細川興秋生存の証拠・細川忠利書状 元和七年(1621年)5月21日付け・長岡与五郎(細川興秋)殿宛て

細川忠利書状 元和七年(1621)五月廿一日付け 長岡与五郎殿宛て


後藤是山コレクション 熊本県立美術館所蔵
細川忠利書状 (原文) 解説
元和七年五月甘一日付
長岡与五郎殿

(原文)
 一筆申候。然者其
肢煩候処、与安
法印療治候て本
複之由、一段之事候
然者湯治候て可
整之由、法印も御申候
通尤候、更に
三斎様我等も在国
にて、其元人質ニ有之
者候と心侭ニ湯治
させ申度とハ難成
事候間、半左衛門尉と
申合、伊喜助殿へ
相談候而兎角
喜助殿之次第ニ仕
可然候。此方相易
事も無之候間可
心易候、我等も六月
甘一日ニ小倉へ移り
申筈候。尚近日可
申期候。謹厳

  己上
又申候。法印へも其方煩
い様を被入候事。於
礼にて書状遣申候。以上

  内記                                     五月甘一日(花押)
長岡与五郎殿


(読み下し文)
一筆申し候。然らば其の方
肢煩われ候、与安(片山宗哲)
法印療治候にて本
復之由。一段之事候。
然者湯治候て可
整え之由。法印も御申し
通り尤も候。更に
三斎様、我等も在国
にて、其こ元人質に之有る
者候を心侭に湯治
させ申したくとハ成難き
事の間。半左衛門尉(田中半左衛門・旧姓長束助信)と
申し合わせ、伊喜助殿(伊丹喜助康勝)へ
相談候て,兎に角
喜助殿の次第に仕に
然るべく候。此の方相易く
事もこれ無き候間可
心易く候。我らも六月
甘一日ニ小倉へ移り
申し筈候。尚追而可
申し期候。謹言

既に(乙上)
又申し候。法印(与安法印=片山宗哲)へも其の方の煩い
候様を被入れられ候事。於
礼にて書状遣わし申し候。以上

     内記

五月甘一日(花押)
長岡与五郎殿


(現代語訳)
一筆申し上げます。さてあなたが
手足を患っていたところ、与安
法印が療治をして回復
したことは、一段と喜ばしいことです。
然らば(さらに)湯治をして、
体を整えてください。法印も
そう申しております。更に
三斎様も私も在国(豊前)
にて、あなたは人質で有る者として
心易く湯治をさせてあげることは難しい
事ですので、半左衛門(田中半左衛門・旧姓長束祐信)と
申し合わせて伊喜助殿(伊丹喜助康勝)へ
相談してください。兎に角
喜助殿の考え次第です。私の方は
何事も無いのでご安心ください。
私も六月二十一日に
小倉へ移つる予定です。
尚、近日中に
可期(書き)ます。謹言

乙上(さらに)
また、申し上げます。また法印へも
あなたの煩いを治療して頂いたことに、
御礼状を遣わします。以上

内記(忠利)
五月甘一日(花押)
長岡与五郎様

後藤是山コレクション
1621年(元和7)5月21日付け 細川忠利書状       
長岡与五郎宛 元和7年5月21日 

原書状 後藤是山コレクション 熊本県立美術館所蔵
原文、読み下し文、現代語訳、髙田重孝

解説
長岡与五郎(興秋32歳)は慶長20年(1615)6月6日、大坂の陣へ参戦した責任を問われて父忠興に命じられて切腹させられた。
1614年(慶長19)秋頃、興秋(31歳)は大坂方(西軍)の招きで大坂城に入城して、豊臣秀頼に仕え、11月の冬の陣、翌1615年(慶長20)5月の夏の陣を戦っている。細川忠興は大坂の陣が始まる前に、京都での興秋の警護を任せていた米田監物是季(29歳)に大坂城陥落の際には興秋救出を秘密裏に命じて、豊臣方に加担させたと推測される。

大坂の陣への参戦
1614年(慶長19)秋頃、興秋(31歳)は大坂方(西軍)の招きで大坂城に入城して、豊臣秀頼に仕え、11月の冬の陣、翌1615年(慶長20)5月の夏の陣を戦っている。細川忠興は大坂の陣が始まる前に、京都での興秋の警護を任せていた米田監物是季(28歳)に豊臣方に加担させたと推測される。 

