4日に急死している。
時期的に「大坂の夏の陣」前に当たり、藩主忠興の暗殺と考えている。

 初代住職・宗慶・雪行善兵衛宗近
元香春岳城主千種信濃守髙橋九朗元種の家老。採銅所3村3,600石領有管轄して、城壁を片山ひしやけ原に築いていた。大友宗麟の攻撃を受け敗北。その後21家一門流浪した。
時勢が平穏になり採銅所の庄屋を拝命して片山立花にて繁栄した。63歳の時隠居。真言宗に帰依して上京。東本願寺門跡第12世教如上人に皈衣して皈戒を受ける。1610年(慶長15)細川孝之により「不可思議寺」が建立され、初代住職に就任した。
皈衣(きけい)・皈戒(きかい)

大坂の陣への参加
1614年(慶長19)10月「大坂の陣」に大将として参加。1615年(慶長20)5月10日大坂城落城。興秋は京伏見へ避難し逮捕され、6月6日、大坂の陣の責任を取らされて切腹させられた。しかし、実際には切腹してなく、田川郡香春町採銅所の「不可思議寺」へ隠蔽させられて第2代住職「宗順」として匿われた。 

1627年(寛永4)島原の宣教団が迫害のため壊滅したため、口之津を本拠としていた中浦ジュリアン神父は、興秋を頼り香春の不可思議寺に匿ってもらい、脳梗塞の治療をしてもらい全快している。 

興秋は不可思議寺第2代住職・宗専と号して1615年(元和元)より1632年(寛永9)12月の肥後への移封までの18年間、不可思議寺の住職を務める。

1621年(元和7)5月21日付け 長岡与五郎宛 細川忠利書状・熊本県立美術館所蔵

 *長岡与五郎宛、細川忠利書状、1621年(元和7)5月21日付け
1621年(元和7)興秋は脳梗塞を罹患している。江戸から元徳川家康の主治医である与安法印(片山宗哲)が遣わされて、漢方薬により治療を受け湯治をするまでに回復している。
興秋は書状にある田中半左衛門・長束助信宅へ採銅所の不可思議寺より運び込まれて、与安法印より治療を受けていた。長束助信の妻は、忠興の実妹・伊也の娘で、細川家の身内である。この関係を見ても、興秋の治療と隠蔽が如何に秘密裏に行われていたかが判る。

6月21日に藩主忠興引退に付き、忠利は小倉城へ入城して藩主となる。父忠興は中津城へ移り隠居した。父忠興の隠居に伴い「三斎宗立」と号した時、興秋も「宗順」から「宗専」と号を替えている。

天草佐伊津庄屋・中村藤右衛門家系図冒頭


明智光秀・細川ガラシャ・細川興秋・興季子孫・中村社綱氏(左)

*天草佐伊津庄屋・中村藤右衛門家系図からの証明

天草市南新町の中村社綱氏(第13代目)が、天草御領の初代大庄屋になった興秋の嫡子興季の息子・長岡宗左衛門興茂の弟(次男)中村五郎左衛門の直系の13代目子孫であり、佐伊津の庄屋を勤めていた。中村社綱氏が、中村藤右衛門の家系図「細川家初代藤孝、2代忠興、3代興秋、4代興季、5代中村藤右衛門」の家系図を持っておられ、開示して頂けたので、天草に避難してきた興秋の伝承が正しかったことが中村家の家系図により証明された。 

肥後熊本への移封
1632年(寛永9)12月、豊前・細川藩、肥後熊本へ転封。

興秋は「宗専」と号して、肥後熊本では山鹿郡鹿本町庄にあった「泉福寺」の住職として過ごしていたが、3年後の、1635年(寛永12)9月頃、近くに住んでいた小笠原玄也一家がキリシタンとして近くの百姓に長崎奉行の宗門奉行へ訴えられたため、巻き添えにならないように、家老の米田監物是季の手配により、息子興季の住む天草御領の東禅寺(キリシタン寺)へ避難している。東禅寺に避難した後、御領城内に「長興寺薬師堂」を建立していた。


「長興寺薬師堂」明治時代に取られた古写真・天草御領・芳證寺所蔵

 1637年(寛永14)に勃発した「天草島原の乱」の前、御領周辺のキリシタンたちに『乱徒に加わらないように説得」して回り、御領周辺の約8千のキリシタンたちが、興秋の説得に従いそれぞれが工夫して逃げている。興秋の建立した「長興寺薬師堂」は「天草の乱」の時、キリシタン乱徒軍により火を掛けられ消滅している。

