髙田重孝

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明智光秀に対してのイエズス会の評価と 歴史に記録されている明智光秀の姿

明智光秀に対してのイエズス会の評価 *完訳フロイス(Luís Fróis)『日本史3』織田信長編Ⅲ  第56章(第2部41章)143~152頁 1582年11月5日附け 明智光秀について  「信長の宮廷に惟任日向守殿、別名十兵衛明智殿と称する人物がいた。彼はもとより高貴の出ではなく、信長の治世の初期には、公方様の邸の一貴人兵部太夫と称する人に奉仕していたのであるが,その才略,深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けることとなり、主君とその恩恵を利することをわきまえていた。殿内に

    • 本能寺の変の明智光秀と細川藤孝   玉の三戸野への幽閉と小侍徒のこと

      本能寺の変の明智光秀と細川藤孝 玉の三戸野への幽閉・小侍徒のこと 本能寺の変後の明智一族の行動 1582年(天正10)六月二日早朝、明智光秀は本能寺において織田信長・信忠父子を殺害した。当日午前中光秀は「京都・洛中」を鎮めて、細川藤孝が元いた青龍城に明智勝兵衛を残して、午後にはいったん自分の城である坂本城に戻っている。五日、信長の居城・安土城に入っている。その後、琵琶湖の秀吉の居城・長浜や佐和山に乱入して近江一国を平定して十日には坂本に帰っている。 安土城では本能寺で信長

      • 細川忠興による清原マリアいとと小従徒の解任

        細川忠興よる清原マリアいとと小侍徒の解任 イエズス会の報告より *『16,17世紀イエズス会日本報告集』第Ⅰ期第3巻 244~248頁 これら変革の時、大坂で生じたキリシタン夫人(細川)ドナ・ガラシャの悲しむべき死去について(第27章)より 1600年(慶長5)オルガンティーノ(Soldo Organtino)神父のの書簡によると『彼女(ガラシャ)は司祭たちにはいとも従順で、彼らと自らの霊魂の事について語らった。彼女の従順さは、司祭たちが彼女に、邸内に、良心的には三人も

        • マリア清原いと(ガラシャの侍女頭)について

          マリア清原いと(ガラシャの侍女頭)について いとは儒学者の清原枝賢に次女として生まれている。清原家と細川家とは姻戚関係にあった。おそらく明智玉(16歳)が細川家に輿入れした1578年(天正6)頃には、侍女として細川家に仕えていたと考えられる。いとは細川家に仕える侍女であり、1582年(天正10)6月2日『本能寺の変』により玉の三戸野への幽閉が決められた時、玉に随行する人々は明智家から玉の婚礼に付き従い、そのまま細川家に仕え組みこまれた人々により構成されているので、細川家に奉

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          香春とキリシタン展の解説・講演内容

          「香春とキリシタン展」の講演会での解説説明をお知らせいたします。  香春とキリシタン 2023年10月29日 日曜日 午後1時より     ヴァージナル演奏とグレゴリオ聖歌演奏・講演    香春町町民センター内 香春のキリシタン 1829年(文政12) の香春に於ける「宗門改め」の記録  豊前国田川郡の宗門改めは、1793年(寛政5)4月4日、香春町の香春岳の下にある光願寺(大字香春山下町)に於いて「宗門改め」が行われた。 1829年(文政12)の「宗門改め」の記録に

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          加賀山隼人正興良の墓碑の移動説について

          加賀山隼人・加賀山半左衛門の墓の移動説について 加賀山氏画博覚書きと豊前村誌との相違についての考察 奥田興純覚え書き *加賀山興純著 加賀山氏画傳覚書より 『家記二隼人墓ノ事不詳、或ハ豊前圀髙波郡ノ中云々、田川郡(髙波ノ?又浪ト誤レリ)興純序ヲ以テ行タリ。左二田川郡香原ヲ出、北二行事数町右側二加々美山八幡ノ?有リ。尚北二行事数丁ニシテ一村落有リ。呼野山ノ方ヨリ落来ル川ヲ渡リ、突出タル崎山畑ナリ。一翁ニ導カレ行ルニ今ハナシ。翁ハ此辺ニ有リシト云村民ニ問ヘト知ラス。此翁ハ元

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          香春とキリシタン展・特別企画の御案内

          香春とキリシタン展・御案内・ポスター 2023年 10月8日より11月19日まで 入場無料 福岡県田川郡香春町町民センター2階 歴史資料館 10月29日・日曜日・午後1時30分より・香春町町民センター 『香春とキリシタン』と題して、当時香春のキリシタンたちが歌っていたグレゴリオ聖歌のコンサートと講演をさせていただきます。御多忙中とは思いますが、皆様のお越しをお待ち申しております。 10月29日・日曜日・午前10時より・ワークショップ「昔の鍵盤楽器・ヴァージナルにふれてみよ

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          細川ガラシャ自害の記録・霜女覚え書きについて

          霜女(志も)覚え書き・原文・読み下し文 しうりんいん(秀林院)様御はて被成候次第之事 一、 石田しふのせう(治部少)らん(乱)のとし七月十二日におかさわらしょうさい(小笠原少斎)・河きたいわみ(河喜多石見)両人御たい所(台所)まてまいられ候て、わたくしをよび(呼び)出し、申され候ハ、しふのせう(治部少)方より、いつれもひかし(東)へ御たちなされ候大名衆の人しち(質)をとり(取)申候よしふうふん(風聞)つかまつり候か、いかか(如何)仕候はんや、と申され候ゆへ、すなわち、しゆ