1614年(慶長19)12月16日、米田監物是季(28歳)は大野主馬組の侍大将として、塙団右衛門直之と共に撃って出て南御堂の阿波徳島城主蜂須賀至鎮陣屋を夜襲。 

興秋の側室の父、立家彦之進(関主水・寺沢藩家臣・天草佐伊津城主)大坂の陣で討ち死。

興秋の嫡子「与吉(興吉)」(後の興季・おきすえ)の存在が判っていれば幕府から執拗な追求を受ける事は明白なことであり、それゆえ細川忠興は興吉の誕生そのものを秘密裏に処理して憂いを事前に取り除いている。また興秋は側室と嫡子「与吉(興吉)」を1610年の氏家宗入の娘との結婚前に密かに郷里天草の佐伊津城に帰して匿うようにしている。 

大坂城落城
5月10日、大坂城落城。米田監物是季は本丸で秀頼に別れを告げたと「米田家記」に記されている。米田監物興季は本丸の火の手を見て敵に打ち掛かるのを家臣山西孫兵衛に『一旦之徒兵として命を可捨事にて無之候』(先祖付)と言われて止められた。興秋と米田監物是季は城内の残兵をまとめて小隊を組織して最後に池田武蔵守利隆の持ち場を見事に突破して京の伏見を目指して落ちて行った。興秋の撤退の際の指揮の見事さに突破された池田利隆も『さすが細川殿の御子息』と感服したという。乱戦の中で池田軍を突破した後興秋は家臣たちとは落ちて行く時点ではぐれていた。 

興秋は一旦京の自宅に戻りその後身を隠した。隠れ先は細川家家老松井康之の菩提寺である京都伏見稲荷の東林院である。身を隠すには最も適した場所であった。忠興は興秋の伏見の屋敷に残された妻子を守るために松井右近等一部の側近を護衛に派遣して興秋の潜伏先が掴めると身柄を保護したと考えられる。 

米田監物興季は京の街を通り越して琵琶湖のほとり坂本の西教寺に保護を求めて身を隠し蟄居した。西教寺は興秋の祖父・明智光秀の菩提寺である。 

しかし告訴する者があり潜伏先で捕らえられた。徳川家康は、興秋は死罪に価するが父忠興のこれまでの徳川家に対する忠義と功労に報いるため興秋の罪を免じようとしたが成り行きによっては細川家の知行減、最悪の場合細川家取り潰しまで発展しないとも限らなかた。細川家の生存と存続をはかるため忠興は愛する息子興秋に切腹を命じ、6月6日、京都伏見の東林院において興秋(32歳)は切腹した。

しかし6年後の1621年(元和7)5月21日付け、細川忠利の書状は、興秋(38歳・長岡与五郎)宛てになっている。つまりこの書状は興秋が6年前の1615年6月6日、京都で切腹させられてなく、生きていることを証明している唯一の書状である。それも実弟忠利から実兄興秋への書状であり、内容も忠利がこの書状では小倉城へ藩主として6月21日(細川正史・綿考輯禄では正式な入場は6月23日となっている)に入る予定であることが述べられているので、それによりこの書状が元和7年(1621)の5月21日に書かれた忠利の書状であることが判り、私の「細川興秋生存説」の論考が正しい論考であることを証明する唯一の書状である。

この書状を現代語訳にすると、1621年(元和7)年5月以前、興秋(38歳)はどういう病かは断定できないが(おそらく脳卒中、現代の脳梗塞)手足を患い、幕府御典医である「与安法印・片山宗哲」が、わざわざ江戸より呼ばれて興秋の病状を回復させたことが判る書状である。その後の興秋の病状を回復させるために与安法印は湯治を勧める内容まで記されているが、人質としてかくまわれている興秋が湯治に行くことは難しいと書いている。しかし、伊丹喜助殿に相談の上決める様にと言っている。

興秋は大坂の陣(1615年6月)以後、豊前国田川郡採銅所の「不可思議寺」に連れてこられて匿われ、人質扱いを受けて伊丹喜助殿が責任者として厳重な監視・保護下に6年後の1621年(元和7)依然置かれていたことが判る。半左衛門が付き添い、興秋の身の回りの世話をしている。興秋は人質であり、興秋の湯治へ行かせるかどうかの判断は喜助殿の判断に委ねられていることが判る内容になっている。

