筑紫箏の始祖・諸田賢順に関する諸問題


臼杵市門前地区・海蔵寺塔頭・龍宝庵跡地に立つ石碑
諸田賢順制作の筝・多久市郷土資料館所蔵
佐賀市川副・正定寺
佐賀市善導寺

筑紫箏の始祖・諸田賢順に関する諸問題
諸田賢順に関する諸問題

1 誕生年に関する考察 

天文生まれの2つの説
*天文3年~元和9年(1534年~1623年)説
『諸田氏系図』、『諸田系志』、今泉則文『千枝落葉』、多久市諸田稔氏蔵『諸田賢順位牌』

*天文16年~寛永13年(1547年~1636年)説
(生まれた年は、没年の90歳没から逆算した)
伝賢順作箏内の銘文、『松響閣箏話』、『筑紫楽伝統系』、『軒はのまつ』、

*天文3年~元和9年(1534年~1623年)説
『諸田氏系図』(多久市郷土資料館蔵)

1812年(文化9年)多久邑家臣245家が差し出した*「多久諸家系図全七冊」第四巻に収録されている。賢順没後189年後に賢順から8代目の諸田和十によって書かれ、多久邑領主に差し出された記録であるので、内容においてもかなりの項目に矛盾点が指摘される。おそらく、賢順の略歴を基準として、その中に著者の家に伝承している話や、伝承に想像が織り込まれて書かれ、それが差し出されたと思われる。

「賢順天文三年生文禄二年六十歳生常雲元和九年発亥七月十三日卒九十法名賢順養晋」とあり、『諸田系志』もほぼ同一内容が記されている。

*尾形善朗「〈筑紫箏皆伝秘録〉ほか翻刻五種」『佐賀県立博物館・美術館調査研究書』一五集 平成2年 6頁 

『諸田系志』(多久市江北町花祭、諸田達雄氏蔵)
「賢順天文三年生文禄二年六十歳生常雲元和九年発亥七月十三日卒九十法名賢順養晋」とあり、『諸田氏系図』とほぼ同一内容が記されている。 

*天文3年生まれの典拠は『諸田氏系図』『諸田系志』の2つの諸田家系図にしか見られない。
『諸田賢順位牌』の没年・元和九年から逆算したら誕生年は天文3年(1534年)になる。

 

『千枝落葉』(鍋島報效会蔵 000の2)
今泉則文著  元治元年(1864年)序
『元和九年七月十三日九十歳ニシテ卒ス賢順養晋禅定門ト謚ス』

賢順没後241年後の記録なので、おそらく賢順没後189年後の書かれた『諸田氏系図』『諸田系志』の2つの諸田家系図を参考にして52年後に『千枝落葉』が編纂された時に書かれたと考えられる。 

『賢順位牌』 (多久市北多久町大字小侍339・1 諸田稔氏蔵)
表面右側墨書「賢順養晋庵主」
  左側墨書「善譽妙順禅定尼」
背面右側墨書「元和九年発亥七月十三日 享年九十」 

位牌は縦17・3cm、横3cm、7cmの杉板に、上記が墨書きしてある。
厨子は総高46・4cm、最大幅17,1cm、木製。この中に納められている。

位牌の杉板と墨書きは、おそらく当時のものではなく江戸時代に作られたような印象を受ける。 

*天文16年~寛永13年(1547年~1636年)説
『伝賢順作箏』 (多久市郷土資料館蔵)

天文3年(1534年)説では、天正11年(1583年)は賢順49歳の時の箏の作成となる。 

箏の内部に『干時天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年歳作なわす/河副庄北古賀金左衛門尉』と書いてある。天正11年10月27日・1583年、賢順が37歳の時、制作した箏で、1634年(寛永11年)河副庄北古賀金衛門伊尉が修復したことが判る。 

本箏内の銘文により、今泉千秋(1809~1900年)は、賢順の生没年が『諸田氏系図』等に記載の天文3年(1534年)生まれではなく、天文16年(1547年)と考えて、父・今泉千春著『松響閣箏話』等を含めすべて訂正した。付属の掛軸は、銘文の写しの横に、賢順の生没年についての訂正とも解釈できる書き込みがある。 

【箏箱】箏形杉箱。蓋裏に墨書あり。

『諸田賢順ハ松浦左近三郎為定の裔孫宮部日向守武成の子なり天文九気季(1540)武成長門役に戦死す時に賢順年甫七歳善導寺にいり/僧となり傍音律を嗜ミ其寺に蔵せし筑紫箏譜を得私淑して是を多久安順室千鶴子に伝ヘ又柱厳寺の玄恕に伝ふ玄恕正定寺超誉上人に伝ふ今に臻り聯綿絶す遂に/王政復古治世の音とはなれりける村田道碩師造する所の箏を蔵せり道碩死して後男村田豊作東京に住し家貲と共に齎してありつるを今年二月松井通照の憲法発/布の詔によて東京に行公務の間村田豊作を訪て此箏を得琴の腹に曰天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年作りなわす 河副庄北古賀金左衛門尉/明治廿六年七月三十日 今泉千秋』 

この箏箱裏の裏書により、1893年(明治26年)2月、今泉千秋の弟子であった裁判官・松井通照が東京に公務で訪れた際、村田豊作氏宅にあった本箏を見つけ入手して、今泉千秋のもとに持ってきた経緯が今泉千秋自身の筆で記載されている。その後所有者が転々としたが現在は多久郷土資料館蔵となっている。

箏の修復者の住所が『河副庄北古賀』在住であった金左衛門尉であるので、寛永11年(1634年)頃の所有者は南里川副の正定寺ではなかったかと銘文から推測される。 

1705年(宝永2年),徳応『秘録』に、賢順は自ら箏を作り、今遺っている箏も多いと記述されている。多久市郷土資料館蔵の箏以外にも、佐嘉南里川副の正定寺にも、賢順作の箏が伝来していたと記録されている。箏をはじめ雅楽器の製作は、江戸時代になって和楽器専門の職人が登場する以前は、主として寺僧達が自ら制作していた。善導寺にいた賢順は当然のこと、箏の製作法を学んでいたと考えられる。 

1556年5月、賢順は大友義鎮(宗麟)に出仕するように言われた時、大友義鎮は賢順に、昨年(1555年)5月頃・明国から鄭舜功が豊後府内に来航して、大友義鎮に謁見して倭寇の禁圧を願っていること。義鎮は、鄭舜功一行を国賓の待遇でもって扱い、臼杵での第1の大きい寺である海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎として提供していること。明国の使節の中に『鄭家定・テイカテイ』(『鄭家定』は『鄭舜功』の兄弟、あるいは身内かとも思われる)と言う素晴らしい楽士がいて古代より伝わる中国の琴の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も伝授できることを賢順に伝えた。この時に、最新の明国の箏の製作方法を、豊後臼杵の海蔵寺・塔頭龍宝庵に滞在していた鄭家定から学習したと考えられる。これが後に賢順により、徐々に改良を加えられて、現在、多久郷土資料館に保管されている『伝賢順作成の箏』であり、それに装飾を施された箏が『鳳凰の箏』と考えられる。 

賢順、鄭家定について、明の音楽を学ぶ(5月下旬頃~11月)
【推論】大友義鎮に出仕するように言われた時、大友義鎮は賢順に、昨年(1555年)5月頃・明国から鄭舜功が豊後府内に来航して、大友義鎮に謁見して倭寇の禁圧を願っていること。義鎮は、鄭舜功一行を国賓の待遇でもって扱い*臼杵第一の寺・海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎として提供していること。明国の使節の中に『鄭家定・テイカテイ』(『鄭家定』は『鄭舜功』の兄弟、あるいは身内かとも思われる)という素晴らしい楽士がいて、明国の「善鼓・琴」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の琴」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等の真髄を会得ていること。また彼は、古代より伝わる中国の琴の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も伝授できること。鄭舜功一行は、ほぼ来日の目的を達成して、今年の(1556年・弘治2)秋頃にも明へ帰国する予定であること等の情報を、賢順に伝えたと考えられる。
 

豊後府内に移り住んだ賢順は、大友義鎮の推薦状を携えて臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵を宿舎としている鄭家定を訪ねて、早速に教えを乞うたと思われる。

明國の『鄭家定テイカテイ』について、「善鼓・琴」「五音六音の音階や、三・五・七・十三・二十五弦の琴」「伏義・神農・黄帝の時代から伝わる古代中国の古事」更に「文武の宮廷上古の曲譜」等を学びその真髄を会得したと『諸田系志』は記している。この時に古代より伝わる中国の琴の音律,漢詩(古詩)及び楽譜の書き方や箏の制作方法も教授され、賢順はそれらを学び習得した。鄭家定は自分の骨髄を会得し得る人を、かつて日本で会ったことがなかった。府内で教えた賢順はその妙手であり「通鬼神感」と賢順のことを賞賛している。賢順の弾く箏の音と、箏に合わせて朗々と歌うその声は「梅花然其調聲流存」と言った。鄭家定は、鄭舜功使節と共に半年後の1556年秋に明国へ帰国している。 

*臼杵の海蔵寺の塔頭・龍宝庵
大友記によれば、海蔵寺は旧市内から西へ2km程行った門前地区の谷間に建立されていた。

海蔵寺は、豊後国の国主16代・大友雅親公によって、1482年(文明14年)に建立されたと伝えられている。その寺域は広く現在の戸室の台にまで及び、多くの塔頭(たっちゅう・本寺の境内にある小さな寺)があったと記されている。その塔頭の名が地名となり、今に至っている場所もある。上市浜地区の呑碧(どんぺき)は、元海蔵寺の塔頭のひとつであった呑碧庵(どんぺきあん)の名が地名になり残った場所である。また、久保の天神様には鎮守社が祭ってあったと伝えられている。 

『海蔵寺跡・羽衣山海蔵寺』
『臼杵小鑑に、この寺は豊後の国の国主であった第16代大友政親公によって、文明14年(1482)に建立されたと伝えられている。正親公の法名は「海蔵寺殿珠山如意大禅定門」である。寺は大友家第一の大寺で、今の門前・戸前の岡まで海蔵寺の寺域であった。また多くの塔頭(本堂の境内にある小さな寺)があり、この塔頭のうち「知足庵」「呑碧庵」が良く知られていた。その後、第21代大友宗麟公がキリシタンを信じた時に、この寺は破却された。後寛文の頃(1661~1673)月桂寺の和尚が草庵を結んだが、明治17年(1887)堂宇はことごとく破却された。同20年(1887)ここの16羅漢の石像は月桂寺に移された。市濱の小野天神(久保天神・天満神社)は海蔵寺の守護神として建てられた。』 

『海蔵寺跡』
『街の家並みの中で、ひときは目立つ勾配の強い寺院の甍(いらか)。臼杵では寺院のほとんどが旧市内に集めれられていることもあって、至る所でお寺を見かけることができる。これらの寺院の大部分は、稲葉氏が慶長5年(1600年)臼杵城主として入部し、城下町を整備してから建立されたものである。これより前の寺は、1ヶ所に集中することなく、領内各地に散在していた。稲葉氏の入部以前から存在していた寺院の中で、今日まで存続している寺は数ヶ所しかなく、他はすべて廃寺となっている。

この廃寺のひとつに海蔵寺がある。旧市内から西へ2km程行った門前地区の谷間に海蔵寺は建立されていた。現在、この寺跡の谷間の一帯は宅地造成や植林による地形の変化、更に雑草木の繁茂等により当時の様子等を知ることはできないが、わずかに残る石垣や池の跡から、在りし日の寺の姿を偲ぶことはできる。