「天草の乱」終結後、世の中が落ち着いたころ、八代へ避難していた興秋は御領へ戻り「長興寺薬師堂」(キリシタン寺)としてを再建している。

細川興秋(中央の墓碑)と2人の従者の墓碑・御領・芳證寺墓地内

1642年(寛永19)6月15日、脳卒中により病没。「長興寺薬師堂」の南側に埋葬された。葬儀は東禅寺(キリシタン寺)正願和尚が執り行った。 

*『細川興秋の真実』髙田重孝著の中に、興秋が歩んだ人生が記録されている。 

9、 小笠原玄也・みや一家

小笠原玄也は藩主細川忠興の小姓として仕えていたが、1度だけ棄教証文を書いたが、反省して、信仰を堅持し続けた。再三に亘る忠興の棄教勧告も拒否したため、1614年(慶長19)秋頃、小倉追放になり香春町中津原浦松の農家において、1632年(寛永9)12月の肥後への移封までの19年間、隠蔽されている。

愛宕山照智院・隠棲先の香春町中津原浦松
慶長年間(1596~1614年)火災にあい一山焼失の悲運にあった。しかし、細川忠興の命令により1613~1614年(慶長18~19年)に再建された。僧・永椿に命じて再興に当たらせ、寺禄50石を賜り、営繕費に充てられた。
*香春町史 宗教編 721~722頁
 
愛宕山照智院は真言宗に属し、細川家とは深い関係がある。細川藤藤孝(幽斎)の三男・幸隆を1582年(天正10)京の愛宕山下坊・福寿院に入れ、福寿院で得度して妙庵と号した。
忠興の三男・忠利も1594年(文禄3)から1598年(慶長3)4年間、下坊「福寿院」に入寺している。
*細川家記、綿考輯禄
 
忠興は京にある真言宗下坊「福寿院」との関係で、香春にあった愛宕山照智院が火災で消滅していたため、この地に1613~1614年(慶長18~19年)愛宕山照智院を僧・永椿に命じて再興に当たらせ、寺禄50石を賜り、1614年(慶長19)小倉から追放した小笠原玄也・妻みや一家を愛宕山照智院のすぐ下の農家に監禁して監視に当たらせていた。
 
寺禄50石を賜り営繕費に充てられたが、寺禄50石とは過大な費用である。寺社建設費用とは別に、寺禄50石の中には、役割として小笠原玄也一家の監視料が含まれていた。

寺録50石とは、1638年(寛永15)「天草島原の乱」で荒廃した天草を仏教で再興するために、代官鈴木重成が1649年(慶安2)東向寺が建立されて時に与えたと同じ50石である。天草を代表する曹洞宗・東向寺と同じ莫大な寺録が与えられた裏には小笠原玄也一家の監視料が含まれていた。
 
1614年(慶長19)「大阪の陣」の前に,、忠興は、小笠原玄也一人の信仰問題に構っている暇はなかった。小倉小倉城二の丸にあった加賀山隼人正の屋敷より追放された小笠原玄也一家は、愛宕山照智院下の中津原浦松の農家に4年間に渡り厳重に監視されていた。
 
1618年(元和4)中浦ジュリアン神父が小笠原玄也一家を中津原浦松の監禁されている農家に訪問している。訪問の後、逮捕され様になった中浦ジュリアン神父は興秋(宗順)により不可思議寺へ匿われている。
*イエズス会の記録

加賀山隼人正興良(右)加賀山半左衛門(左)墓碑・香春町中津原浦松

玄也の妻みやの父・加賀山隼人が信仰を棄てないために、1619年(元和5)10月15日、早朝、忠興の命令により処刑・斬首・殉教した。加賀山隼人の遺体は棄教しない小笠原玄也・妻みやへの見せしめのために、香春町中津原浦松にいる2人の元へ送りつけられた。

同日同時刻、豊後日出の木下家家老だった、隼人の従兄弟の加賀山半左衛門と息子ディエゴ(4歳)も棄教しないために処刑され殉教した。2人の遺体は小笠原玄也・妻みやの香春町中津原浦松の隠棲している元へ送りつけられた。 

肥後熊本・山鹿郡鹿本町での隠棲
小笠原玄也・妻みや一家は、肥後熊本へ移された後、山鹿郡鹿本町庄にある興秋の住職を務める「泉福寺」近くに於いて農業に従事していたが、1635年9月頃、近くに住む百姓「助十郎」が長崎奉行所へ訴え出たため、幕府の知るところとなり、藩主の細川忠利も庇いきれずに、11月4日附けで、宗門奉行の田中兵庫の屋敷内の座敷牢へ一家15人は入牢させられた。50日間の入牢の間に15通の遺書を書いている。

左側・加賀山みや・第12遺書・信仰告白
小笠原玄也と加賀山隼人の殉教・髙田重孝著より

加賀山みや・第12遺書より
『どんな情の強き者でも命を捨てるほどの得はございません。どんなうつけ者でも、自分の命を捨てる阿呆はございません。ただただ、捨てがたい信仰あっての事でございます。』
 