御法印について
書状に見える「御法印」とは、御典医(ごてんい)の事で、御典医とは、典薬寮の所属する医師の事であり、単に典医とも言う。転じて江戸時代には将軍家や大名に仕えた医師もこの名称で呼ぶようになった。この場合御殿医とも表記する。典薬寮医師という意味での御典医は名誉職であり、典薬頭を除き、実際に天皇の治療に携わる医師の事を指した。
一方武家の御典医は、将軍や藩主と身近に接する立場で武士に準ずる身分であった。幕府の御典医は奥医師、藩では藩医と呼ばれて区別されていた。

与安法印・片山宗哲(1573~1622年・天正元~元和8年)
江戸時代前期の医師。山城の国(京都府)の人。叔父の片山宗僊の女婿となり、医術を一鴎宗虎に学んで都での名声を得た。後に宗虎の推挙で慶長7年(1602)徳川家康の主治医となり、家康が寒疾に罹った時、一夜で治したりした。後に御典医の称号「法印」を与えられた。しかし家康への医術の直言が過ぎて職を解かれ、元和2年(1616)一時信濃国諏訪郡高島へ蟄居させられた。2代将軍秀忠に元和4年(1618)呼び戻されて再度江戸城にて御典医として幕府に仕えた。

大石学著『江戸幕府大辞典』102~103頁、吉川弘文館 2009年、
「奥医師の項」より
幕府医官の一つ。御近習医師。お匙(おさじ)、御側医師ともいう。若年寄支配。幕府医官の中の実務上の最高位。法印(ほういん),法眼(ほうがん)に叙された医師のこと。
奥医師の仕務は本道(内科)が主体であるが、分科されていて、外科,鍼灸科、眼科、口科があった。

*情報提供 熊本史談会会長・真藤圀雄氏 小倉藩葡萄酒研究会・小川研次氏 

「半左衛門尉」
田中半左衛門
と思われ、旧姓長束助信(なつかすけのぶ)
室は忠興の妹伊也の娘である。忠利は信頼できる「身内」を香春町採銅所「不可思議寺」に匿われている与五郎(興秋)の側に置いていたと考えられる。半左衛門は忠利の与五郎宛ての書状が書かれた1621年(元和7)5月21日付けの2年後『江戸江相詰御奉公相勤居候處元和九年(1623)四月病死仕候』(先祖附)とあり、江戸で在勤中であったが病死している。 

「伊喜助殿」
幕府勘定奉行の伊丹喜助康勝と思われ、通称「喜助」(きのすけ)

「我等は、喜助殿次第と申す筈にて罷り下り候故、留め申す儀も御座無候、多分十四日に罷り上がるべきかと存じ奉り候」

(私は、奥の参府については伊丹殿の考え次第というつもりですので、止めるわけにもいきません。多分、十四日にでることになると存じます。)(元和九年九月四日忠利披露状)(山本博文著『江戸城の宮廷政治』) 

この「喜助殿次第」は上述の与五郎宛の書状にも見られることから、伊丹喜助康勝で間違いないと考えられる。

伊丹氏の第一世代の雅興、親永、永勝がいて、伊丹喜助康勝は雅興の孫にあたり、徳川幕府に於いて勘定奉行を務め、熊本の加藤家改易後、熊本城受け取りの際、No 2として財務面を担当して来熊している。細川家とは大変懇意であったことが判るし、熊本の情勢にも明るかったと思われる。与五郎興秋を匿うことについての相談相手としては格好の人物だと思われる。 

細川幽斎に唯一側室が確認されるが、これは有岡城から黒田官兵衛孝髙を救出した加藤(伊丹)重徳だが、室は(親永の子・親保女)であり、細川忠興の側室・お藤(松の丸殿)は重徳の兄・郡(伊丹)宗保の娘である。何故、細川幽斎・忠興親子の側室がそれぞれ伊丹氏なのか不思議に思うが、伊丹喜助殿を含め深いかかわりがあってのことと思われる。