記録によれば、海蔵寺は、豊後国主であった第15代大友政親公のより、文明14年(1482)に建立されたと伝えられている。その寺域は広く現在の戸室の台にまで及び、多くの塔頭があったと記されている。その塔頭の名が地名となり、今に至っている場所もある。上市浜地区の呑碧(どんぺき)は元海蔵寺の塔頭のひとつであった呑碧庵の名が付いて地名となった。

また久保の天神様には鎮守様が祀ってあったと伝えられている。海蔵寺は大友宗麟の時代に無住の寺となったが、寛文の頃(1661~1673年)月桂寺の和尚がこの地に草庵を結んで以後は、明治に至るまで月桂寺の末寺として栄えたと言われている。』
(加賀輝三氏・臼杵郷土史家・加賀輝三氏の許可を得て転載)
(臼杵市文化財教室・門前地区の歴史を知ろう・昭和58年3月号に掲載・平成21年11月号に再録より) 

1578年7月25日大友宗麟受洗。臼杵教会で大友宗麟は洗礼を受けて、ドン・フランシスコと称した。宗麟の新婦人、およびその娘も受洗。

大友宗麟も1578年(天正6)までは全盛を極めたが、同年11月、日向の高城・耳川の戦いで島津軍に敗れて以来、大友氏の勢力は急激に衰えていった。大友宗麟の受洗を期に、宗麟がキリシタンになったので、各地の寺は1579年以後強制的に破却されて無住の寺となった。この時、臼杵の第1の寺、海蔵寺も破却された。 

稲葉氏が1600年、関ヶ原以後、臼杵城主として入部して、領内各地に散在していた寺を現在の旧市内の二王座周辺に集め寺町を形成した。

稲葉氏は月桂寺・臨済宗妙心寺派(臼杵市大字二王座197・☎0972・62・3669・)を菩提寺と定めた。1608年(慶長13年)湖南宗嶽禅師を開山,臼杵藩・藩祖の稲葉良通(一鉄公)を開基として第2代藩主・稲葉典通により創建された。臼杵5万石の藩主・稲葉氏の菩提寺であり、墓所内に稲葉家と奥方の2つの霊廟が建っている。 

1660年代(寛文時代・1661~1672)月桂寺の和尚が隠居のために、無住の寺跡地だった元海蔵寺跡地に草庵を結んで以後、明治17年(1884年)まで月桂寺の末寺として栄えていた。

大友宗麟により1578年の破却以後、1660年代(寛文時代・1661~1672)まで82~93年間放置された後に、草庵が結ばれたことになる。

現在、この海蔵寺一帯は、宅地造成や植林による地形の変化、更に雑草木の繁茂等により当寺の様子等は想像できないが、山裾に残る石垣や池の跡地、海蔵寺跡地の裏山の石碑等などから在りし日の海蔵寺の姿を確認して偲ぶことができる。石碑には1824年(文政7年)に月桂寺の和尚が隠居した記念碑として建立したことが書いてある。隠居した月桂寺の和尚により1824年(文政7年)に記念碑が建立されたが、海蔵寺が放置された1579年以後、245年経過した後に建立された記念碑である。

この記念碑を建立した月桂寺の和尚は、明国使節が1555年5月に来日、翌1556年11月に帰国している事実は知ることもなく、寺の縁起・由来の歴史としてのみを石碑に記録している。 

明国使節は1555年5月に来日、翌1556年11月に帰国しているので、その1556年の帰国の時点から計算したら268年経過した後に建立した海蔵寺の記録としても非常に重要な意味を持つ石碑である。 

今回、臼杵の海蔵寺跡の裏山跡地で見つけた石碑碑文を解読して、諸田賢順は従来、善導寺で学んでいた箏の製作法に加えて、臼杵の海蔵寺の龍宝庵で当時来日していた明国の鄭家定より、最新の明国の箏の製作法を新たに学んでいた事実が、賢順の系図に書かれていた文章と、臼杵の海蔵寺跡地裏山にある石碑碑文から事実であることが証明できた。 

【海蔵寺跡地裏山の石碑碑文・文政7年(1824年)甲申の年の正月に建立】

海蔵寺石碑文5点: 原文漢字と現代語訳  (現代語訳協力:菊池美穂教諭)

①   海蔵寺開山の銘(正面の上下)  

(上)大圓覺寳塔
現代語訳:大きな縁起(物事の起こり・由来)を宝として覚える(記憶に留める)塔 

②   (下)渡宋宗匠          

前南禅海蔵
開山要翁綱      
大和尚禅師

現代語訳:宗匠・道元(1200~1253年)は、1200年(正治2) 京都久我家で生まれ、1214年(建保2)出家して、園城寺・建仁寺で学ぶ。1223年(貞応2) 明全と共に渡宋・南宋に渡って諸山を巡り、曹洞宗禅師の天童如浄より印可を受けて1226年帰国。1233年(天福元)京都に興聖寺を開くが後に越前に移り、1244年(寛元2) 傘松に大沸寺を開く。1246年(寛元4) 大沸寺を永平寺に改める。1248~49年(宝納2~3) 執権北条時頼、波多野義重等の招請により教化のために鎌倉に下向する。1253年(建長5) 病により永平寺の貫首を弟子の孤雲懐装に譲り、1253年京都で死去。

海蔵寺は、以前は臨済宗南禅寺に属していた
必要があり開山して、翁(和尚)がこれを綱(再興・繋ぐ・存続)した
禅師大和尚がこの事(建立)を成した

*宋国:960~1279年、北宋は960~1127年、南宋1127~1279年滅亡までの期間
*明国:1368~1644年滅亡までの期間

③   正面左側    两開基 

勝光寺殿 
海蔵寺殿 神儀 
大友家本攴貴
屬各々神儀 
淑霊等

現代語訳:勝光寺と海蔵寺の両方の寺を開き、神儀の基を作る
大友家が元々はこの寺を貴んでいたがこれを破却した
それぞれの寺の神儀を続け
その霊を淑(しとやか)にと祈る

④   裏面 
告文政七年甲申
正月
本朝金剛経初剣
法窟羽衣山隠寓
再住妙心春澤嵩拙
謹建識焉

 現代語訳:文政7年(1824年)甲申の年の正月に建立
この寺の金剛力士像、経典,初剣を祀る
仏法の窟(寺)である羽衣山に隠居として寓(住む)する
妙心春澤嵩(和尚の法名)は未熟者であるが再び住む
謹んでこの地にこの碑を建立した

⑤   正面右側
海西諸山一本
寺歴代祖師
大和尚
境内四十二攴
院歴代諸老
和尚等

現代語訳: 海の西、諸々の山のうち第一が本寺(海蔵寺)であり
 歴代の祖師である大和尚が住んでいる
境内には42の塔頭を抱えている
この寺には歴代の諸々の隠居した和尚が住んでいた

 現在地:臼杵市稲田(大字)門前・天神社奥の住宅地の裏山

旧市街より、国道217号線で土橋交差点を直進、臼杵川を渡ったらすぐに左折、天神社前の交差点を天神社の方へ直進。谷の沢の小川を右に見てさらに山側に進むと突き当りが篠田家と丹生家(1795番地)。篠原家の場所に海蔵寺の本堂があった。篠田家の裏山に海蔵寺の銘がある。丹生家の左下に元海蔵寺の小さな池が現存している。元の大池は、現在の篠田家・丹生家の敷地から右の小川に架かる渡り橋の下あたりから、すぐ上流に砂防ダムが見えるところまで広範囲にあったとのこと(丹生家夫人の話し)。小さな渡り橋で小川を渡ると,住宅(1779番地)の裏奥の右手に2段になった古い石垣が現存していて、その石垣の上下付近に昔塔頭龍宝庵があったと推測される。

(臼杵バプテスト教会松永正俊牧師と髙田重孝の現地調査・2018年5月31日実施)(写真より碑文解析、菊池美穂教諭協力)

『松響閣箏話』(中村公生氏蔵)
原本成立は1834年(天保5年)今泉千春著。今泉千秋校訂。

筑紫箏伝承史に関する筑紫箏資料の内容紹介、10曲の歌詞を記載している。序文は今泉千春の弟子・鍋島直興(平井篤代書)、跋文は千春の友人・古賀穀堂(武富定保代書)。息子今泉千秋によると、今泉千春は、蓮池鍋島直興に勧められてこの書を著したとのこと。 

『筑紫楽伝統系』(中島靖子氏蔵)
今泉千秋(1809~1900年)自筆著。1896年(明治29年)以降。袋綴じ。

筑紫箏伝承者系譜。追加、訂正、書き込み等が多く判読は容易ではない。賢順の没年『元和9年・1623年』を『寛永13年・1636年』に訂正している。 

『軒はのまつ』(中島靖子氏蔵)
今泉千秋(1809~1900年)自筆著。袋綴じ。筑紫箏伝承史。曲の解説等大規模な総合的研究書作成を計画していたと推測される書の草稿。内容は極めて重要な事柄が多く網羅されている。

天正11年10月27日・1583年、賢順が37歳の時、制作した箏で、1634年(寛永11年)河副庄北古賀金衛門伊尉が修復したことが判る。本箏の銘文により、今泉千秋(1809~1900年)は、1893年(明治26年)2月、今泉千秋の弟子であった裁判官・松井通照が東京に公務で訪れた際、村田豊作氏宅にあった本箏を見つけ入手して、今泉千秋のもとに持ってきて以後、賢順の生没年が『諸田氏系図』等に記載の天文3年(1534年)生まれではなく、天文16年(1547年)と考えて、父・今泉千春著『松響閣箏話』等を含めすべて訂正した。付属の掛軸は、銘文の写しの横に、賢順の生没年についての訂正とも解釈できる書き込みがある。つまり、天文16年~寛永13年(1547年~1636年)説は、『伝賢順作箏』内部の銘文、1583年(天正11年)賢順37歳から、90歳没を1636年、誕生を1547年と割り出したものである。従って、『諸田賢順の系図』において歴史的に確定している事実に照らし合わせた場合、天文16年~寛永13年説は多くの問題点を露呈している。
 

【推論】
天文3年(1534年)説では、天正11年(1583年)は,賢順49歳の時の箏の作成となる。

天文16年~寛永13年(1547年~1636年)説は、『伝賢順作箏』(多久市郷土資料館蔵)箏の内部に『干時天正十一年十月廿七日作者賢順斎卅七歳/寛永十一年歳作なわす/河副庄北古賀金左衛門尉』と書いてある銘文に由来して今泉千秋が1893年(明治26年)以降提唱し始めた。

天正11年10月27日・1583年、賢順が37歳の時、制作した箏で、1634年(寛永11年)河副庄北古賀金衛門伊尉が修復したことが判る。本箏の銘文により、今泉千秋(1809~1900年)は、1893年(明治26年)2月、今泉千秋の弟子であった裁判官・松井通照が東京に公務で訪れた際、村田豊作氏宅にあった本箏を見つけ入手して、今泉千秋のもとに持ってきて以後、賢順の生没年が『諸田氏系図』等に記載の天文3年(1534年)生まれではなく、天文16年(1547年)と考えて、父・今泉千春著『松響閣箏話』等を含めすべて訂正した。付属の掛軸は、銘文の写しの横に、賢順の生没年についての訂正とも解釈できる書き込みがある。つまり、天文16年~寛永13年(1547年~1636年)説は、『伝賢順作箏』内部の銘文、1583年(天正11年)賢順37歳から、90歳没を1636年、誕生を1547年と割り出したものである。従って、『諸田賢順の系図』において歴史的に確定している事実に照らし合わせた場合、天文16年~寛永13年説は多くの問題点を露呈している。 

