自分史的なクリッピング史料

一昨日、久しぶりに同期・同窓の仲間と集まり、たわいもない話で盛り上がっていた。中学から大学の同期ではあるけれど、高校は男女別学であったし、大学はそれこそ大きすぎて会うこともない。やはり中学時代の交遊というのは、皆それぞれ忘れ難いもので、今でも鮮明に記憶に残っているトピックもありで話は弾んだ。我が年代は流石にSNSを中心とした世界ではなかった為に、SNSの中の大衆というカテゴリーには属さない。全てがアナログだった。そしてその本質的な感覚も変わることはない。

2020年6月14日 朝日 好書好日 「大衆の反逆」 南相馬発の新訳版
スペイン思想研究家十数年かけ完成 直後に死去

この記事全体を読んで、自分の研究の成果を世に問い、年齢的なこともあるけれど、先ずは生きている証のように執筆された著書の佐々木孝さんのことを羨ましく思った。実は入り口はそこに。

スペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットの名著「大衆の反逆」の新訳を2020年4月、岩波文庫から刊行されたという冒頭で始まる。訳者の佐々木さんは、東京電力福島第一原発事故の被災地で暮らしていたスペイン思想研究家。この新訳には佐々木さんが十数年かけて2018年に急逝する直前に完成した。そこでは「大衆を批判するエリート」という従来のイメージとは違ったオルテガ像の提示を目指していたという記載。

佐々木さんは上智大で学び、オルテガやウナムーノの研究をしながら、清泉女子大教授など色々な大学で30年余り教壇に立ちその後福島県の南相馬に戻った。2011年の震災の際には、病身の奥様のケアを考えて第一原発から25㌔しか離れていなかったものの、当地にとどまってブログで情報発信を続けたと記されている。

「大衆の反逆」の翻訳を本格的に始めたのは2006年。翌2007年には訳し終えたものの震災による中断を挟みながらも手直しを続けたという。どんな思い出その深みを追求していたのだろうか。2018年12月、肺がん治療のために入院する直前に家族に原稿を託し、その5日後に79歳で逝去された。遺稿は岩波書店に持ち込まれ、岩波文庫の編集部でも納得の行くまで推敲された原稿と評価した。

佐々木さんは翻訳の際には出版のあてがないまま、新訳を世に問う情熱を保ち続けた理由は何だったのだろうか。その手がかりがブログに残されているらしく、それは2015年11月4日付の記事「新・大衆の反逆」というテキストの中に。

そこでは、オルテガの名を広めた一人である西部邁に対して「高みから大衆を見下ろすという貴族主義的なところに共鳴し、オルテガ思想の一側面を拡大解釈して自論を展開するといった傾向」と批判的な所感を述べていた。要は「オルテガが右翼思想に利用されやすい側面があったが、悪く言えばそれは曲解で、よく言っても部分的な拡大解釈」と批評しているらしい(このブログは今でも読めてブログとしても素晴らしい内容だと思う)。

佐々木さんの目的は「オルテガの大衆論の新たな解釈と展開」を掲げて、使命や理想を失ったと批判される「大衆」の肯定的な側面をとらえ直すことだという。戦争や原発依存などの道に進もうとする動きに抗う、目覚めた大衆の粘り強い反逆こそをということらしい。ここで少し難しいけど、理性は大きく間違えるけど、感情は大きくは間違えないともおっしゃっている。祖先が残した自然を破壊することなく維持する努力や、戦争への徹底的な忌避というものがあって然るべきだと思っているのだろう。今の大衆のリーダーである政治家たちはどう考え、どんなビジョンを持っているのだろうか。時折著書を出して理念的なことや姿勢を世に問う方もいらっしゃるけど・・・。

ご長男は、オルテガの祈りとは、「大衆、すなわち一人ひとりが覚醒し慎しみ深い自己沈潜において新たにまっとうに歩み始めること」だとコメントされている。深い言葉に聞こえる。東大の宇野先生も、大衆を高みに立って批判するという通俗的なイメージは間違いで、SNSなどで相手を罵倒するような言説が溢れかえっている現代において、新鮮な自己批判の書として読むべきだとおっしゃっている。

半古典的な名著はたくさんある。そしてその当時に訳出されたものも事後の研究や解釈によってアップデートされていくのも大事なこと。出版社はそうした本を時折、新訳として出されたりもするわけだけど、読み手としては常に本質を見間違えないようなガイダンス的なテキストに辿り着ければとも思う。歳を取ったせいで、学生時代には絶対読まなかった本などをみつくろって難読書に挑戦中ではあるけど、この本も読みたいと思ってクリッピングしてからもう6年経とうとしている。他にもたくさん読みたい本がありすぎて未だに未読ながら・・・。勿論この記事だけで読んだ気になってはいない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?