加賀山隼人も伊丹氏ですが、これも親永の子の親保の弟か、四男とかいう「意遁忠親」のその嫡男が隼人の父親・朝明だと考えられる。

また、書状に「三斎様と私も在国にて」とあるので、三斎・忠興(小倉城)と内記・忠利(中津城)が在国、つまり豊前にいることが判るし、興秋も豊前において人質扱いを受けて隠蔽されていることが明確に書かれている。つまりこの1621年(元和7)の時点では、興秋は天草へは行っていないことがこの書状により明白である。 

この書状は忠利から興秋宛の秘密裏の書状であるから、中津城にいる忠利から、香春城城主の叔父孝之(キリシタン)を経由して、香春町採銅所の不可思議寺にいる興秋へ届けられた書状である。

1621年(元和7)細川興秋が隠蔽されていた不可思議寺・香春町採銅所
香春町採銅所 不可思議山不可思議寺 (現・明善寺)

興秋と中浦ジュリアン神父との関わりについて
(1)中浦ジュリアン、脳卒中になる
1624年(寛永元)中浦ジュリアン神父(56歳)、筑前博多、秋月、豊前小倉、中津を訪問。脳卒中により歩行困難となり信徒達に籠や梩(もっこ)で運ばれている。

中浦ジュリアン神父は以前働いていた博多、秋月、小倉周辺のキリシタン達を訪問して告解を聴きミサを授けて慰めている。この年の筑前、筑後、豊前訪問のとき、中浦ジュリアン神父は脳卒中になり非常に困難な状態で健康に重大な問題を抱えながら訪問していたことが報告されている。 

1624年(寛永元)のイエズス会日本年報には『中浦ジュリアン神父は当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は困難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。』との報告があり、健康に重大な問題を抱えていたことが報告されている。脳卒中による半身不随、あるいは脳梗塞による部分的な麻痺障害が残り後遺症により筆記が出来なかったと考えられる。中浦ジュリアン神父の6年間の動向空白が脳卒中説を示唆していると考えられる。 

中浦ジュリアン神父が忠実な伴侶・同宿トマス・リョウカン(了寛)と共に、豊前地方に於いて活動を続けることが出来たのは、細川忠利のキリシタンに対する理解ある態度と共に、当時田川郡香春町採銅所の「不可思議寺」に秘密裏に匿われて不可思議寺の住職をしていた忠利の実兄・興秋にとって中浦ジュリアン神父が信仰を維持する上で必要不可欠な神父であったこと、中浦ジュリアン神父にとっても興秋に匿ってもらうことで身の安全を保障され、静養治療に専念できること。互いの利点に於ける相互扶助の関係が出来上がることを考えると、中浦ジュリアン神父が最も身を隠すのに適していた場所が、細川興秋が隠棲して住職をしていた香春町採銅所の「不可思議寺」だった。それゆえ中浦ジュリアン神父は最も安全な隠れ場所である興秋の「不可思議寺」に大胆にも身を寄せたと推測される。 

脳卒中による半身不随、あるいは脳梗塞により部分的な麻痺障害が残って後遺症により移動の際は信徒達に担がれて籠や梩(もっこ)に乗り次の訪問地へ移動したと考えられる。中浦ジュリアン神父の1627年から1632年(寛永4~9年)までの6年間の動向空白が脳卒中説を示唆している。 

中浦ジュリアン神父(56歳)は1624年の筑前・豊前訪問時点で脳卒中による不自由な生活を余儀なくされている。筑前と豊前の訪問中に脳卒中になり、自力による長い距離の移動が困難になり移動の際には信者達の手を借りて籠や梩に乗って次の訪問地に移動したと思われる。この時点で興秋(39歳)の匿われている香春町採銅所の不可思議寺に身を寄せたかどうかはっきりしないが、ジャンノネ(Giacomo Antonio Giannone)神父が1625年の書簡において中浦ジュリアン神父の消息を記録しているので、島原の口之津に1度は戻って静養しながら神父としての最小限の活動を続けていたと思われる。 

*イエズス会報告1625年年報の記録
『この地区の私達の院長ファン・バウティスタ・ゾラ(Giovanni Battista Zola)は、皆を満足させて任務を果たしています。この高来にいる他の伴侶たちは皆健康ですが、老齢で弱わっている者(中浦ジュリアン)もいます。ですから私達の活動ぶりが大分衰えていきます。』 