天文16年~寛永13年説の矛盾点

11540年(天文9)宮部日向守武成の死去と賢順(7歳)の善導寺入寺
賢順は生まれていないことになる。

2、1546年(天文15)賢順(12歳)が高良大社にて箏の修業を積む時代
賢順は生まれていないことになる。

31550年(天文19)賢順(16歳)賢順の故郷、宮部郷が菊地義武と大友義鎮との戦いに巻き込まれて、宮部郷の一族が賢順を頼って善導寺に避難してきた時、賢順は英彦山の添田に田畑を分けてもらい、一族を引き連れて移住している。
天文16年説ではこの時、賢順は3歳である。

4、1556年(弘治2)葛岳の戦いへの招聘、及び大友義鎮への出仕、府内への移住
天文16年説ではこの時、賢順は8歳である。

5、鄭舜功使節の豊後府内(臼杵)滞在1555年5月から1556年11月、明の国の楽士・鄭家定より、明の音楽、記譜法、箏の製作法を学ぶ。
天文16年説ではこの時、賢順は8~10歳である。 

【結論】
歴史的に確定していて動かせない歴史的史実に照らし合わせて考えると、多くの史実に矛盾する問題点を露呈している天文16年説は、歴史的史実に反するので容認できないし、解決できない矛盾した問題点が多く、諸田賢順の生没年としては採用できない。 

賢順墓地(多久市北多久町大字小侍)
JR多久駅を出て左側、北多久町莇原交差点から右折(北進)、338号線岸川莇原線沿い、厳木多久道路(ひまわりロード)小侍IC手前の歩道橋(天山カントリークラブ所有の左右のゴルフ場を結ぶための歩道橋)の手前右側、山口明道氏宅(3943・1)の北側横の路地に『諸田賢順の墓』の標識が建っている。 

『多久市重要文化財』
諸田賢順の墓 平成元年二月二十八日 指定

筑紫箏の創始者と伝えられる諸田賢順は筑紫の宮部郷に生まれ、七歳の時、父が戦死して善導寺(久留米)に入り、十二・三歳で浄土佛事の琴をよくし、天文二十年(1551)英彦山に移り、禁中の楽府、琴譜を修めた。さらに明から渡来した鄭家定に五音六律を学び筝曲にすぐれ、大友宗麟に召し抱えられたが、意にそぐわなかったので、肥前川副の正定寺に逃れた。元亀二年(1571)多久邑祖・竜造寺長信に招請され、その後、多久に住し、長信の子、多久邑初代多久安順につかえ、安順夫人千鶴子(徳寿院殿)に筝曲を教授、元和九年(1623)に没する。

日本の筝曲の基本を作ったと云われ、全国的に著名な諸田賢順に関する資料が少ない中で、諸田賢順の墓と伝えられる有耳五輪塔は、賢順の没年と同時期の江戸初期のもので、諸田賢順の墓と推定され、貴重な資料である。

高さ94・5cm、水輪部に八卦(兌・だ)の刻印がある。

平成元年七月 多久市教育委員会 

墓地への階段を上って斜め右の、五輪塔の後部最下部面に『賢順位牌』の左側墨書「善譽妙順禅定尼」と同じおそらく賢順の後妻、多久に来て娶った妻、賢順の嫡子(次男)盛綱の母と思われる。賢順位牌の「賢順養晋庵主」と同じ墓を探したが今回は見つけることができなかった。

『善譽妙順禅定尼』二月□□と彫ってあるのが確認できた五輪塔の右側に、多久市教育委員会が建てた『諸田賢順夫妻の墓』の表札がある墓は、五輪塔、右側『寛永丁卯天』左側『崇富通春、花幻童女、四月二日』とあり、多久市教育委員会がどのような資料をもとにこの墓を諸田賢順夫妻の墓と断定したのか不明である。 

*多久市郷土資料館学芸員,志佐喜栄様よりの情報
「多久市教育委員会がこの墓を諸田賢順夫妻の墓と断定したのは、子孫の諸田家の言い伝えによるとのこと」 

現時点では『諸田賢順』の戒名『賢順養普庵主』と書いてある墓は確認できていない。墓地の一番奥に頭部の掛けたマリア観音が彫られている墓石・もしくは供養塔の右横の五輪塔が諸田賢順の墓と考えられるが明細は不明。

【諸田家墓地明細図は大分県宇佐市のキリシタン研究家・入学正敏氏が作成した】

 【伝承】諸田賢順は多久安順より拝領していた領地『浦山』に葬られた。現在の多久市小侍にある賢順の墓は『浦山』より移されたと言われている。いつの時代に浦山から改葬されたのか時期は不明。『浦山』は昔の地名で、現在の地名は『筑紫山地』、多久方面から唐津方面に向かう県道203号線、JR唐津線の山本駅の手前のバスの停留所『筑紫山地』が昭和30年代まで『浦山』という地名で呼ばれていた。(諸田家伝承・小郡市・石井浩子様情報) 

*多久市郷土資料館学芸員,志佐喜栄様よりの修正情報

『賢順が領主・多久安順から拝領していた領地『浦山』は多久市にも『浦山』と言う地名があります。しかし、実際に賢順が領地としていて、最初の葬られた場所と伝わっているのは『内浦』という所です。『内浦は、現在の墓地より南側の場所で現在の観音山入口周辺です。』
『唐津線山本駅手前の場所・浦山は、当時龍造寺(多久家)の勢力が及んでない他藩の領地であり、賢順がこの地を領地として与えられたという可能性は低いと思われます。』 

2 賢順の明国留学に関する考察
明国の鎖国と2つの遣明船の豊後来航・動かせない歴史の事実

勘合貿易は、山口の大内氏が独占していたが、1547年(天文16)の勘合船が最後となっていた。1551年10月、大内義隆の家臣、陶尾張守晴賢が内乱を起こして、大内義隆は深川大寧寺に於いて自害した。大内氏の滅亡により明国との貿易は中断、このため遣明船も消滅したままだった。当時、明では私貿易船(密貿易船)が増加していた。鎖国政策を取っていた明では、私貿易の根拠地・雙嶼を明の官検が弾圧した。1552年(天文21 )4月、漳州・泉州の海賊が船千余艘に乗り、倭奴万余人を率いて、浙江の舟山・象山に上陸して、台州・温州等を攻撃して無数の住民を殺害し、多数を捕虜として連れ去る事件が起こった。この事件後、明では大倭寇時代に入った。鎖国により、明国への渡航は厳しく咎められることとなった。 

鄭舜功使節(府内滞在1555年5月~1556年11月)
1555年(弘治元)4月、浙江総督・楊宣は、倭情探査のため、鄭舜功を日本に派遣した。鄭舜功は広州を出で、琉球を経て豊後に5月に到着した。

鄭舜功は大友義鎮に謁見して、倭寇の取締まり禁圧を願った。義鎮(宗麟)は、鄭一行を国賓の待遇でもって扱った。鄭一行は、臼杵で第1の大きい寺・海蔵寺の龍宝庵を宿舎として提供されている。鄭は府内から、従事官、沈孟綱・胡福寧の二人を京都に送り、朝廷へ倭寇の禁圧を要請させ協議させた。また鄭舜功は、この地域、九州での倭寇の根拠地の情報を入手確認したかったのであろう。鄭舜功は翌年1556年11月まで豊後に滞在した。

鄭舜功の帰国にさいして、大友義鎮は、佐伯龍護寺の僧・清授と野津院到明寺の僧・清超を正使,副使として同行させ、禁賊の請を受け入れ、これを実行する意思を明廷に告げる書状を持たせた。鄭舜功が広州に帰国してみると、浙江総督は、楊宣と対立する胡宗憲に替わっていた。

日本国の正式の貢使でない、一国主の使節たちを同行した罪で、鄭舜功は獄に繋がれてしまった。鄭舜功は日本での見聞を『日本一鑑』としてまとめ、倭寇対策の資料として提出している。

鄭舜功の帰国に同行した佐伯龍護寺の僧・清授と野津院到明寺の僧・清超は、浙江省定海の七塔寺に抑留されていたが、1559年(永禄2)4月、四川省茂州の治平寺に移され同地で没した。 

蒋州使節(府内滞在1556年4月~1557年4月)
蒋州は寧波の人で、浙江総督胡宗憲の吏僚として、倭寇の巨魁・王直に会うため、1555年(弘治元)9月、舟山島の定海を出発し五島に到着して王直にあった。王直は微州の出身で、広東に出て,巨艦を建造して密貿易を行って巨万の富を築き、日本では『五峯先生』と呼ばれて尊敬を受けていた。海賊の張本と目され、明の海軍に追い回されて平戸に逃れ、五島を根拠地にして、倭寇として朝鮮の密貿易船や朝鮮の海岸地帯の町や村、明の密貿易船や明国の海岸地帯の町や村を襲撃していた。

蒋州も、日本国王に倭寇の禁止を求め、王直の様な密貿易者を逮捕する使命を帯びていた。
1556年(弘治2 )蒋州と王直は博多を経由して、4月、豊後府内に大友義鎮を訪れた。

大友義鎮は、蒋州の倭寇の禁止の請いに対して、倭寇の取り締まりを約束して実行に移した。
鄭舜功と蒋州の2つの明國使節が、1556年4月から11月を、府内に滞在していたことになる。

蒋州は1557年(弘治3 )4月、王直を伴い,船数十隻、貢使400名、中国の流寓者600名を連れて、舟山列島の定海へ帰った。王直の乗った船は嵐のために朝鮮に流された。

7月、蒋州は大友義鎮が、鄭舜功の時と同じように派遣した僧・徳陽を伴って寧波に戻ったが、鄭舜功の時と同じく、僧・徳陽は日本国の正式の貢使でない一国主の使節とみなされ、許可なく彼を同行した罪で、蒋州は獄に繋がれてしまった。10月、王直は大友義鎮が貿易再会のために遣わした博多もしくは五島の商人・善妙を伴って舟山列島の岑港に到着した。王直も国禁を犯した罪で、逮捕投獄され、1559年12月,刑死した。善妙と僧徳陽は、王直や蒋州の投獄によって,総督胡宗憲の弾圧の手が自分たちに及ぶのを恐れて舟山島から逃げ去った。その後の彼らの消息は分からない。 

【推論】上記2つの事例から解るように、当時、明国に渡航することは不可能だった事実が判る。

1、厳しい鎖国をしている明の国への留学など当時はできなかった。

2、賢順が豊後府内の大友義鎮の元で明の国の楽士鄭家定から明の音楽を学ぶ機会があったとしたら、歴史の史実と照合して確定している時期は下記のA.Bを合わせた期間である。 

A、鄭舜功の使節滞在の1555年5月から1556年11月の間(1年5ヵ月)
B、蒋州の使節滞在の1556年4月から1557年4月の間(1年) 

このAとBを合わせた1555年5月~1557年4月の期間の、賢順の歳は幾つかについて

天文3年~元和9年(1534年~1623年)説の場合  1555年~1557年は21歳~23歳。

天文16年~寛永13年(1547年~1636年)説の場合 1555年~1557年は 8歳~10歳。 

天文16年~寛永13年(1547年~1636年)説の場合、1555年~1557年、賢順の歳は8歳~10歳になり、8歳から10歳の子供に、短期間に明の音楽が理解できるとは思われない。