*『小笠原玄也と加賀山隼人の殉教』髙田重孝著の中に、15通の遺書の原文・読み下し文・現代語訳は収録されている。 

加賀山隼人息女の墓碑・熊本市花岡山中腹
同年、12月23日早朝、熊本市内の禅定院に於いて玄也・妻みや一家15人は斬首・殉教した。みやの遺骨は従兄弟である加賀山主馬可政(よしまさ)が貰い受け花岡山の中腹に埋葬した。墓碑は『加賀山隼人正息女の墓』として現在まで存在している。

10、加賀山隼人正ディエゴ興長

小倉教会の柱石・加賀山隼人正
1566年(永禄9)摂津国高槻に生まれた。幼い頃、高槻のセミナリオで学び、10歳の時、ルイス・フロイス(Luís Fóis)神父から受洗した。イエズス会の同宿として安土のセミナリオで学んだが、武士の道を選びキリシタン武将・髙山右近に仕えた。17歳の時、山崎の戦いで功を挙げ勇名を広めた。

1587年(天正15)7月、豊臣秀吉の禁教令で髙山右近が改易された時、22歳の隼人は、右近の親友でキリシタン大名の会津若松の蒲生氏郷に仕えた。蒲生氏郷と共に会津若松へ移り住んだ加賀山隼人は、東北の地へ初めてキリスト教を布教し、会津の地に教会と修道院を造っている。氏郷が病死したとき、当時丹波にいた細川忠興に召し出され仕える様になった。各地の戦いで数々の功績をあげ、1600年(慶長5)関ヶ原の戦いでは抜群の功績をあげた。

忠興の信頼も厚く、中津に転封された時は2千石を賜り、下毛(しもげ)郡の奉行に任ぜられ6千石を与えられた。セスペデス(Gregorio de Céspedes)神父と共に中津教会を始め、豊前の国の布教に尽力して約3,000のキリシタンが受洗した。信徒組織・コンフラリアを組織してキリシタン同士の相互扶助に勤め、豊前における信仰の中心人物的存在であった。

加賀山隼人正興良肖像画・加賀山興純氏画

セスペデス神父が豊前・中津で働き始めた頃、小笠原玄也の妻みやの父であるディエゴ加賀山隼人正は中津郊外の下毛郡の奉行をしていて、セスペデス(Gregorio de Céspedes)神父と共に教会を立ち上げるために働いていた。加賀山隼人はシモン清田朴斎と共に『教会の柱石』と称えられるほど豊前に於ける信徒の中心だった。加賀山隼人の長女、みやは後に小笠原玄也の妻になる。 

藩主細川忠興からの再三に亘る棄教勧告に従わず、信仰を堅持し続けた。忠興も小倉地方における中心人物である加賀山隼人を1年半に渡り狭い御船小屋に閉じ込めて棄教を迫ったが、棄教を受け入れない隼人を庇いきれずに切腹を命じたが、熱心なキリシタンである隼人は「キリストのために斬首される」ことを選んだ。 

1619年(元和5)10月15日早朝
加賀山隼人正(54歳)、豊前小倉に於いて斬首処刑(殉教)
同日同時刻、加賀山半左衛門(49歳)、息子ディエゴ(4歳)
豊後日出に於いて処刑(殉教)された。
遺体は小笠原玄也・妻みやの住んでいた香春町中津原浦松へ運ばれ埋葬された。

 11、中浦ジュリアン神父

中浦ジュリアン・ウルバーノ・モンテ年代記より

1627年(寛永4)島原の宣教師団が幕府の迫害により壊滅したため、本慮としていた口之津より興秋を頼って香春町採銅所の「不可思議寺」へ避難してくる。当時、中浦ジュリアン神父は脳梗塞を罹患していて、興秋の手当てにより回復する。 

興秋の庇護の元、採銅所の不可思議寺を本慮として、6年間、豊前小倉、中津、筑後秋月・甘木・今村方面まで宣教活動を1632年(寛永9)12月まで展開する。 

盟友の伊東マンショ神父が残した豊前のキリシタンの世話を中浦ジュリアン神父が引き受け、慰めと希望と信仰を維持するように励まし続けている。新しくキリシタンになりたい人々には洗礼を授けている。 

1632年(寛永9)12月、細川藩の肥後への転封時、興秋に同行が許されないため、香春から小倉の宣教師のための宿主宅に避難していたが、新しく豊前に移封されてきた小笠原家により小倉に於いて逮捕され、長崎の桜町の牢屋へ送られ、翌年1633年(寛永10)10月21日、西坂に於いて穴吊るしの刑により殉教した。遺体は火葬され、残った骨と遺灰は袋に詰まられて、長崎港の外の海に沈められた。



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