1625年1626年のイエズス会の報告書に中浦ジュリアン神父の活動報告は見出せない。

1625 年(寛永2)12月19日、島原地方で迫害が起こる。口之津でフランシスコ・パチェコ(Francisco Pacheco)神父、イルマン・ガスパルサダマツ(貞松)逮捕。キリシタン2名が惨殺された。12月22日、島原でゾラ神父逮捕。彼らは1626年 (寛永3) 年6月20日、長崎で殉教した。 

1626 年(寛永3)5月7日 ガスパル・デ・クラスト(Gaspar de Crasto)神父、有家の丘の隠れ家で死去、フェレイラ(Cristovão Ferrira)神父が看取った。この年迫害激化のため島原半島の宣教師(神父・修道士)たちがいなくなり、島原のキリシタンたちは信徒組織(コンフラリア)を頼りに潜伏して信仰を維持していた。 

(2)中浦ジュリアン神父(58歳)島原口之津より豊前小倉地方に移る。1626年(寛永3)島原の宣教師団は迫害のため壊滅する。

 (推論)
中浦ジュリアン神父と同宿のトマス・リョウカン(了寛)は、いつ頃からかは明確に言及できないが、島原半島の宣教師団がほぼ壊滅した段階(1626年頃)で活動の場を(長崎・島原)高来地方から、昔活動していて土地勘のある豊前(小倉地方)に移した。1627年から1632年12月の細川藩の肥後への移封までの6年間について、中浦ジュアン神父の動向が掴めない空白の6年間、報告書もないこととその理由とが、キリシタン史においても大きな謎だった。 

(3)中浦ジュリアン神父の6年間の豊前における不明の期間
1626年~27年頃 中浦ジュリアン神父、イルマン、トマス・リョウカン(了寛)と共に島原より豊前に移る。香春町採銅所の「不可思議寺」の住職宗順(興秋)のもとに身を寄せ隠棲したと考えられる。 

香春町採銅所 不可思議山不可思議寺(本堂)

中浦ジュリアン神父(59歳)が島原から豊前に移動した1627年(寛永4)の時点では、採銅所の「不可思議寺」の住職は宗順(興秋44歳)で、興秋の判断で中浦ジュリアン神父を「不可思議寺」に匿ったと思われる。興秋が中浦ジュリアン神父を密かに匿っていることを知った父忠興(65歳)は烈火のごとく怒ったであろうが、興秋隠蔽それ自体が細川藩最高機密である以上、下手に騒ぎ立てて幕府に興秋隠蔽が露見したら細川藩自体取り潰しになりかねない危険性を孕んでいるために、興秋にこの隠蔽を逆手に取られては忠興といえどもうかつには手出しできない問題であった。忠興にとっては中浦ジュリアン神父の不可思議寺寄宿の件は実に忌々しい限りの問題であった事は容易に理解できる。また細川藩の実権は6年前の1620年(元和6)12月、豊前藩主は忠興(58歳)から忠利(34歳)に代わっていて、忠利(興秋の弟)は父忠興とは違い、キリシタンに対しては理解を示し寛容な態度で臨んでいることも見逃せない事実である。 

*1624年イエズス会日本年報の記録
『豊前の領主は、長岡越中殿の子(細川忠利)で、その父(忠興)とは大いに違い宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した。』 

藩主忠利はキリシタンである兄興秋を庇い、香春町採銅所「不可思議寺」での中浦ジュリアン神父の隠蔽に関して目を瞑って見ない振りをしたのであろう。教会側もイエズス会報告には書けない出来事、細川藩も記録に残せない問題、だからこそ両者が何も語らない6年ではないかと考えられる。 

中浦ジュリアン神父が1627年(59歳)を境に1632年(寛永9)12月の小倉での逮捕までの6年間、報告書を書かなかった理由とは何か、書けなかった訳とは何か。脳卒中説とは別に、もしも報告書が幕府の手に落ちた場合、検閲されて幕府に通達、詮索の結果必ず興秋にたどり着くからではないのか、そうなれば細川藩に隠蔽されている興秋だけではなく小笠原玄也一家、田川周辺のキリシタン組織、それを見ぬ振りをしている細川藩自体まで累が及ぶことが明白である以上、中浦ジュリアン神父はあえて報告をしなかったのではないかと推測される。 