したがって、この歴史的史実に照らし合わせて考えた場合に、天文16年・1547年誕生説は、史実に相反するので採用できないことが判る。 

3 『諸田氏系図』と『諸田系志』の相違点について
*賢順の前までを『諸田氏系図』では系図で記しているのに対して、『諸田系志』では文章で記している。

*『諸田系志』には賢順が鄭家定に従って明国に音楽を学びに行ったとの記述が多い。

【推測】上記の明国の厳しい鎖国政策により、賢順が明国に鄭家定に従って明国に渡海したという話は、作り話だということが判る。『諸田系志』『諸田氏系図』が、賢順没後189年後の1812年(文化9)に賢順から8代目の諸田和十によって書かれ、多久邑領主に差し出された記録であるので、内容においてもかなりの項目に矛盾点が指摘される。おそらく、賢順の大まかな略歴を基準として、その中に著者の家に伝承されている話や、伝承に想像が織り込まれて書かれている。すでに189年後には、明国の鎖国についての真相や、大友義鎮のキリシタン大名として、寺社仏閣の破却焼打ち事件(1579年)などの細部の真相は忘れ去られ、大まかな事のみが拡大解釈され、事実のように書かれたのではないかと考えられる。 

*『諸田系志』には、賢順の子孫が多久家にありと強調している。

*『諸田系志』には、肥前の宮部家は繁栄しており、諸田の末家は多く、多久、蓮池小路、駕籠町等に在りと記している。

*『諸田系志』には、肥前南里に残してきた、豊後から引き連れてきた前妻およびその家族の記載が一載ない。1569年、豊後を出て肥前南里の正定寺に避難して、三根の東津に定住、三根の東津から多久に移り定住する1587年までのおよそ17年間が不明になっている。おそらく、これには多久の諸田家が嫡流であるとの主張から、あえて肥前南里に残された豊後から賢順に付いてきた最初の妻【薦神社の大宮司の娘】の諸田一族を記載しなかったと思われる。賢順が豊後府内に滞在していた時に、大友義鎮の勧めで結婚した妻で、豊後から肥前南里の正定寺に伴ってきた妻の家族一党が、多久に行かずに、三根の東津に土地をもらい、この地に落ち着いて生活をしたことが伺える。大牟田に住んでいた故諸田素子氏の話によると、三根の東津に住んでいた諸田家には下記の伝承が言い伝えられている。 

*三根の東津に関して諸田家に伝わっている伝承
『肥前南里の正定寺まで同行してきた豊後の人々の一部の人や、賢順を頼ってきた、大牟田の宮部郷の親族の人々は、『三根の東津』(現・佐賀県みやけ市三根町東津)に定着した。東津の八幡神社の周辺は、何百年も古くから『諸田姓』を名乗る一族の田畑が広大にあった。東津の八幡神社は賢順の奥方の願いによって建立された。』 

*『諸田賢順の奥方は薦神社の大宮司の娘であり深く神々を信じていたので、この地に八幡神社を建ててお参りを続けていた』【諸田晋一様情報提供】 

『賢順は家督を弟に譲り、弟が賢順に代わり出仕して龍造寺家に仕えた。東津に移り住んだ諸田一族は、鍋島藩から代々周辺地域の土地の地頭職を仰せつかり、筑後川の堤防を築づく工事と堤防の補修を任されていた。また稲作のための灌漑用水路の建築整備等、土木関係の仕事に従事していて、土地の農民たちからの信頼も厚かった。諸田家の治水工事との関わりは筑後川一帯に渡り、諸田家の工事監督職は明治の時代まで続いていた。諸田家では漢方薬等の薬も扱い、医者のような役目も担っていた。』【諸田晋一様情報】 

故諸田素子様の従姉妹で,小郡市在住の石井浩子様の案内で、みやけ市三根町東津の八幡神社の南側にある諸田家の墓地を訪ねた。諸田家累代の墓碑や、宮部一族の墓もひとつところによせてあり、この地、三根東津に諸田家が代々生きていたことが事実と確認できた。現在もこの周辺に諸田家の子孫が生存されておられる。

*石井浩子様  小郡市津古783・7
*加藤純一郎様 みやま市山川町甲田995
*諸田裕司様  大川市榎津368・2
*諸田晋一様  【故諸田素子様の弟】〒243・0431 海老名市上今泉3・9・15 ☎ 046・231・8238、携帯 080・3353・4015

*故諸田素子様 大牟田市
*故山崎拓治様 福岡市西区今宿
故山崎拓治様は父親(諸田家次男)の代の時、諸田家より山崎家に婿に行き山崎姓となった。山崎様は先祖『諸田賢順』に興味を持ち、1999年『諸田賢順・筑紫箏の始祖』を著され、私家本として出版されている。『諸田賢順』に関しての非常に貴重な資料集としても、賢順の伝記として伝承も網羅されていて価値の高い本である。現在在庫なし。

 大牟田の故諸田素子様が書かれた
三根の東津の諸田家に伝わっている『諸田賢順に関する伝承』
『賢順の父(宮部日向守武成・厳島の戦いで戦死)(天文23年・1554年9月30日)の死後、一時、別の寺に預けられ、後に善導寺に入ったと聞いている。すぐに琵琶が上手くなり、朝早くから高良山へ琵琶の修行のために通ったと聞いている。添田町へ行ってからは英彦山の麓に住む李氏に学んだ。

大友義鎮から還俗させられたとき、大友軍が苦労していた城攻め(葛岳城)に功があったので豊後に土地と,姓を賜ったと言われています。その城は南関の葛岳城で、南関側から攻めると城が舞い上がるように見え、山の上から攻めると舞い下るように見え、その土地は、米所の南関をひかえており、食料も井戸水も十分にあったのでなかなか落ちなかった。

賢順の父が領していた土地近くだったので、賢順には土地勘があり、武将の息子として協力を強制させられたようです。賢順は琵琶の持ち、城下を通り、琵琶を弾き語り(平家物語)をしながら、城への道を登って行った。戦時下の慰問ということで、怪しまれることもなく城内に入り、城内では奥方や姫に気に入られて、琵琶や、城内に在った琴を弾き、城内の人々を慰めたそうです。数日を城内ですごしたのち、村人の力を借りて城を抜け出し、北側の崖から大友勢と共に攻め上り落城させた。その手柄大につき大友義鎮より、豊後に土地、姓、妻を貰った。

その時の雄姿が絵馬になり、宮部の御宮に収められたことは分かっています。昭和50年頃、宮部の御宮にその絵馬を探しに行きましたが、残念なことに絵馬は火災で無くなっていました。

賢順はその戦いの悲惨さに僧として心に傷を受けたようで、武士の世界には戻らなかったようで、箏一筋に邁進いたします。後に家督は弟に譲り隠居のような生活をします。石井浩子の話では昭和34年頃西日本新聞にこの話が載っていたそうです。

賢順は竜造寺長信公に呼ばれて多久城に行ったとき、正式に家督を弟に譲り、弟には長信公に仕える様に命じ、本人は三根町東津に戻り住んでいたようです。東津では諸田の名にちなんで諸々の田畑を貰い、わが家の表札には『諸田寓』とだけ書き、名前は一切出さずにひっそりと暮らしていたようです。東津にはカツノ,イネ、静子、3人が昭和4年頃までは住んでいましたが、母カツノの結婚で大牟田に出て参りました。正子さんは佐世保ではなかったかと思いますが、結局、東津の土地は戦後の農地改革によってなくなりました。それまで400年くらい諸田の家は東津で続いたことになります。

賢順は東津での隠居の後、しばらくして、長信公の嫡子・安順公に招聘されて多久へ行き、千鶴子姫に筝曲を教えて仕え、以来多久に永住して、多久の地で再婚して子を設け、筑紫箏の祖として名を残します。』 

千鶴姫より諸田賢順が拝領した刀についての諸田家の伝承
『賢順が教えた多久邑主・多久安順に鍋島家から嫁入りされた千鶴姫より拝領の刀(女物)の柄頭である。女物の刀といえども鍔は付いていて、その鍔は透かし彫りになっていた。』

鍔は祖父の代に他家に売ってしまいお金に変えたとのこと。

石井様からの情報では、この柄頭と同じものがあと二つ諸田家に伝わっているとのことで、川崎市の諸田悟一様所有は『千鳥と松と岩に砕ける波』、もう一つ大牟田市の諸田様所有は『龍』の細工で、現在は奥様の帯留めとして使用しているとのこと。 

石井浩子様所蔵の『諸田賢順が多久邑主・多久安順の妻・千鶴姫より拝領の刀の柄頭』
柄頭の文様は『葡萄に貂(てん)』最大幅、横34ミリ、縦19ミリ、高さ7ミリ。葡萄の房と蔓は金細工が施してある。 

諸田悟一様所蔵の『諸田賢順が多久邑主・多久安順の妻・千鶴姫より拝領の刀の柄頭』
柄頭の文様は『千鳥と松と岩に砕ける波』最大幅、横34ミリ、縦19ミリ、高さ7ミリ。 

*諸田悟一様よりの修正情報
『私の想い出したことは、母・諸田カツノと姉・諸田素子共、曰く、この時潰した刀は3種類有り、1本は軍刀と太刀、桐の箱に入った婦人刀(等と思われる・龍造寺家より拝領した品)とのことでした。また私と姉・素子の持物は柄頭ではなく、下緒を付ける栗形で婦人刀には栗形が2個付いていたとのこと。(現在、石井浩子様所有、諸田悟一様所有)

 

*石井浩子様  小郡市津古783・7 『葡萄と貂(テン)』
*諸田悟一,喜代美様 川崎市多摩区中野島6・2・15 『千鳥と松と岩に砕ける波』
*諸田    太刀洗市?(現在行方不明) 『龍』 

4 大友一族のキリスト教入信について
天正期1573年以後、大友宗麟の態度が確実にキリスト教に向かった。 

一条兼定と夫人(大友宗麟の長女)の受洗
1575年(天正3 )7月頃受洗
一条兼定は、宗麟の姉の息子(甥)であると同時に娘婿でもある。土佐中村の一条兼定が、長曽我部元親の謀反により高岡郡を奪われて以来、重臣たちの手によって出家(隠居)させられ

宗麟を頼って豊後に亡命滞在中であった。彼は3ヵ月の間絶えず説教を聞き、質問と議論を繰り返して理解を深め、ついに入信した。ジョアン・バプティスタ神父が彼に洗礼を授けた。ドン・パウロという教名を授かった。妻は大友宗麟の長女で、洗礼名はジェスタ。その後、宗麟の援軍を受けて伊予西海岸の法華津(愛媛県北宇和島郡)に上陸した兼定軍は、法華津城主・法華津播磨守らの支援を受けて幡多郡まで進軍したが、渡川(四万十川)の戦いで、長曽我部元親に敗れて敗走。妻(大友宗麟の長女)を豊後に戻して、自分は伊予に退いた。そこで家臣の入江左近に寝込みを襲われ、命は助かったが生涯不自由な体になった。兼定は宇和島港沖の戸島に身を隠した。1581年ヴァリニャーノ神父が京都から長崎に帰る途中にその戸島に立ち寄り兼定を見舞った。この時ヴァリニャーノ神父はドン・パウロ一条兼定の熱心な信仰と信心深いキリシタン生活を見て感嘆している。このヴァリニャーノ神父の訪問が、おそらく兼定と宣教師との最後の関わりであったと思われる。キリシタンとして一生を送り1585年(天正13 )7月27日に死去した。兼定の墓は今もその戸島にある。

