歌舞伎って何だ
歌舞伎
歌舞伎(かぶき)は、日本の演劇で、伝統芸能の一つ。1603年に京都で出雲 阿国(いずも の おくに:1572年- 没年不明。安土桃山時代、江戸時代前期の女性芸能者)が始めたややこ踊り、かぶき踊り(踊念仏)が始まりで江戸時代に発展し、女歌舞伎から若衆歌舞伎、野郎歌舞伎と風俗紊乱(びんらん)を理由とした規制により変化していきました。
日本の重要無形文化財に1965年4月20日に指定され、2005年にはユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載されました。
特徴
歌舞伎の演目には他の演劇の演目にはない特徴がいくつかあります。
まず歌舞伎狂言は世界という類型に基づいて構成されています。「世界」とは物語が展開するうえでの時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもので、たとえば「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」などがあり、それぞれ特有の約束ごとが設定されています。
当時の観客はこれらの約束事に精通していたため、世界が設定されていることにより芝居の内容が理解しやすいものになっていました。ただし世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、基本的な約束事を除けば原作の物語から大きく逸脱して自由に作られたものであることも多く、登場人物の基本設定すらも原作とかけ離れていることも珍しくありませんでした。
複数の世界を組み合わせて一つの演目を作ることもあり、これを綯交ぜ(ないまぜ)と呼びます。世界ごとに描いている場所や時代が異なるはずなのですが、前述のように世界はあくまで題材にすぎないので、無理やり複数の世界を結びつけてひとつの演目を作りだすことができました。
江戸時代に作られた演目のその他の特徴として、その長さが長大なこと、本筋の話の展開の合間に数多くのサイドストーリーを挟んだり、場面ごとに違った種類の演出が行われたりすることなどがあげられます。前者はこれは当時の歌舞伎が日の出から日没まで上演したことによります。一方、後者は興行の中にさまざまな場面を取り込むことで多種多様な観客を満足させることを狙ったものでした。
現在では、このような長大な演目の全場面を上演すること(通し狂言)はまれになり、複数の演目の人気場面のみを順に演じること(ミドリ/見取り)が多くなりました。昭和のはじめごろまでは、演目を並べるときに「一番目」(時代物)、「中幕」(所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣がありましたが、現在では行われていません。
また江戸時代には(当時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いることが幕府により禁止されていたため、規制逃れのため登場人名を仮名にしたうえで無理やり過去の出来事として物語が描かれるという特徴がありました。しかし仮名といっても羽柴秀吉のことを「真柴久吉」と呼ぶ程度のものでした。
語源
歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」だと言われています。戦国時代(15世紀末から16世紀末)の終わりから江戸時代初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも呼びました。
そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっています。
「かぶき踊り」は主に女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」「歌舞妃」「歌舞妓」などの表記が用いられましたが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」でした。現在用いられる「歌舞伎」の表記が、一般化したのは近代になってから。
なお、江戸時代には「歌舞伎」という名称は俗称であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていました。また能もその一つ。
「歌舞伎」「歌舞伎座」の商標は松竹が取得しています。歌舞伎座も松竹も上場企業。
茶屋遊び
料亭・遊郭などで、芸者・遊女を相手に、酒を飲んで遊ぶこと。茶屋とは、とくに京坂地方でこの形式が発達し,大坂の堀江、曾根崎などの遊所は茶屋株での営業であり,これを色茶屋といいました。遊郭にも太夫(たゆう:遊女、芸妓の位階。最高位である)を呼ぶ揚屋(あげや)に対し,下級妓を招く茶屋(または天神茶屋)があったから、〈茶屋遊び〉といえば遊所への出入りを意味しました。色茶屋の女に、茶屋女,茶立女,茶汲女,山衆(やましゆう)などいろいろな呼名が与えられたのは、類似商売の多様化を示すが,遊郭が認められない場合に茶屋として営業する例は多く、地方都市で茶屋町といえば私娼(ししよう)街のことでした。
歌舞伎の歴史
草創期
歌舞伎の元祖は、出雲阿国(いずものおくに)という女性が創始した「かぶき踊り」であると言われています。
「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものです。阿国たちの一座が「かぶき踊り」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられています。
『当代記』によれば、阿国が踊ったのは、傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものでした。ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋のことで、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女のことです。後述するように、「かぶき踊り」は遊女に広まっていきますが、もともと阿国が演じていたものも上述したような性的な場面を含んだものであって、阿国自身が遊女的な側面を持っていた可能性もあるようです。
『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、阿国が「ややこ踊り」というものを踊っていたという記録があり、「かぶき踊り」は「ややこ踊り」から名称変更されたものだと考えられています。しかし内容面では両者は質的に異なったものであり、「ややこ踊り」が可愛らしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し、「かぶき踊り」は前述のように傾き者の茶屋遊びという性的な場面を含んだものでした。
なお、この頃の歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていませんでした。
「かぶき踊り」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになりました。そこには「ややこ踊り」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もありました。
その後、「かぶき踊り」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里(ゆうり)が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まっていきました。
今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてです。
当時最新の楽器である三味線を花形役者が弾き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めました。
ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行われていました。男娼のことを陰間(かげま)というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていたことからも分かるように好色性を持ったものでした。
全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京・大坂・江戸の三大都市を中心とした都市部に限られていました。
しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止されることになりました。
遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来の通説では寛永6年(1629年)であるとされていましたが、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられています。それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまいました。
なお、古い解説書には、「若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止されたあとに作られたもの」だと書かれているものがありますが、これは後の研究で否定されており、実際には「かぶき踊り」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)には既に若衆歌舞伎の記録があります(※3)。また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがありますが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在します。