1627年(寛永4)中浦ジュリアン神父(59歳)は脳卒中のため体調が思わしくなく、最も安全な隠れ場所である細川興秋(42歳)の隠蔽先である豊前国田川郡香春町採銅所の「不可思議寺」に大胆にも身を寄せたと考えている。興秋にとっても中浦ジュリアン神父は信仰を維持するうえで必要な人物だし、中浦ジュリアン神父にとっても興秋に匿ってもらうことで、身の安全と静養治療を保障される。互いの利点に於ける相互扶助の関係が出来上がることを考えると、中浦ジュリアン神父が最も身を隠すのに適している場所が、興秋の匿われている香春町採銅所の「不可思議寺」と考えても差し支えないと思われる。 

どんな迫害の最中であっても、神父として最も大切な『終誓願』(長崎26聖人記念館所蔵)でさえ場所と日付を明確にしてイエズス会に報告していた中浦ジュリアン神父が、1627年を境に1632年12月の小倉での逮捕までの6年間報告書を書いていない。 

キリシタン史の中で中浦ジュリアン神父の同行が掴めない空白の6年間(1627~1632年)報告書も書いていなこととその理由とが大きな謎だった。中浦ジュリアン神父の脳卒中説も原因のひとつと考えられる。 

1624年のイエズス会報告には『中浦ジュリアン神父は当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は困難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった』とあり体調に重大な問題を抱えていたことが報告されている。脳卒中により半身不随、あるいは部分的に障害が残り筆記することが困難な状況だったと推測される。6年間の動向空白が如実に中浦ジュリン神父の脳卒中説を示唆していると考えている。

(1)神の摂理である興秋の病気
1621年(元和7)の細川忠利の書状に「興秋の肢体が不自由であり、与安法印が治療を施して全快した」ことが書かれているが、同じ病(脳卒中、現代の脳梗塞)になっている中浦ジュリアンが興秋のもとで静養したことは偶然ではないと思う。 

6年前に興秋は中浦ジュリアンと同じ病(脳梗塞)を経験していて、どのような薬を服用して回復したという体験があるので、同じ症状の中浦ジュリアンにも自分と同じ薬を調合して投薬した。興秋にはどの薬を服用したら回復したという自らの体験から判っていたから、御殿医の与安法印が自分に処方してくれた同じ薬を中浦ジュリアンに服用させたと考えられる。この2つの出来事は神の摂理であると思う。偶然では起こりえないことである。 

家伝・天草の『池田家文書』との矛盾
家伝・天草の「池田家文書」15頁には『興秋は尾州春日部郡小田井村に暫らく忍び後、肥後国天草御領村に隠棲』とある。 

興秋の系譜自体は江戸時代後期、1802年(享和2)6月15日に御領組、九代大庄屋長岡五郎左衛門興道(1815年・文化12年・10月7日死去)により書かれたものが池田家に伝えられていた「池田家文書」である。文書の系譜自体は江戸時代後期の編纂であるが史料的価値が高いと判断されている。 

天草の池田家文書の記録には『1615年(元和元)6月6日、京都伏見の東林寺にて切腹。尾州春日部郡小田井村に暫らく御忍び被成、夫より直に肥後國天草郡御領村に御居住被成候て、宗専様と奉申候よし。』となっている。 

つまり家伝「池田家文書」に従えば、興秋は1615年~1616年頃に天草に来て、立家彦之進の娘をもらい嫡子興吉が誕生している。興吉の誕生は早くて1617年頃以後と推測される。1641年(寛永18)春頃、興秋の嫡子興季が江戸より呼ばれ、天草初代代官鈴木重成の命により御領組みの大庄屋を預かった時、興季は24歳と推定され、御領組み庄屋となった興季の死去した1670年8月17日は53歳。 

また興秋は天草へ来て佐伊津城主・立家彦之進(関主水)の娘をもらい嫡子興吉が誕生したとなっているが、この「忠利の書状」によると「1621年(元和7)5月21日時点で、豊前に人質として囲われている」ことが明白なので、興秋の天草での立家彦之進の娘をもらうことは不可能なことになる。それ故、興秋が佐伊津城主・立家彦之進(関主水)の娘と結婚した時期と嫡子「与吉」の誕生した時期は、興秋が京都から出奔した1605年(慶長10)から、父忠興の命令で1610年(慶長15)氏家宗入の娘との結婚の間の5年の間と限られてくる。 