豊後に返された宗麟の長女ジェスタは、その後清田鎮忠と再婚して、豊後大野郡清田庄(現大分市中判田)に住んだ。清田庄では寺社が破壊され教会堂がその後に建築された。鎮忠、ジュスタ夫妻は布教に熱心で、多くの住民を教会に導いた。鎮忠の戦死後、父宗麟が1587年(天正15 )5月に死去、津久見での葬儀の後、ジェスタは長崎の豊後町に移り住み、自宅内に礼拝堂を設け布教を続けていた。1627年(寛永4 )8月17日に長崎において殉教した。 

大友親家(大友宗麟の次男)と宗麟の娘2人の受洗
1575年11月受洗

重臣・志賀親教の夫人、宗麟の娘とその妹が、説教を聞きに臼杵の会堂に訪ねてきた。同じころ宗麟の嫡子・義統と二男の親家が、説教を聞きに会堂を訪ねてきて、洗礼を希望した。大友宗麟の次男・親家が入信、ドン・セバスチャンの教名を授けられた。親家は13歳で受洗した時、年若く分別もなく、その場の熱烈な信仰心から仏教を憎み、己の信仰心の表明として、12月の降誕祭の日の午後、府内の寺数ヵ所を破却した。僧侶たちは宗麟の親家入信の処置を、仏教に対する最大の侮辱として憤慨した。その後親家は、母・奈多夫人や異教徒の仲間の悪影響から信仰から遠ざかった。
『その若者(親家)は小さかった時はつねにキリシタンとして過ごした。しかしその後、彼は自らの頑迷の性格上の欠陥とか、母イザベルおよび他の若い不品行な異教徒の貴人たちの忠告によって自制心を失ってまったく堕落してしまった。それは国主をひどく悲しませ、国主は使者を遣わしたり忠告したりして彼を本心に立ち返らせようと努めた。だが彼は富と栄誉、また豊後の国における最大の家の相続人としての地位が高まれば高まるほど、いっそうデウスから遠ざかって行った。』『すでに、7,8年前からデウスから遠ざかり信仰からも後退した。』
*ルイス・フロイス著『日本史7』大友宗麟編Ⅱ 第33章(第1部106章)80頁 

『親家』は田原家を相続している公家柳原家の出の『親虎』を常に羨み嫉妬していた。カブラル神父に親家は『私が今や豊後の国のキリシタンの頭なのだから、もしシモン(親虎)に何らかの危険があれば彼を守る。また彼がどこか他の遠い国に追放されるなら、自分がそのお伴をしよう』といったが、『それは彼の本心から出た言葉ではなく虚偽であり欺瞞であった。』『自らは豊後国主の息子でありながら(シモン・親虎)よりも席順や位階において、常に下位に置かれていた。ドン・セバスチャン・親家にはそれがひどく堪えられなかった。そしてシモン・親虎を完全にかの田原家より放逐して、自らが彼の代わりになりたいと欲した』と親家の心の内面を描いている。 

1579年(天正7 )反乱を起こした田原親貫に代わり田原氏の家督を継承して田原親家と称した。1581年(天正9 )頃、加判衆になり、豊前国、筑後国、筑前国での秋月、龍造寺との緒戦に従軍した。1586年(天正14 )兄義統との不和が原因で島津義久に内通して、兄から殺害され様になったが、父宗麟の執り成しで助命された。その後宗麟に引き取られ臼杵に移り、宗麟の臨終に立ち会った。1591年(天正19 )再び加判衆に加えられ1592年(天正20 )『文禄の役』に参戦。大友氏が改易された後は、立花宗茂に預けられた後、1609年(慶長14 )細川忠興に100石30人扶持の客分として仕官して、名も『利根川道孝』と改名した。

1641年(寛永18 )死去。墓所は熊本春日町3丁目の岫雲院(現春日寺)嫡子の大友親英の子孫は細川家の直臣となり、松野氏を称した。 

親虎・田原勝之四郎親虎の受洗
1577年(天正5 )4月8日受洗。

重臣、田原親賢の養子、親虎はドン・シモンの教名を授けられる。
田原勝之四朗親虎は公家柳原氏の生まれで,嗣子のなかった田原親賢が養子とした。高貴な家柄の生まれで上品な上に容姿端麗、書道、学問、音楽、乗馬、剣術,弓道、礼法、儀式,政庁での仕来りの学習に稀有の素質を示した。親虎の聡明さに感心した宗麟は、親虎が16歳になったら自分の婿にしようと考えていた。14歳の時、養父田原親賢と共に臼杵の教会を見学した時に説教を聞きキリスト教に興味を抱いた。宗麟の正室と兄妹である田原親賢は、奈多八幡宮の神主・奈多鑑基の子であったから、大のキリスト教嫌いであり、大友一族の中からキリシタンになることに反対し、また妨害した。両人は親虎が教会と接触を持つことを妨害するために、親虎を自分の領地である国東郡武蔵郷に監禁した。しかし親虎は孤立の中信仰を持ち続け、2年後臼杵に出仕してから秘かに教会に通い1577年(天正5 )4月8日に洗礼を受けた。その後両人から激しい脅しや迫害を受けた。信仰を堅持したために,1578年(天正6 )養子を解消されて田原家より放逐され、臼杵の教会に1年間身を寄せていた。その後宗麟に仕える様になり、宗麟と共に船で日向縣の務志賀(無鹿)に出兵。高城、耳川の敗戦を受けて、臼杵に戻ったが、しばらくして四国の伊予に出奔した。親虎は伊予で、後にキリシタンになった女性と結婚した。1581年(天正9 )ヴァリニャーノ神父が五畿内を訪れた時、堺でヴァリニャーノ神父を出迎えている。親虎は都に実家の柳原家を訪ねる途中だった。事情を聞いたヴァリニャーノ神父は親虎に同情して、五畿内の有力者たちに親虎の仕官を頼んでいる。仕官の道が与えられたが親虎は妻への愛情から妻の実家である伊予で暮らした。伊予でも『彼はキリシタンとして立派な模範を示し、異邦人の中で暮らしている』と記録されている。彼は豊後に帰りたかったが、大友義統と田原親賢が彼の願いを聞き入れようとはしなかった。 

大友宗麟と宗麟の新夫人、およびその子の受洗
大友宗麟は1578年7月25日に洗礼を受けキリシタンになった。

1551年9月、初めてフランシスコ・ザビエルに会い、キリスト教に接してから、実に27年目での洗礼だった。その当日、宗麟は駕籠に乗り、同じく受洗する6,7名の家臣と共に、臼杵の住院にきた。そこで、ルイス・フロイス神父の説教を聞き、フロイスの手によって洗礼を受け、カブレラから、フランシスコの教名を受けた。洗礼名のフランシスコは、宗麟自身が強く望んだ名前で、若い頃初めて会って強い印象を受けたフランシスコ・ザビエルの想い出として記念するために選んだ名前だった。

洗礼を受ける際に、宗麟は改宗の理由を2つ上げている。
1、 キリスト教(デウスの教え)が自分に相応しいと思っていたが、容易に機会が到来しなかったこと。
2、 日本の宗教の完全さ、その奥義と知識をどこまで究め得るか、あますところなく知りたいと願い、都から学僧を呼んで学び、多年にわたって禅の観想に励んだが、禅の奥義に立ち入れば立ち入るほど奥義らしいものはなくなって、底の浅さが見出され、心は不穏となり、知識が混乱するのを覚えた。*ルイス・フロイス『日本史7』大友宗麟編Ⅱ 130~131頁 

1578年7月25日大友宗麟受洗。臼杵教会で大友宗麟は洗礼を受けて、ドン・フランシスコと称した。宗麟の新婦人、およびその娘も受洗。

大友宗麟も1578年(天正6)までは全盛を極めたが、同年11月、日向の高城・耳川の戦いで島津軍に敗れて以来、大友氏の勢力は急激に衰えていった。大友宗麟の受洗を期に、宗麟がキリシタンになったので、各地の寺は1579年以後強制的に破却されて無住の寺となった。 

伊東マンショ、弟勝左衛門(ジェスト)、母・町の上の受洗
1580年、伊東家から、伊東マンショ、弟勝左衛門(ジュスト)、母・町の上が受洗した。 

親盛(宗麟の三男)、伊東義賢、祐勝(甥)受洗
伊東義賢(16歳)、弟祐勝(14歳)、母・阿喜多の受洗

1582年(天正10)に洗礼を受けてキリシタンになり、ドン・パンタレアンが洗礼名。大友氏の有力家臣である叔父、田原親賢が養子の田原親虎を廃嫡して武蔵田原家の後続者が不在となった後、1581年(天正9)親賢の婿養子となり、名を田原親盛と改め、妙見獄城に入った。

父宗麟は、子の中でも親盛を最も信頼した。薩摩軍との戦いにおいては妙見獄城を拠点に、秋月、島津両氏に内通して反乱を起こした豊前国衆の鎮圧に奔走して豊前方面で活躍した。戸次川の戦いでは先陣を務めた。島津軍が豊後府内へ侵攻した時、府内を見捨てて逃げてきた、兄・大友義統や、宣教師たちを妙見獄城に保護した。

1592年(天正20)『文禄の役』参戦のために朝鮮に渡海、兄大友義統の敵前逃亡を咎められて1593年(文禄2)大友氏が改易された後は、細川忠興に2000石で仕え(後に1000石加増)

名も『松野半斎』と改めた。1643年(寛永20)死去、墓所は兄・親家と同じ熊本市春日3丁目の岫雲院(現春日寺) 

志賀親次(親善)受洗
1585年(天正13)志賀親次19歳

志賀親次の告白
『嫡子(大友義統)は盛んに私を脅迫し、転向させようとしている。しかし私は、デウスの御慈悲により平静で、必要な場合には、わずか一人の従僕を伴い、首にロザリオを掛けてこの国から出、追放される準備ができている。何故なら、この七年間のキリシタンになりたいという望みが、叶えられたということを知るだけで十分である。私が賜った使徒サン・パウロは、その信仰の告白のため死んだが、私もそのために死にたいと明言する。』
*1585年8月20日付け 長崎発 ルイス・フロイス神父の書簡
 16・17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第7巻 27~28頁 

1587年3月20日、大友義統が受洗した。息子が受洗したことを、病床の大友宗麟は非常に喜んだ。その喜びの知らせを胸に大友宗麟(58歳)は、5月23日津久見において病没した。

九州平定を成し遂げた豊共秀吉は博多箱崎において7月24日『伴天連追放令』を発布した。

秀吉の『伴天連追放令』が出されると、豊後のキリシタンは大きく動揺し、大友義統はすぐさま棄教してキリシタン弾圧を始めた。混迷する豊後のキリシタンの支柱になったのは、岡城主・志賀親次ドン・パウロだった。志賀親次は意志が固く、祖父志賀道輝や父志賀親教の様々な妨害や嫌がらせや猛反対、あるいは大友義統の妨害等を押し切って、7年間耐え忍んだのちキリシタンになることを自らの意志で決めて洗礼を受けた。すべてに対して誠実であり、真摯に対応した人格の青年であった。すべての人々から尊敬を受けていた熱心なキリシタンであった志賀親次は、武勇と知略にも優れ、1586,87年(天正14,15)の肥後口からの3万の島津軍の豊後乱入の時は、岡城を死守して、豊臣秀吉から激賞されている。九州から撤兵する羽柴秀長(秀吉の弟)を見送ったときも、堂々と象牙のロザリオを首にかけていた。