元禄
元禄 ( げんろく 、 旧字体: 元祿)は、日本の元号の一つ。 貞享の後、宝永の前。 1688年から1704年までの期間を指す。 この時代の天皇は、東山天皇。
次の画期が元禄年間(1688~1704)にあたるとするのが定説。歌舞伎研究では寛文(かんぶん:1661年から1673年)・延宝(えんぽう:1673年から1681年)の頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられています。この頃には「演劇」といっても憚りのないものになっていました。江戸四座(後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝の頃。
元禄年間を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展を遂げ、この時期の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれています。この時期の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の初代市川團十郎と、「やつし事」(高位の若殿や金持ちの若旦那(だんな)などが流浪して卑しい身分に落ちぶれた姿を見せる演技、またはその演技を中心にした場面をいう。 みすぼらしくする、姿を変えるという意味の「やつす」が名詞化した語)を得意として評判を得た京の初代坂田藤十郎がいます。藤十郎の演技は、後に和事(わごと:柔らかみを身上とする役どころ)と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれました。芳沢あやめ(初代)も京随一の若女形として評判を博しました。
なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述が散見されるのですが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はないようです(※3)。また当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではありませんでした。
狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いていました。後に近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えましたが、他の人形浄瑠璃作品と同様、彼の作品も後に歌舞伎に移され、今日においても上演され続けています。なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物(人形浄瑠璃、歌舞伎脚本の一種別。江戸時代の市井の事件に取材し、町人や農民など一般民衆が中心で劇を運ぶ作品をいう。歴史的な事件に取材し、武家や貴族などを中心とする時代物と対照されるもので、いわば当時の現代劇)が著名ですが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されませんでした。
作品面では延宝8年(1680年)頃には基本となる7つの役柄がすべて出揃いました。
基本となる7つの役柄
立役
女方(若女方)
若衆方
親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)
敵親仁方役
花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)
道外方(どうけがた)
また作品づくりにおいて、幕府からの禁令ゆえの制限ができました。正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられました。以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなります。
江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、延宝の初め頃(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰されました。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けました。
江島生島事件
江島生島事件(えじま いくしま じけん)は、江戸時代中期に江戸城大奥御年寄の江島(絵島)が歌舞伎役者の生島新五郎らを相手に遊興に及んだことが引き金となり、関係者1400名が処罰された綱紀粛正事件。絵島生島事件、絵島事件ともいう。
享保から寛政
歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保(きょうほう:1716-1736)年間から。享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になります。
これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になりました。また、享保年間には演技する場所として花道が使われるようになり、「せり上げ」が使われ始め、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めたようです。
宝暦(ほうれき1751-1764)年間の大坂では並木正三(なみきしょうぞう)が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にするなど、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われました。これらの工夫は江戸でも取り入れられることとなりました。
こうして歌舞伎は花道によって他の演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと発展していきました。
作品面では18世紀から趣向取り・狂言取り(「世界」の枠組みを踏まえながら、独自の工夫で脚色することを「趣向」と呼ぶ)の手法が本格化しました。これらは17世紀の時点で既に行われていましたが、当時は特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度でしたが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になりました。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによるものです。
また、この頃になると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言が誕生しました。
義太夫狂言
歌舞伎の演目には、大きく分けて義太夫狂言と純歌舞伎狂言があります。義太夫狂言とは、もともとは人形浄瑠璃のために書かれ、後に歌舞伎化された作品のことを指します。一方の純歌舞伎狂言は、はじめから歌舞伎のために書かれた作品です。現在上演されている歌舞伎の作品の中には、かなりの数の義太夫狂言が含まれています。18世紀の中頃、人形浄瑠璃が歌舞伎と比べて人気の高い時期がありました。そこで歌舞伎界では、人形浄瑠璃の作品を人間である俳優が演じることで、観客を増やそうと考えました。
このように歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになりましたが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という流れがありました。
延享(1744-1748年)年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれました。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ延享3年(1746年)、4年(1747年)、5年(1748年)でした。
またそれから少し遡る享保16年(1731年)には初代瀬川菊之丞(せがわ きくのじょう)が能の道成寺(どうじょうじ:能の演目)に着想を得た『無間の鐘新道成寺』で成功を収め、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げることとなりました。
その後、道成寺を題材にした舞踊がいくつも作られ、宝暦3年(1753年)には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されています。なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地でした。
宝暦9年(1759年)、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立しました。これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面です。その後、男が女を殺す場面につながることが多い。
文化から幕末