以上のことから1621年(元和7)の「忠利の書状」と1802年(享和2)の「池田家文書」の内容には時代的矛盾と地域的な大きな隔たりの矛盾がありすぎる。 

この「忠利の書状」によると、興秋は1615年(元和元)6月6日に京都では切腹していないし、1621年(元和7)5月21日書状には、明らかに豊前において人質として囲われていることが判る。したがって『池田家文書』や「興秋伝承」とは違い、尾州春日部郡小田井村に暫らく忍び後、肥後国天草御領村に来て隠棲もしていないことになる。 

しかし興秋が「宗順」から「宗専」と改名するのは、父忠興が隠居して名前を三斎と号した同時期で、この書状と同時期と判明する。 

天草に伝わっている『興秋伝承』
『細川興秋は熊本より天草の乱の前に移ってきた。天草の乱に際しては細川興秋公と長野幾右衛門家重様は島民に乱徒に組みしないように説いて回った』という「天草の興秋伝承」では「興秋は天草の乱の少し前、熊本より逃げてきた」と言われている。 

しかしこの書状から判明することは1621年(元和7)には、興秋は細川藩内(在国・豊前)において匿われていたことが判り、天草に伝わっている口伝から、細川藩が肥後熊本に移封された1632 年(寛永9)12月9日、細川忠利(46歳)が肥後熊本へ移封され熊本へ入るこの時、興秋も香春町採銅所の「不可思議寺」から山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」(真言宗大谷派)へ移り住んでいる。この事実から「天草の伝承」の方が事実に近いことを述べていることがわかる。 

熊本県山鹿市鹿本町庄の「泉福寺」の毘沙門堂
鹿本町庄の「泉福寺」跡の毘沙門天
泉福寺跡に建つ聖歓喜天堂

興秋が熊本山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」より避難してきたその時期は、同村付近に隠棲していた小笠原玄也一家が穿鑿(せんさく)訴追を受けて逮捕され、禅定院に於いて処刑された1635年(寛永15)12月23日以前の事で、小笠原玄也一家が穿鑿され長崎奉行所に訴追された9月から10月頃に、興秋が住職をしていた山鹿郡鹿本町庄の「泉福寺」より小笠原玄也の穿鑿訴追に巻きこまれることを避けるために細川藩家老米田監物是季の手引きにより天草御領へ避難したと推測される。 

小笠原玄也一家は興秋の身代わりのために供された山羊(scapegoat)だった。「天草島原の乱」の勃発はその2年後1637年(寛永14)10月の事である。

島原 原城本丸跡 天草丸より望む

この「忠利の書状」により、興秋は1615年(元和元)6月6日に京都では切腹していないし、1621年(元和7)5月21日には、明らかに豊前において人質として囲われていることが判る。したがって事実は「興秋伝承」や「池田家文書」の「尾州春日部郡小田井村に暫らく忍び後、肥後国天草御領村に隠棲」もしていないことになる。しかし興秋が「宗専」と名乗るのはこの書状と同時期と判明する。 

後藤是山氏の興秋研究
1926年(大正15)9月15日から18日に掛けて、今の熊本日日新聞社の前身・九州日日新聞社の記者、後藤是山氏が『細川忠利公の兄』と題して「細川興秋について」4回にわたり記事を書かれた。後藤氏は細川興秋についての天草の伝承を詳しく調べて4回に分けて調査した内容を記事にしている。 

当時天草郡河内浦町一町田益田に住んでいた興秋公の直系子孫第14代・長岡養四郎興敏氏にも面会して明細な情報を入手している。また興秋公の墓のある御領の芳證寺に行き、墓碑と過去帳等の調査も行っている。興秋公の直系の子孫は第14代長岡養四郎興敏氏が1940年(昭和15)11月15日に死去したことにより断絶した。 

