自分史的なクリッピング史料

新聞のみならず、読書も相当している方だとは(勝手に)思う。但し、乱読が多く、一つの本の読了までは相当な時間がかかってしまうので、それでは内容が記憶の中で飛んでしまうのでは?という懸念も大いにある。それでも時折、新聞の書評欄のクリッピングを読み返して、未読了の本であっても、内容の思い出しに役立ったりして、読書欄のクリッピングは結構選書には役立っているし、クリッピング史料も洗い替えをしている。そうしないと永遠に積みあがってしまうので。

2024年1月27日 朝日 読書 日本精神史 近代編(上・下) 長谷川宏 著

著者の本も数冊持っている。何せ在野の哲学者でもあり、塾の経営者でもあった(今も現役なのだろうか?)ので、言葉の力を信じている様子が伺われる。でも時折その内容は難しいなぁと思いつつ。この記事欄で挙げられている、日本精神史はいずれ読んで見たいと思っている本だ。

本を読む前とは言えこの書評欄を追ってみる。筆者は「遠い過去は外国だと考えたほうがいい。何かで読んだそんな警句が心に残っている」と冒頭で始まる。確かにものの見方や感じ方は時代によって異なるだろうし、今に照らし合わせると、理解できない部分が出てくることはままある。日本の近代史はせいぜい150年。それでも時代が背景にあることを実感できる本らしい。

明治以降の精神の変遷は、著者が冒頭で記すのは思想家でも文学者でもなく、画家の高橋由一で、絵画が「国家を治める助けになる」とうたっていたと。要はリアリズムこそが時代を生き抜く精神だと(このあたりはきちんと読んだ方が良さそう)。

例えば、"  写実 "(坪内逍遥)、" 写生 "(正岡子規)、そして「欧米回覧実記」(岩倉遣欧使節団)にもリアリズムが強く表れている。当時欧州を視察した実記には、" 鉄道 "や " 銀行 " 、" 市場 " と江戸時代とは大きく違う事物が記されていて、ありのままに物事を見て、ありのままに伝えるという、そうした知性がいかに斬新なものであったかということ。

「個」の価値の発見も近代の大きな出来事。共同体に包まれていた個人が、各自の欲望や感情にその価値を見出していった。でも時には社会秩序や国家と相矛盾することも出てくる。著者は著書の中で、福沢諭吉を批判的に記していて、結局国権拡大の旗振り役になってしまったという評価を下している。一方で森鴎外や夏目漱石は彼らなりのやり方で、懸命に矛盾や対立を受け止めていたと。

精神の時代は確かに時代背景に大きく左右されるものの、時代を超える力も当然ある。田村隆一、鮎川信夫といった詩人は、理不尽に追い込まれた死をテーマに死者と言葉を交わし、戦後を生きることを説いたという記述は、ちょっと読んでみないと分からないものの、真剣さから生まれた作品が読者の心に響くということも概念的には理解できる。やはり是非読んでみなくてはならない。自身の気持ちというか所感・感想に内包していくという作業が必要だと思う。

最後のまとめでは、著者が現代語に訳した箇所があったりと、在野の哲学者ならではの工夫が読み手を引きつける様子。何せ塾までやっていた人だから当然、語りかけるように人に物事を伝えるのは相当長けているのだと思う。「いつ読むか?」、「今でしょ!」(ちょっと古い?)といきたいところですが・・・。

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