宗麟の死後、志賀親次の鮮明なキリシタン信仰は、豊後のキリシタンたちの拠り所となり、キリシタン弾圧をする大友義統とは自然と対立した。当時豊後には宣教師が5人匿われていたが大友義統により追放された。志賀親次は義統に内緒で二人の宣教師を岡城下に匿った。

『文禄の役』での失敗から改易されてしまった大友義統の大友家は領地没収、豊後は7つに分割され統治された。志賀親次は始め豊臣秀吉に属したが、福島正則(キリシタン大名)に1000石で召し抱えられた。その後小早川秀秋に仕えた。1600年9月13~15日、豊後旧領回復のために西軍に加担して別府石垣原で立ちあがった大友宗麟の息子・大友義統に依頼され石垣原の戦いに参加した。黒田官兵衛如水孝高の圧倒的軍勢の前に敗北した志賀親次は広島の福島正則を頼って落ち延びた。福島正則が改易後、1619年(元和5) 毛利輝元に預けられ、山口県秋芳町郊外の美祢郡岩永村大田代(現・秋芳町大朝)に蟄居させられた。志賀親次は1660年(万治3)に93歳でこの地で亡くなっている。志賀親次の墓碑は宇部市小野上宇内の小高い丘の上にある。この墓は志賀親次から10代目の子孫,志賀金平氏が昭和8年に志賀家の末裔、親類縁者と共に建立したもので顕彰碑にあたる。志賀親次の元墓は、蟄居先の美弥郡岩永大田代にあるはずだが、現在のところ所在不明。

志賀親次は別名,少左衛門尉・湖左衛門尉とも呼ばれていた。1566年(永禄9)生まれ。1660年(万治3)周防国美弥郡岩永村大田代の蟄居先で亡くなった。『肥後細川藩捨遺・新肥後細川藩侍帳』に『虎左衛門、豊後国岡城主・没後後家(室。大友吉統妹)女子一人、男子一人介抱仕・・・御国菊池郡源川(深川)村落忍・・・加藤家に奉公(女之法)』とある。

正室(大友吉統・妹)は幼子二人を連れて、肥後の菊池源川(深川)に逃れ潜んだ。加藤清正御代『女之諸式存知候者有之候ハバ』とある。加藤清正の時代、嫡子の忠広室へ奉公に上がった。その時『臼杵』と名乗ったとある。『女之諸式』とは、作法・礼法のことで、臼杵殿(親次室)は宗麟の娘であるから最適任であった。嫡子・少兵衛親勝は15歳の時、吉弘加兵衛のもとで養われ、加藤忠弘に250石を賜った。加藤家没落の時に浪人となったが、細川家重臣・沢村大学吉重の肝煎りで細川忠利が肥後に入国した時に召し抱えられた。

志賀親次の家臣たちは細川忠興に仕えた。細川忠興は1600年、ガラシャ夫人の犠牲によって細川家の名誉と安全が守られた時、キリスト教に感謝の意を表して新領地の小倉に宣教師を招き、ガラシャ夫人の信仰を偲んで立派な教会を建てた。小倉教会の主任神父、セスぺデス神父を、忠興はガラシャ夫人の想い出から大切にしたが、1610年頃から徳川家康がキリシタンに対して冷淡になり追放を考えるようになると忠興はすぐさま追従した。1611年小倉においてセスペデス神父が急死した時、小倉に葬ることを許さないで、すべての宣教師たちを追放した。

1614年の徳川家康の出した『キリシタン禁教令』に従い、忠興はキリシタンの敵の様に振舞い、ついには有力なキリシタン家臣・加賀山隼人ディオゴを1619年10月15日に処刑した。加賀山隼人の娘みや、婿・小笠原玄也一家15人も隠蔽されて、棄教を強要されたが、信仰を全うして1635年12月23日に熊本において処刑された。肥後において多くのキリシタンが処刑され殉教した。この様な細川藩において志賀親次の家臣たちはどのように信仰を維持したのか判らないが、それぞれが工夫して信仰を堅持している。 

また、志賀親次の親戚と思われる『志賀左門』が『熊本藩役職者一覧』によると、『志賀左門』11番頭、在職期間、就職年不明~寛永17年7月12日退職、後「暇」となっている。

『転切支丹』によると1636年(寛永13年)7月13日禅宗に宗門を変えたと記録されている。(勤談跡覧・肥後藩之切支丹)による。

当時、番頭は12人がいた。志賀左門は初め番方、馬廻り組の頭。500石が支給されていた。

1635年12月23日、小笠原玄也一家15人がキリシタンゆえに処刑された時に、共に処刑された『志賀休也』という者がいる。『御奉行所日帳』(裁判記録)1634年(寛永11 )9月19日付けの記録に『志賀左門、番頭の家に,志賀休也という築後の浪人が宿を借りていた。筑後の立花家の家来が尋ねてきて捕まえた。この志賀休也は筑後でキリシタンを転んで寺々の書物を持っていたが、熊本では岫雲院(春日寺)の書物をもらってきたので、志賀左門は宿を貸していた。志賀休也は以前、異国に渡り石火矢(大砲・鉄砲)の訓練をしてきたので、細川家に仕官しようと望んできた』とある。1634年(寛永11)9月19日逮捕され、その後いかに裁かれたか判然としないが、1年以上新町の牢屋に繋がれた後、1635年12月23日、小笠原玄也一家と共に斬首に処せられ誅裁された。斬首された志賀休也は志賀左門の親戚でキリシタンだったと推測される。熱心なキリシタンである志賀左門を頼って、細川家に仕官するために肥後熊本に来たと推測される。 

大友義統(宗麟の嫡子)一家の受洗
1587年3月20日

*宗麟の嫡子義統の受洗は、1587年3月20日、豊前宇佐妙見岳城で、豊臣秀吉の軍師、黒田官兵衛孝高の勧めでゴメス神父により洗礼を授けられた。コンスタンチーノという教名を授けられた。この時,義統の夫人・ジュスタ、長男義乗・フルゼンシオ、娘2人マシマ、ザビナ一家全員がともに受洗した。しかし3ヶ月後には、秀吉により伴天連追放令が出されたために、義統は棄教して、豊後の信者に対して弾圧を始めた。 

5 大友宗麟の寺社仏閣の破却について
『諸田家系図』『諸田系志』ともに『府内にあること七年余、義鎮晩に耶蘇を信じ、神祠を毀し,佛宇を焼く。賢順その為す所を悪み、一旦妻孥を携えて復宮部に還る。』とある。 

諸田賢順が豊後府内に在住中に、果たして大友義鎮の寺社仏閣の破却はあったのだろうか?

諸田賢順が豊後府内に在住していた期間は、1555年5月の葛岳城の戦いの後から、1570年(元亀元年)の前年の1569年に府内を退去した間、つまり、弘治年間と永禄年間ということになる。弘治年間は1555年~1557年、永禄年間は1557年~1569年、1555年~1569年の14年間が賢順の府内在住期間になる。諸田賢順の府内在住中の1555年~1569年の14年の間に、大友義鎮【後の宗麟】による豊後においての寺社仏閣の破却は確認されない。史実として確認できる豊後における寺社仏閣の破却は1575年以降であり、1569年に賢順が豊後を去って6年後に最初の破却が起きている。

1578年7月25日大友宗麟受洗。臼杵教会で大友宗麟は洗礼を受けて、ドン・フランシスコと称した。宗麟の新婦人、およびその娘も受洗。

大友宗麟も1578年(天正6)までは全盛を極めたが、同年11月、日向の高城・耳川の戦いで島津軍に敗れて以来、大友氏の勢力は急激に衰えていった。

大友宗麟の受洗を期に、宗麟がキリシタンになったので、各地の寺は1579年以後強制的に破却されて無住の寺となった。

史実として確認できる寺社仏閣の破却は下記のとおりである。

 

☆史実として確認できる大友宗麟が関係する寺社仏閣の破壊 

親家(大友宗麟の次男)の府内での寺社の破却
1575年11月、大友宗麟の次男・親家が13歳で入信、ドン・セバスチャンの教名を授けられた。親家は年若く分別もなく、その場の熱烈な信仰心から仏教を憎み、1575年12月、降誕祭の日の午後、府内の寺数ヵ所を破却した。僧侶たちは宗麟の親家入信の処置を、仏教に対する最大の侮辱として憤慨した。

『息子(親家)は14歳を越えぬ年少であることから彼の洗礼は延期され、司祭(カブラル)はデウスのことについて十分に教えることを望んだが、父(宗麟)は洗礼を延期せぬよう幾度も求めた。結局、彼(親家)がすでに聴いた説教を簡略に復習し、十戒について説明した後、国主(宗麟)が受洗すべき他の多くの貴人とともに同席するなか、私は息子に洗礼を授け、彼はドン・セバスチャンと名付けられた。(略)それから3日後、私は降誕祭を祝うため、大部分のキリシタンがいる府内の市に向けて出発することになり、国主に別れを告げに行った。

彼は私が同祝祭を執り行うため赴くことを知ると、彼の息子もかの地に行くように命じた。厳しい寒気と降雪の時期であり、道のりは7里にわたるはなはだしい悪路であるにもかかわれずドン・セバスチャンは多数の貴人と歩兵を伴って豊後(府内)に向かった。(略)

降誕祭の日の午後、彼はキリシタンの貴人を全員呼び寄せ、異教徒は一人も彼に同行してはならないと命じ、彼がしているのと同じように貴人らの首にコンタツを掛けさせた。彼は府内の主たる街路をあるいて行き、町内にいくつか寺院があるのを見つけると、これらを破壊して地に倒すことを命じた。後に私が彼に何のためにそのようなことをするのかと問い、何か騒ぎの元になるかも知れないし、彼の父である国主が良い顔をしないであろうと言ったところ、彼は、己がキリシタンであることを諸人に知らしめるため敢えて行ったのであり、翌日にはもっとも主要な別の通りを行き、首にコンタツを掛けて同じことをするつもりであると答えた。』
*1576年9月9日付け、口之津発、フランシスコ・カブラル神父書簡
 16,17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第4巻、274~276頁 

13歳で受洗した時、分別もなくその場の熱烈な信仰心の表明として府内の寺社仏閣を破壊した親家だったが、その後親家は、母・奈多夫人や異教徒の仲間の悪影響から信仰から遠ざかった。

『その若者(親家)は小さかった時はつねにキリシタンとして過ごした。しかしその後、彼は自らの頑迷の性格上の欠陥とか、母イザベルおよび他の若い不品行な異教徒の貴人たちの忠告によって自制心を失ってまったく堕落してしまった。それは国主をひどく悲しませ、国主は使者を遣わしたり忠告したりして彼を本心に立ち返らせようと努めた。だが彼は富と栄誉、また豊後の国における最大の家の相続人としての地位が高まれば高まるほど、いっそうデウスから遠ざかって行った。』
『すでに、7,8年前からデウスから遠ざかり信仰からも後退した。』
*ルイス・フロイス著『日本史7』大友宗麟編Ⅱ 第33章(第1部106章)80頁 

