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バンコクを再訪して感じた別れ際の記憶の美化

バンコクをバンコクたらしめているのは、縦横無尽に走るバイクの群れなのかもしれない。けたたましいバイクの音を聴いて、バンコクに戻ってきたことを実感した。

6年前の記憶をたどる

筆者は、2014年から2017年まで、バンコク日本人学校で働いていた。もちろん、その間住んでいたのもバンコクである。

2017年の時点で先に退職することが決まっていたものの、次の職場は決まっていなかった。ようやく帰国する3月になって、中国の深圳日本人学校で勤務することが決まった。

ただでさえ年度末で忙しい時期。仕事の引き継ぎや成績処理に追われ、次の学校との連絡や、赴任に関する資料の読み込みが必要になった。

さらに、中国へ渡航するために必要なビザをなるべく早く取得するため、帰国の便を2日ほど早めた記憶がある。予定の便だと荷物も4個ほど無料だったのに、やむを得ず通常のエコノミーで、荷物の超過料金を支払って帰国した。

帰国日前日も友人たちが送別会をしてくれ、深夜まで飲んでいた。ほとんど寝られず、発狂しそうになりながら荷物を詰め、何とか退去の手続きを済ませ、空港に向かった。

退去時の全荷物。多いのか少ないのか。

最後のバンコクの記憶はこんな感じ。次の職場も海外だから、またいつでも戻ってこれるだろうと思いながら羽田行きの便に搭乗した。

しかし、諸事情によりバンコクを訪れることはできず、コロナ禍の影響もあり、再び訪れたのは6年後の2023年6月だった。

チェンマイのトランジットで再びバンコクへ

このタイミングでバンコクを訪れたのは、消去法というか偶然の要素が強い。旅の最終目的地はチェンマイだったからだ。

家族でゆっくりできそうなところを探していて、チェンマイが目に留まった。自分も妻も訪れたことがなかったし、子連れ旅行にもいいとのことで決めた。

つまり、チェンマイに行くためにバンコクを経由したのだ。

再びバンコクに行くことが決まってから、住んでいた頃に聞いていた曲を聴きながら、当時の記憶をたどってみた。うまく言えないけど、音楽には記憶が宿ると思っている。昔聞いていた曲を聴くと、当時の見た風景や聞いた場所などが浮かび上がってくる。

2014〜2017年は、コロナ前だ。おしゃれなバーでは、EDMが流れまくっていた。David GuettaやTiësto、Steve Aoki、The Chainsmokersをよく聴いていた。

音楽は時代を反映するというが、あの頃はアドレナリン中毒だったと思う。1年目は平日14時間くらい職場にいた。繁忙期は日付を回るのが当たり前だった。当時は20代後半だったし、同世代の同期も多かった。何かにつけ飲み会が開催されていたし、仲間内でもしょっちゅう飲んでいた。

プライベートと仕事の区別がつかなくなるくらい忙しかったのだけれども、季節労働とも言える職業だったので、まとまった休みを取ることもできた。良くも悪くもバンコクは刺激の多い街だ。長期休みは解き放たれるように、タイ国内外を飛び回った。

そして、また長時間労働の日々に戻る。そんな日々が3年くらい続いた。

バンコクへのホーム感が戻ってきたのは、バイクの音を聞いてからだった

関空からエアアジアでスワンナプームに向かった。
6年の月日を経て、バンコクはどれくらい変わったのだろうか。
空港に着いて、不安と期待が入り混じったような気持ちでタクシーに乗った。

ハイウェイからバンコクの街を眺めながらホテルに向かう。途中、以前勤めていた職場の近くの建物が見えてきたり、中国でもよく見るような高層マンションが目に入ってきたりした。

ハイウェイを降り、ラマ9世通りを進む。この辺りを通っているといよいよ戻ってきた感じがした。スクンビットのsoi21を通ってアソーク近くのホテルへ。日曜日だったからか、大きな通りにもかかわらず、シャッターが降りている店が多かったのが気になった。

無事、ホテルに着き、チェックイン。受付の女性はテキパキと業務をこなしている。行きのエアアジアのスタッフもそうだったが、しっかり仕事をしつつも、時折談笑しながら楽しそうに働いているのが印象的だった。

日本は静かな国だ。深圳にいたころ、事務の中国人スタッフ(ご主人は日本人)が、日本に行った際の様子を話してくれた。「日本は全然人がいないよ。道に人がいない。」と言っていて、それは少し大げさではないかと思ったが思ったが、日本に帰国して、彼女の言いたかったことが分かった。

筆者は、現在大阪府に住んでいる。駅まで徒歩10分くらい、そして10分も電車に乗れば、大阪のビジネスの中心地・梅田に行ける。そんな場所でも、昔からの住宅地とはいえ、本当に人が歩いていないのだ。もちろん、朝や夕方の通勤時間はチラホラ見かける。日中に至っては、本当に静かだ。

