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忘れられた空間が日常から色を奪う

「天気の子」を観た。相変わらず新海誠監督の描く東京は素敵だった。物語の予感に満ちていた。しかし今回の映画ではそんな東京の風景もさることながら、登場人物たちの家の中の描写が胸に残った。物書きのおじさんの雑多な事務所も、子供達の暮らすアパートも。かと言ってそれぞれ際立ってお洒落なわけでもない。あれが現実にあったとしても、心はまったく動かされないかもしれない。

私は普段ほとんどアニメを観ないけど、昔一度、細田守監督のトークを聞いた時、「アニメの中に描かれているもので意味のないものは何一つない」というようなことをおっしゃっていた。言われてみればたしかにアニメは、ドラマや映画と違って、背景とか音とか光とか、そういったものが偶然映り込むことがない。全てがなんらかの意図や必然性をもって描き込まれたり、描き込まれなかったりしている。

そんなことを思い出して、ふと考えた。新海誠監督のアニメに登場する、緻密に描写された見慣れた東京や、ごちゃごちゃ雑多な家の中が、それでもなぜか、やたら素敵に見えるというのは、もしかするとそこに描き込まれているものが、全て一様に、同時期に、誰かの意図によって配置され、誰かの手によって描き込まれたものだからかもしれない。

なにしろ、現実はそうじゃない。現実の街並みには、もはや誰が、いつ、なんのために作ったのかわからない、しかも、わからないことにさえ誰も気がつかない忘れられた場所が無数にある。自分で作り上げた家の中にも、かつてはたしかに自分がそれを欲し、手にし、家に迎え入れたというのに、もう何ヶ月も触れていないもの、目もくれていないもの、忘れてしまっいる空間が少なからずある。

誰かに記憶され、意識され続ける限り、物語が始まる可能性はある。だけど、そこにあることすら忘れられたらそうはいかない。忘れられたら死んだも同然だ(死後の世界で生き生きと生きるものも中にはいるのだろうけど)。こんまりがときめかないものを捨てなさいというのも、つまるところそういうことなんだろうと思う。部屋の中の、忘れられたものや空間を放置してはいけません。忘れられたものは、きちんと埋葬しましょう。そういうことだと思う。
アニメの中の雑多な部屋の中には埋葬されていない亡骸が転がっていないが、私の実際の生活の中にはそれがごろごろ転がっている、ということだ。

忘れられたものは見えなくなる。でも、もしかしたら私たちは無意識に、忘れられた何かがある、ということだけを感じてしまうのかもしれない。それは後ろめたさかもしれないし、恐怖や孤独かもしれない。普段私たちはそれらを避けて、見ないことにして暮らしている。でも、本物そっくりに描かれた世界の輝かしい美しさと対比させると、否が応でも気づかされてしまうのだろう。ぽつぽつと色がぬけて、空洞になっている風景が、私たちの日常に無数に存在していることに。

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