日向・縣(現・延岡市)での寺社の破却
1578年(天正6)3月

伊東家再興のため、日向の国・縣(延岡)に入った6万の豊後大友軍に、薩摩軍に呼応して反逆した縣城主・土持弾正少将親成は討たれた。遅れて日向の国に入ってきた宗麟は、縣の務志賀(無鹿)に本陣を構え、住居と教会堂、司祭館の建設にかかった。教会には、縣にあった、ふたつの寺院の所領を寄せて与えた。指揮を任された日本人イルマン・ジョアン・デ・トーレスは、横岳の薬師堂と立磐大明神を取り壊し、その材木をその寺社の僧と信徒たちに運ばせ、教会の建築資材にあてた。
*ルイス・フロイス著『日本史7』大友宗麟編Ⅱ 第43章(第2部8章)155~163頁

『かの日向の地において仏僧たちの寺院で行われつつあった破壊は凄まじいものであった。かつて同国において無上の尊敬と名誉を受けていた者は、今では打ち萎れ、その寺院も屋敷も解体され、その偶像は打ち毀たれ、彼ら自身他の地に逃げざるを得ぬか、もしくはそこの留まるならば、かつての収入も信用もなしに過ごさねばならなかった。とりわけ彼らを悲しませたのは、かの地で神を敬い、仏を拝み、仏僧たちに寄せられていた権威や尊崇の念を保持することは似つかわしくないとして、彼ら自身の手で仏像や寺院を破壊し、それらの材木を、今や建立され始めたキリシタンの教会に使用するため運搬せねばならなかったことである。』

『その一寺は立派なもので、同国における本山にあたったが仏僧たちは日本人修道士ジョアン・デ・トーレスの命令によって、心の中で悲哀と苦痛を感じつつも一生懸命に破壊作業に従事した。』 

野津院での寺社の破却
1578年(天正6)3月
*ルイス・フロイス著『日本史7』大友宗麟編Ⅱ 第43章(第2部8章)188~195頁

『野津のキリシタンたちの初穂であり、我らの主なるデウスがその聖なる御名を弘めるための種子として採りあげ給うた最初の人物はリンセイと称する人であった。彼は重要人物の一人で、この地方(野津)の全ての町村の、いわば管理者、または支配人のような存在であった。(略)

リンセイは二つの仏寺と、三つの神の宮を焼き払ったが、その一つは人々が緒方三郎と呼んでおり、豊後ではもっとも崇められている宮の一つであった。(彼は容易にこれらの寺社を焼き払うことができた。なぜならそれらは彼の統括下にあったし、嫡子(大友義統)もそれらが破壊されることを望んでおり、とりわけ何らの騒動も伴わずにそのことが行われると、大いにそれを喜びとしたからである。さらに彼は、それまで自分と家族が深く崇めていた木製の仏像を手に取り、その首を刎ね、胴体は近くを流れていた小川の橋に使用して、その上を通行させた。ダミアン修道士が駆けつけて、彼になぜ、後に教会として使用できる寺院を焼き払ったのか、と糺したところ、彼は二つの理由から、そうしたのだと答えた。その第一は、先にある期間、悪魔が奉仕されていた場所に教会を建て、そこを真の神の礼拝に供することは、自分には、不作法、かつ非礼に思えたからである。第二に、自分の郷土に偽りの偶像を祀っていたというイメージとか痕跡を何一つ残さぬようにしたかったからだあった。彼はそれに付け加えて。それらの材木を保存しなかったのは、異教徒たちが、奴は利欲のためにそうしたのだとか、それらの材木を利用しようとしてやったのだとか噂する機会を与えないためだったと述べた。』 

大友義統(宗麟の嫡子)の寺社の破却
1578年(天正6)3月頃
*1578年10月16日付け、臼杵発、ルイス・フロイス神父の書簡
 16・17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第5巻 102頁

『彼(大友義統)は仏僧らの神殿と僧院の収入を奪い、己の家臣に与えることを始めた。まず、最も大きな特権を有し、今日まで最も崇められたものから取り掛かった。或る所からは4万5千クルサードの収入を奪い、所によって多額、もしくは少額を奪った。このことは異教徒にとってはこの上ない不敬罪であり、神殿を侮辱し、その収入を奪い、御利益に頼ることも、いかなる願い出を聞くこともなく、仏僧の信用を傷つけるなど日本ではいとも珍しい事であった故に、また、とりわけ彼がキリシタンでないことを知ったので、この報に接した諸人は大いに驚嘆した。彼は青年武士らに、仏僧を調べていかなる些細な過失も見出すよう注意したが、これを口実に寺社や収入を没収するためであり、これについては多々生じたし、いまだに行われている。一昨日,某キリシタンが私に述べたところによれば、嫡子は同キリシタンを当地より40里以上離れた肥後の国に遣わし,某僧院の偶像をことごとく焼き払させ、その収入を嫡子の兄弟に与えたとのことである。』 

*1578年8月28日大友宗麟受洗
臼杵教会で、大友宗麟は洗礼を受けて、ドン・フランシスコと称した。
宗麟の新婦人、およびその子も受洗

*大友宗麟は洗礼によりキリシタンになったが、これを機会に豊後にある大きな寺院を除く、大多数の寺社仏閣が宗麟の命令により破却された。 

万寿寺(府内)への放火破却
1581年(天正9)
大友義統が4か国を戦いで失い、家臣に給するための知行地を府内最大の万寿寺の寺領から捻出するために、万寿寺を廃寺にするべく放火させて事件だった。 

志賀親次ドン・パウロは大友義統の使者に次のように返答した。
『予(志賀親次ドン・パウロ)がキリシタンになった点については、予がデウスについて得た知らせにより、むしろ予の中に今まで以上に良く今後は嫡子(大友義統)に仕えようという気持ちが増したので、これを怒らないでほしい。また神・仏の寺社を、如何なる場合であれ焼くなという命令については、殿に次のことを思い出してほしい。殿が繁栄した四ヵ国を失った後、従う民も、兵も、戦で使う武器もなく、多くの悲惨さと不如意に陥った。その時、殿の慎重さと、その日その日の欠乏を受けるための良き進言により、その解決策として、府内の市内にある主要な僧院で、領内でもっとも格式高く高名な万寿寺に秘かに火を放つ命を下し,次いでその寺院の収入を戦場で殿に仕えた貧しい武士と兵に分配した。この解決策は。非常に効果的だったので、短日時の間に事態を今日のように好転させるのに十分であった。このため予は、殿のまねをすることを強く望み、殿に良く仕えるため、現在幾つかの寺院を焼いている、というのは、仏僧の収入を家臣に分配し、その数を増やし、武器を光らせ、さらに良馬を探し、そしてその他の洗練された戦法と機動力を用いるものである。予が行っていることは、以上の通りなので,叱責や脅迫よりも殿からの英譽や、報償、賞賛に値すると思う、と。』
*1585年8月20日付け 長崎発 ルイス・フロイス神父の書簡
 16・17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第7巻 27~28頁

 英彦山焼打ち
1581年(天正9)10月8日
*ルイス・フロイス著『日本史7』大友宗麟編Ⅱ 第54章(第2部23章)324~325頁

『国主フランシスコ(宗麟)と嫡子(大友義統)は、優秀な軍勢を率いて豊後の国境に進撃し、豊後の国内で自分たちに叛起していた幾人かの殿を平定し、筑前の国では、龍造寺(隆信)と秋月(種美)の軍勢に対して大勝利を博し、彼らの大勢の兵を殺し、または敗走せしめ、他方豊後勢の戦死者はごくわずかに留まった。その戦いの間、豊後勢はある堅固な山(英彦山)を占領したが、そこには当地方で最も有名で、かつ崇敬されている寺院があった。人びとが語るところによれば、同寺院の周辺には、千を超える仏僧たちの家屋があったが、国主フランシスコはその善意から、彼ら仏僧たちに自らの手でそれらの家屋を総べて焼き払わせた。こうして同寺院は灰燼に帰した。』 

1579年(天正7)英彦山座主家(第14代舜有)と大友家に反抗する筑前の秋月種実との間で盟約が交わされた。大友義統は豊前最大の信仰集団である英彦山の経営権を手に入れることで豊前での大友の軍事、経済面での利益を確保しようと考えた。そのため、義統は自分の弟・三位公に英彦山の座主職を継がせて英彦山を乗っ取るため、英彦山座主の養子にと強硬に申し込んだ。英彦山座主の舜有はこれを拒否。英彦山座主の舜有も、英彦山座主代々の墳墓のある地、黒川を去って南谷華蔵院に入り、宗徒たちが結束して守りを固めた。

1581年10月8日、大友軍は英彦山の山麓に攻め込んだ。戦いは別所口、落合口(福岡県田川郡添田町)に始まり、軍事力に勝る大友軍は次第に僧徒たちを中腹へと追い上げ、大講堂を占拠して本陣として総攻撃を仕掛けた。座主の舜有と僧徒たちは上仏来山に拠り、僧兵を指揮して頑強に抵抗した。11月20日、大友軍は英彦山の全山焼打ちに出て、上宮神殿、行者堂、政所坊,亀石坊等に在る名のある仏閣、堂宇に火が放たれて荘厳な霊域も無残な修羅場となった。『大友家文書禄』にも、この時の焼き討ちによる堂舎の焼失が記録されている。

11月20日、英彦山座主と同盟を結んでいた秋月種実は龍造寺軍と共に日田、筑前の境,針目(福岡県朝倉郡杷木町)において、大友軍と激戦になり、背後から英彦山への助勢をした。

この時も,龍造寺隆信が出陣して大友軍と対峙している。

11月23日夜、英彦山軍は若い山伏らを動員して大友軍に夜襲をかけ、大友軍に多大な損害を与えた。英彦山軍の本陣のある上仏来山を攻略できなかった大友軍は兵を引いた。

1582年(天正10)1月12日、大友軍は英彦山を攻略できなかった腹いせに英彦山神領である小石原村を襲い焼き払った。その後大友氏と英彦山との確執は1587年(天正15)豊臣秀吉が九州を平定するまで足かけ7年に渡り続いた。

 宇佐神宮焼打ち
1581年(天正9)11月19日
*ルイス・フロイス著『日本史8』大友宗麟編Ⅲ 第55章(第2部38章)22頁

『豊後の国境からすぐ近い豊前の国には、かの有名な宇佐の宮の僧院がありました。全国で著名な僧院で、多数の巡礼者を集め、莫大な収入を誇っていました。国主フランシスコは、この悪魔の礼拝所が姿を消すことを、ひとしお念願してきましたが、ついに火が放たれ、そのすべてが灰燼に帰してしまいました。』

1581年(天正9)11月19日、田原親家を大将として、田原紹忍・吉弘統運の浦辺衆と安心院麟生・佐田鎮綱の院内衆、合せて7000余の兵が宇佐宮を包囲して攻撃、宇佐宮を焼亡させた。