現在は、元祖細川与五郎興秋入道、初代・御領大庄屋・中村五郎左衛門興季、二代・大庄屋・長野宗左衛門興茂が嫡男(この嫡男直系の家系が第14代養四郎興敏氏で断絶)、次男に中村藤右衛門(佐伊津村庄屋・中村惣右衛門先祖の家系)直系の家系が現在まで存続している。したがって、興秋直系の家系は興秋・興季の次男中村藤右衛門の家系として存続していることになる。現在の中村家の当主は第13代中村社綱氏(天草市南新町)である。 

忠利書状依頼の経過
後藤是山氏が、大正15年9月15日から18日に掛けて「細川興秋公生存説」を提唱され検証されたが、その後興秋公についての詳しい記事は書かれていない。その後、後藤是山氏は昭和に入ってから「長岡与五郎宛 元和7年5月21日付け 細川忠利書状」を入手されたようだ。(入手の明確な時期は不明)

あるいは、この書状の持ち主である長岡養四郎興敏氏は昭和15年11月15日に74歳で死去されている。その後、養四郎興敏氏の持っていた家宝は、お世話になった方々にお礼として渡ったと言われているので、その際、お世話した方から、後藤是山氏へ、この書状が渡った可能性が考えられる。 

いずれにしても後藤氏はこの書状を入手された後も、書状の内容に関しては何も調査されていないし、この書状に書いてある重大な事柄に関して気が付いていなかった。もし後藤氏がこの書状に書いてある重大な事柄に気が付いていれば何か記事にされたはずである。後藤氏は自分のコレクションとして死ぬまでこの書状を大事に保管されていた。後藤氏の死後、昭和61年(1986)後藤氏のコレクションは熊本美術館へ寄贈された。

 この「長岡与五郎宛 元和7年5月21日付け 細川忠利書状」熊本県立美術館所蔵の存在をお知らせくださったのは奈良県香芝市の細川宗彦氏でした。細川宗彦氏の祖先は天草出身で、肥後の細川家の親戚とのこと。細川宗彦氏は独自に細川興秋を調べていて『興秋生存説』と私の名前を知り2020年2月16日にメールを頂いた。

熊本県立美術館所蔵(後藤是山コレクション)「長岡与五郎宛 元和7年 細川忠利書状」の内容が、年号的に不自然だと思い、熊本県立美術館の学芸員に問い合わせたら「誰も専門的に調査していない」との回答で、細川宗彦氏が指摘するまでこの書状の矛盾した日附けに気が付いていないとのこと。それで「忠利の書状」の忠利の花押等から書状の真贋を確かめることができるのではないか。「読み下しと現代語訳」をして学術的解釈をしてもらえないかとの依頼だった。そこで「興秋生存説研究」をしている私に依頼が来た。

書状の調査内容
まず細川家で「内記」と書くのは細川忠利だけだから忠利本人の書状に間違いはない。また「忠利の花押」は間違いなく本人のものと確認できる。他の忠利書状の花押と重ね合わせると2つは一致するので忠利の花押に間違いはない。

次に内容から5月21日の日付であること、1ヶ月先の6月21日には小倉城に入ることが書かれているが、これは、父忠興から藩主の座を譲られて、中津城から小倉城に移ることを知らせる内容で、この書状が、忠利が細川藩主として中津城から小倉城に移った事実(細川藩正史・綿考輯禄)が元和7年(1621年)6月23日であること、内容からその年・元和7年(1621年)5月21日に書かれた書状であることが判明する。したがって中津城から小倉城への移転について言及されていることからもこの忠利書状は本物であると断定される。

ただ問題になるのは宛名が「長岡与五郎殿」となっている事である。「長岡与五郎」つまり、細川興秋はこの書状の6年前、1615年(元和元)6月6日に、大坂の陣に豊臣方の武将として参陣、大活躍をして功名を挙げている。大坂城落城の際は無事に逃げおおせて京都伏見稲荷の東林寺に隠れていたが密告により捕まり、父忠興により切腹させられている。

その切腹させられて死んだはずの興秋宛の書状ということになり、私が書いてきた「興秋生存説」がこの書状で正しいことが証明された。

原文 細川忠利書状 元和7年5月21日付け 長岡与五郎宛
熊本県立美術館所蔵 (後藤是山コレクション)

原文入手希望の方は
熊本県立美術館宛てに問い合わせください

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