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          イエズス会が記録した細川ガラシャの姿

          イエズス会が記録した細川ガラシャの姿 イエズス会が描いた細川ガラシャの姿は、1578年(天正6)結婚後の禅宗の学びの様子から、その後の1582年(天正10)6月2日早朝、玉の父・明智十兵衛光秀の織田信長に対する謀反「本能寺の変」により、玉の三戸野での幽閉まで遡り、1587年(天正15)の春の教会訪問から侍女を通してキリスト教の教義を学び、洗礼を受けるまでのガラシャ(伽羅奢)の改心の様子を中心に、1600年(慶長5)7月17日、大坂の細川邸での自害の様子を克明に記録されている

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          細川ガラシャとその時代が語るもの ガラシャの信仰に対する思想の構築課程

           細川ガラシャとその時代が語るもの 細川ガラシャの信仰に対する思想構築課程 思想構築の極限の姿としての信仰  明智玉にとって信仰する事とは、学習することにより禅宗に関する強い関心や学んだ知識を自分に中に取り入れ理解することが自分の思想を構築することであると知っていた。それ故に、熱心に禅宗の教義を学んだのであり、玉が求めていた心の安らぎを禅宗に中に見出そうとしていた。玉にとっての信仰とは思想構築の行き着いた姿の信仰であった。 玉が後にキリスト教に対して示した篤い信仰心は、す

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          禅宗に満足しなかった大友宗麟と細川ガラシャ・宗麟とガラシャの禅宗からキリスト教への改宗の同一性

            禅宗に満足しなかった大友宗麟と細川ガラシャ 宗麟とガラシャの,禅宗からキリスト教への改宗の同一性 大友宗麟   1530~1587年・享禄3~天正15年 細川ガラシャ 1563~1600年・永禄6~慶長5年 細川ガラシャ(伽羅奢) 略歴 1563年(永禄6)  明智十兵衛光秀の三女、玉(玉子)誕生 1578年(天正6)  細川忠興と結婚(16歳) 1579年(天正7)  長女 長誕生(宮津城) 1580年(天正8)  長男 忠隆誕生(宮津城) 1582年(天正10)

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          三宅藤兵衛重利が天草全島で行ったキリシタン迫害について

          三宅藤兵衛重利の行った天草全島での迫害 天草御領における三宅藤兵衛と長岡興秋と嫡子興季の関係について  1609年(慶長14)に来日した、クリストヴァン・フェレイラ(Cristovão Ferreira)は1614年(慶長19)の伴天連追放令の後も密かに日本に留まり、主に西九州で布教活動に従事していた。1629年(寛永6)から1630年(寛永7)にかけて5ヶ月間、天草の大矢野島に滞在して布教活動をしている。徳川幕府の政策によりキリシタン禁教令が一段と厳しくなり、多くのキリシ

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          細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所についての考察

          細川興秋の天草・島原の乱の時期の避難場所  1637年(寛永14)10月頃から1638年(寛永15)3月頃の避難場所の推定に関する考察 泰勝院 細川家の菩提寺である泰勝院。細川忠興三斎の父・幽斎玄旨(藤孝)は1605年(慶長15)8月20日未の下刻に京都三条車屋町の細川邸で死去(77歳)した。葬礼は9月18日牛の上刻、小倉野上の原において厳粛に執り行われた。忠興三斎は父幽斎の追善のため、翌1606年(慶長16)亡き父の一周忌に、小倉に菩提所「瑞雲山泰勝院」を創建した。寺号は

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          天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルが1584年(天正12)9月14日、ポルトガルのエヴォラ大聖堂で演奏した4つの聖歌について

          天正遣欧少年使節の伊東マンショと千々石ミゲルが1584年(天正12)9月14日、ポルトガルのエヴォラ大聖堂で演奏した4つの聖歌について  今年、2023年4月1日に『太閤・豊臣秀吉の京都聚楽第で天正遣欧少年使節が御前演奏した曲について』をnoteに掲載した。その中でグレゴリオ聖歌より3曲選んで紹介した。 1590年(天正18)7月、8年6ヶ月の長旅を終えて日本に帰国した天正遣欧少年使節が、1591年(天正19)3月3日、太閤豊臣秀吉の京都聚楽第で御前演奏して歌われた歌は、

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          キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について

          キリシタンが歌った六つの聖母マリア讃歌について 六つのアヴェ・マリア讃歌【聖母讃歌】(作られた年代順) 1、アヴェ・マリア(Ave Mari)めでたし、マリア、恵みに満ちた人     1000年頃 2、サルヴェ・レジナ(Salve Regina)めでたし元后・憐みの母       1000年頃 3、サルヴェ・マーテル(Salve Mater)めでたし、慈悲深い聖母       1000年頃 4、アルマ・レデムットリス(Alma Redemptoris)救い主を育てた母 

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          キリシタンたちが殉教した時に歌った六つの聖歌

          キリシタンたちが殉教した時に歌った六つの聖歌 はじめに 1549年(天文18)フランシスコ・ザビエル(Francisco de Javier)が日本にキリスト教を伝えて以来、キリスト教の教える慈愛に満ちた教理と、神の与える真の永遠の命を信じたキリシタンたちは、自分たちよりも貧しい人々に対して見返りを求めない奉仕活動を通しての働きは、この時代の社会で異教徒たちを入信に導いた一番効果的な方法だった。無私無欲でキリストに仕えるように人々に仕える名もなき信者たちの姿は、誠の言葉無き

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