日本で騒がしいのは、駅前一帯の商業エリアと、居酒屋、大きな道路くらいかもしれない。少しそこから離れるだけで、歩いている人は一気に減るし、不思議なくらい静かになるのだ。

そんな環境で1年ぐらい過ごしたからだろうか。BTSの近くの横断歩道で信号が変わるのを待っていた時、無数のバイクが目の前を通り過ぎ、エンジンの音が体に響いた。そういえば、バンコクはこんな音がする街だった。

自分がよく通っていた店がなくなっていたり、新しいモールやビルが建っていて、変わった部分もあるけれど、大きく変わっていなかったように思う。

ここにはTOPS(スーパーマーケット)があったはずなのだが

タクシーに乗ったら渋滞にはまって、道路のど真ん中で降りざるをえなかったり、道端の屋台でカオマンガイを食べたりすると、久しぶりに車や自転車を運転した時のような気持ちになる。
そうだった。水はクーラーボックスから自分で取ってくるんだった。などなど。

屋台といえばカオマンガイ

多少はキャッシュレス化が進んでいるようであるが、まだまだ現金が主流だったので、何度も両替所へ通った。

1日もすれば、6年ぶりに訪れた新鮮さは、徐々に失われていった。それもそのはず、3年も住んでいたのだから。

別れ際の記憶はまるで宿題のようなものだ

自分はバンコクで何がしたかったのか、と問われても特に答えはない。

6年前、満身創痍でスワンナプームに向かうタクシーの中で、バンコクを通じて何か新しいことが起こりそうな、希望みたいなものを感じていたのかもしれない。なのに、戻ることは叶わなかった。ただそれだけだと思う。

この感覚は、再びロンドンを訪れた時と同じだ。学生の頃、3ヶ月くらいホームステイをしていたのだが、帰国前日に体調を崩してしまった。出発する日の朝にバタバタと支度を始め、ホストマザーに満足なご挨拶ができなかった。

モーリンというホストマザーは足が悪く、1人で住んでいた。最後に握手した時に、今生の別れのような気がして、今にも泣きそうになった。また、ロンドンに行かなくてはならない。そう思い続けて、3年後、再びロンドンを訪れた。

2015年に、アポなしでホストマザーの家を訪ねた。高齢のモーリンが出てきた。
モーリンは遠い記憶を呼び起こし、何とか自分のことを思い出してくれた。自宅に招き入れてくれて、お茶も出してくれた。しかし、ある種の使命感を持って訪れたにもかかわらず、その時間はゆっくり、あっさりと過ぎてしまった。

無理もない。モーリンは高齢のおばあさんだし、自分は数多く招き入れてきた日本人の一人にすぎない。

なんだろう。古巣に戻ることは自分の「宿題」のようなものでもあるのかもしれない。提出するまでは、「出さなきゃ」と思っているが、いざ出したらスッキリして終わるだけ。

モーリンと会ったことで自分の宿題は終わった。その後、ロンドンは訪れていないし、恋焦がれる気持ちもない。

再びバンコクを訪れたのもそれに似ている。多分バンコクに行くこと自体が自分の中で「宿題」になっていたらしい。

きっと、深圳を再び訪れる時も同じような気持ちになるのだろう。

帰国直前の2022年の3月、深圳市がロックダウンされた。
帰国日の早朝に何とかマンションを脱出。(もちろん合法的に)真っ暗の中、職場の同僚数人に見送られ、自分たち家族と運転手、職場のスタッフだけで大型バスに乗り込み、空港へ向かった。

バスが出発してから、泣いた。
きっとその時の記憶も美化されているに違いない。深圳にもまた行きたいが、行ったところであっという間に馴染んで、普通に日本に戻ってくるかもしれない。

タクシーの窓からバンコクの街並みを眺める

チェンマイ行きのフライトに乗るため、ホテルからタクシーでスワンナプームへ向かった。

タクシーの窓から、来た時とは反対の方向にバンコクの街並みが見える。その頃には、何の未練もなくなっていた。宿題を出したから、スッキリしたのだ。

ただ、以前と大きく違うのは、家族で来たこと。娘たちは、ホテルやフライトのスタッフ、他の旅行者、タクシーやバイタクの運転手に可愛がってもらった。きっとまたタイに来たら楽しんでくれると思う。

自分の宿題はもうないけれど、娘の宿題のためなら、またいつか来よう。

空港に近づくと、広告用の大きなパネルに空きが目立つことが気になった。そして、6年ぶりのバンコクを後にした。

ワット・ポーにて
ワット・ポーの最寄駅
ルンピニ公園の夕暮れ

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