(益永証文)大友氏が豊前に入国して以来、社奉行・奈多鑑基・鎮基父子と宇佐宮との間に問題が絶えることがなく悪化していた。宇佐宮は源頼朝から守護不入とされ、謀反・殺害人追捕のためであっても、内封四郷については,守護の入部を拒否し宮検断を許されていた。大友氏の社奉行は、この規則を大きく制限して、すべて社奉行に伺いをたてて執り行うように規則を変え、違反すると社領を押さえ、家来に預けて社奉行の知行地のように扱った。大友氏と宇佐宮との確執は、1558年(永禄元)6月、宇佐宮境内で起こった殺人事件に端を発し、1564年(永禄7)9月、辛島郷上田にあった宇佐宮の隠田を大友の社奉行が押収しようとしたところ、大規模な戦闘に発展。宇佐郡内に、大友の政治に反発する勢力が増大した。1569年(永禄12)奈多鎮基は筑前山野村の領地に住んでいた宇佐宮前大宮司・到津公澄を殺害。1580年(天正8)4月、田原親貫・田北紹鉄の大友への乱の虚を衝いて,宮成公基・益永統世・時枝鎮継・橋津英度等の宇佐宮を代表する社官衆が、所々で狼藉を行った。彼ら社官衆は1567年(永禄10)頃から毛利氏に内通していて、1580年(天正8)に、甘木の秋月種実と同盟を結び大友に敵対した。

宇佐宮と大友氏との間には、この様な確執が20年に渡ってすでにあった。

大友義統は戦いにより4ヵ国を失っていて、豊前最大の信仰集団である宇佐宮と英彦山の経営権を手に入れることで豊前での大友の軍事、経済面での利益を確保しようと考えていた。 

府内の万寿寺・英彦山・宇佐宮、この三ヵ所の焼打ちは、大友宗麟がキリスト教に帰依したためにキリスト教反体勢力である仏教を攻撃したと今までは単純に解釈されてきた。確かに宗麟にはそういう気持ちがあったことは否めない。しかし、この時代の大友氏の実権は大友義統が握り指揮していた。大友義統はキリシタンに迫害を加えていたし、1587年(天正15)3月には家族と共にキリシタンになったが、数ヵ月後には教えを棄て、豊後領内のキリシタンに棄教を命じ、棄教に応じない6人のキリシタンを処刑している。

1578年11月、日向高城・耳川の合戦で島津軍に大敗して以来、島津,龍造寺の大友領侵攻により次々に奪われた4ヵ国から調達できなくなった家臣に給するための知行地からの収入の代わりに、府内最大の万寿寺寺領からと豊前最大の二つの宗教集団、宇佐宮と英彦山の経営権を手に入れることで、経済面での利益を捻出するために行った戦いであった。 

志賀親次ドン・パウロの領地・竹田での神社の焼打ち
『志賀親次ドン・パウロは、その使者たちを歓待し、次の日、領地(竹田)のかなりの部分が見わたせる高い所に建った家に彼らを招待することにした。彼らが着座した後、ドン・パウロは意図的に、その近くにある二ヵ所の神社に放火するようにと命じた。神社が炎を上げ始めると、家の中で大きなざわめきが上がった。というのは彼の家臣さえそれが何だか承知しておらず、使者たちの場合はなおさら驚嘆し、混乱し、ほとんど顔色を変え、窓の所まで行って、窓にくっつき、火を眺めていた。ドン・パウロは使者たちに言った。「さあ、もとの座に戻られよ。何でもない。予の家臣の誰かが、長い間汚れていたあの社殿をきれいにしているのであろう」と。』
*1585年8月20日付け 長崎発 ルイス・フロイス神父の書簡
 16・17世紀イエズス会日本報告集 第Ⅲ期第7巻27頁

6 諸田賢順の豊後府内在住の期間に起こった2つの寺社の破却
諸田賢順の府内在住の1555年~1569年の14年の間に、大友義鎮【後の宗麟】による豊後においての寺社仏閣の破却は確認されない。史実として確認できる豊後における寺社仏閣の破却は1575年以降であり、1569年に賢順が豊後を去って6年後に最初の破却が起きている。しかし、賢順が府内在住の期間に、肥前平戸と肥前大村での2件の寺社仏閣の破却があった。

この2件の寺社仏閣の破却と、賢順が豊後を1569年に去った事実との因果関係がはっきりと判らないが、とにかく『諸田家系図』『諸田系志』では、ともに『府内にあること七年余、義鎮晩に耶蘇を信じ、神祠を毀し,佛宇を焼く。賢順その為す所を悪み、一旦妻孥を携えて復宮部に還る。』とある。2つの系図とも賢順没後189年後に賢順から8代後の諸田和十により書かれた系図なので、歴史の事実を調べてそれを踏まえて書かれているとは言い難い。諸田賢順の豊後在住の14年間に、賢順の心の中に大友義鎮に対して徐々に信頼の失墜が起こり、それが蓄積された形となって豊後より出るという行動に表われたのか? 1569年に賢順が豊後で得た全てを捨ててまで出なければならない何かの出来事が起こったのか? 

肥前平戸で起こった寺社仏閣の破壊
1557年9月から1558年4月の間
ヴィレラ神父とロレンソの宣教はポルトガル船の停泊していた平戸の港周辺だけではなく、他の土地でも、特に熱心な信者であり、武士であった籠手田一族の知行地でも行われた。

籠手田一族は安昌、安経、安一の三代に渡り、この地のキリシタンの中心となって、宣教師を保護し、教会を支持し,信徒たちを励ましてきた領主である。特に籠手田安経はドン・アントニオと呼ばれて、安経の弟は一部家の養子となり、ドン・ジョアン勘解由と呼ばれていた。籠手田・一部両家の領地である生月島、度島と平戸島に西海岸の根獅子、獅子,平、春日等の領民は全員がキリシタンになった。

ガスパル・ヴィレラ神父が平戸に到着の後、若い領主籠手田安経・ドン・アントニオは自分の領地を案内して領民の回収を進めるために、村々を巡回布教した。巡回の時に起こったロレンソと浄土宗の僧との宗論は、ロレンソの仏教に関する知識と理解力、および比較宗教力、弁舌の巧みさを見事に表している。回心した人々が二度と仏像を拝まないようにするため、また回心した仏僧の寺や神社から仏像を持ち出してうず高く積み上げて焚火をたいた。仏寺を教会堂に改めて信徒の祈りの集会場所に替えた。これがこの地方の布教の初めである。

初めて与えられた布教地・平戸での、35歳前後の若いヴィレラ神父の布教未経験からくる未熟差と、彼の結果を求める異常な熱心さが引き起こした仏像焼却事件は、平戸地方の仏教界に大きな衝撃を与え、この事件が発端となって仏教徒との間に衝突が起きてしました。1558年になって仏教徒が起こしたキリシタン廃絶運動の結果、仏教側とキリシタンが対立して大事に至る不穏な情勢になったので、領主・松浦隆信はヴィレラ神父に情勢を説明して退去を求めた。この事件が発端となり、この地方のキリシタン多数がヴィレラ神父に従って豊後へ避難移住した。 

『ガスパル・ヴィレラ神父は布教にいとも熱中するあまり、仏の像や、日本の諸宗派の書物などの荷物を俵に詰めて海岸まで運んで行き、そこでそれらを積みあげ、火をつけた。キリシタンの信仰をよく教わっていた人たちは、それによってますます信仰を強められたが、デウスの教えについて、たいして知識がなかった人たちは、この行為を見、それに対して神と仏の大いなる懲罰が下されようと恐れ、いとも戦慄し驚愕するところとなった。』
*ルイス・フロイス著『日本史6』大友宗麟編Ⅰ第16章(第Ⅰ部18章)166頁ガスパル・ヴィレラ神父が豊後から平戸に派遣された次第、ならびに同地で生じたこと 

肥前大村で起こった寺社仏閣の破壊
1563年(永禄6)6月の事件

1562年(永禄5)島原半島の領主、有馬義直が実弟で、大村を治めていた大村純忠を通して豊後府内のトーレス神父に宣教師派遣を求めてきた。この頃、平戸の領主、松浦隆信のキリシタン迫害に悩んでいたトーレス神父は、大村純忠より領内の横瀬浦港の提供を申し入れてきたので、早速、イルマン・アルメイダを派遣して交渉にあたらせた。横瀬浦港は非常に良い港であったので、教会側は大村家と交渉を始め、教会を維持するために港に沿う周囲2里の地をイエズス会と大村家とが共有すること、神父の許可なく教会領内に異教徒を居住させないこと、入港したポルトガル船と取引する商人に対して10年間課税しないこと、以上の3条件で合意に達したので、トーレス神父以下、豊後府内のイエズス会は、府内に2人のイルマンを残して、すべての教会の機能を大村領の横瀬浦に移した。平戸に入港するはずだったポルトガル船を横瀬浦に入港させ、横瀬浦は閑散とした漁港から一転、国際貿易港になり繁栄を始めた。大村純忠は、教会のために聖堂や住院も建築して後押し協力を惜しまなかった。

横瀬浦の開港とキリシタンのための新しい街の噂はたちまちキリシタンの間に広まり、各地から移住する人たちが大勢来た。毛利元就の迫害の下にあった山口のキリシタンもこの時、横瀬浦に移住している。

大村純忠の洗礼の日が1563年(永禄6)のいつであったか史料に記録がないので明らかではないが、おそらく4月17日から6月25日の間と思われる。
*『大村キリシタン史料 アフォンソ・デ・ルセナの回顧録』 

大村純忠の受洗によって日本で初めてのキリシタン大名が誕生した。ザビエルが日本に来て布教を初めて14年にして神から授かった初穂だった。純忠の兄・有馬義直の受洗が1576年(天正4)ザビエル来朝27年目、大友宗麟はその2年後の1578年(天正6)に受洗している。有馬晴信は1580年(天正8)ザビエル来朝31年目。いかに大村純忠の受洗が他のキリシタン大名と比較して早期の受洗だったかが解る。 

洗礼を授かった翌朝、大村純忠は兄・有馬義直からの出陣要請に応じて出発した。純忠は戦場に向かう途中に、当時一般に軍神として人々の尊崇を受けていた摩利支天象の前を通った。おそらく鳥兜山に祀られていた寺社であると思われる。その寺の摩利支天の仏像を毀し焼却し、寺院にも火を放ち焼却した。この後、養父・大村純前の像(おそらく位牌と思われる)を崇敬しないで焼却してしまった。 

『ドン・バルウトロメウ(大村純忠)が出陣した後、道中で注目すべきことが起こった。日本人の戦さの神である摩利支天と称するはなはだ豪華な大きい偶像を有しており、この偶像(の前を)通り際には有力者も小者も地面まで身を屈めて、できる限り敬意を表すのが習慣である。

偶像の頭の上にはそれを覆う雄鶏があり、異教徒らは己の疑念についてその鶏に伺いを立てに行く。ドン・バルトロメウは軍勢を率いて同所に至ると、兵を留め、自ら進み出るや偶像を取り出させて焼くように命じ、その後、寺院全体に火を掛けさせた。また、件の鶏が彼のもとに運ばれてくると、幾度予を欺いたことかと言いながら自らの刀で一撃を加えた。すべてを焼き払うと、その同じ場所にはなはだ美しい十字架を一基立てさせ、家臣ともども、いとも深い敬意を示して戦場への道に従った。

(既述の通り)彼は我らの主なるデウスへの奉仕においては、自らの約束よりも多く行うことを示そうと、戦場において彼の兄弟を援護していた時、彼の領国一帯に兵を派遣して偶像を見つけ次第ことごとく焼き払わせ、またポルトガル人には当港(横瀬浦)から、一、二里の所にある寺院から、彼らの船に必要な材木を望むだけ取る様に命じ、その通り実行した。』
*1563年11月14日付け、大村発、ルイス・フロイス神父の書簡
 16・17世紀イエズス会日本報告集、第Ⅲ期第2巻、150頁

 

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