これまで歌舞伎の中心地は京・大坂でしたが、文化・文政時代になると、四代目鶴屋南北(つるやなんぼく)が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来します。南北はまた生世話(きぜわ:侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言)を確立して評判を得ました。
天保3年(1832年)には五代目市川海老蔵(後の七代目市川團十郎)が歌舞伎十八番(かぶきじゅうはちばん:天保年間に七代目市川團十郎(当時五代目市川海老蔵)が市川宗家のお家芸として選定した、18番の歌舞伎演目。当初は歌舞妓狂言組十八番(かぶき きょうげん くみ じゅうはちばん)といい、それを略して歌舞伎十八番といったが、後代になると略称の方がより広く一般に普及した)の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定しました。
その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革(てんぽうのかいかく:江戸時代の天保年間(1841年 - 1843年)に行われた幕政や諸藩の改革の総称で。享保の改革、寛政の改革と並んで、江戸時代の三大改革の一つに数えられる。貨幣経済の発達に伴って逼迫した幕府財政の再興を目的とした)による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、天保13年(1842年)に七代目市川團十郎が奢侈(しゃし)を理由に江戸所払いになったり、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町( 東京都日本橋人形町の旧名の1つ)・葺屋町(ふきやちよう:日本橋)・木挽町(こびきちょう:東京都中央区銀座の東部にあった地)に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外(浅草聖天町。丹波園部藩下屋敷を収公した跡地。現在の浅草六丁目一帯)に移転させられました。移転先の聖天町(しょうでんちょう)は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名されました。
しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花しました。
幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(河竹 黙阿弥:かわたけ もくあみ)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながってきました。
しかし江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(かわらもの:河原乞食・河原人とも呼ばれる。中世日本の代表的な被差別民の一種)として身分上は差別されていました。
明治から昭和初期
明治に入ると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの:明治期(1868年~1912年)以降の急激に変化する日本の社会の中で登場した制度、もの、職業などを登場させながら、新しい時代風俗の中で生きる人々を描こうとした作品群を「散切物」と呼びます。「散切」とは、月代(さかやき)を剃って丁髷(ちょんまげ)に結うのをやめ、髪を襟元で切って後ろになでつける、明治期初めに流行した男性の髪型のこと。この髪型は文明が開化した新時代の人々の思想を形で表したものでもありました。散切物は歴史上の人々ではなく、作品が書かれたのと同じ時代に生きる人々の暮らしや気持ちを題材にしていることから、大きく分ければ世話物の一種とされます。)が作られました。
これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていましたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえます。
しかし明治5年(1872年)になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が明治政府から出されてしまいました。政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(きょうげんきご:作り話)を廃止することなどを要求しました。
江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり、政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものでした。
1886年(明治19年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で、演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストらが参加しました。翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなりました。
こうした要求に応じて作られたのが活歴物(かつれきもの)と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎でした。
芝居の価値観が政府のそれと一致していた團十郎は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否しました。それに対して團十郎が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」(演劇で、役者がしぐさ・せりふを用いず、思い入れでその扮する人物の意中を表現すること)で、セリフと動きを極力減らし、「目と顔」による表現で演じ始めました。
こうした團十郎の芸は高く評価されながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみで、世間の人は評判がよくありませんでした。しかし團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていきました。
しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになっていきました。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものでした。
こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応され、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていったことが活歴の歴史的意義といえます。
劇場の面では、1889年(明治22年)に演劇改良会の会員であった福地桜痴(ふくち げんいちろう)が金融業者の千葉勝五郎(ちば かつごろう)と共同経営で歌舞伎座を設立。
歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」(だんきくさ)の時代をもたらしました。その後、経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収しました。
歌舞伎座は歌舞伎の歴史に様々な影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まりました。他にも歌舞伎の中央集権化、改良演劇の確立、歌舞伎演出の様式美化の促進といった影響があったことが指摘されています。
一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(後の明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)しました。また大正の頃の市村座では、六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築きました。しかしその後江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、1932年(昭和7年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰えました。
19世紀末になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場しました。これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演、「新しい観客の掘り起こし」によって成立した「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」でした。
松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれました。
それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていましたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになります。これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながっていきました。ほかにも岡本綺堂の『修禅寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名。
その一方では、従前からの梨園(りえん:中国・唐の宮廷音楽家養成所。日本では転じて、一般社会の常識とかけ離れた特殊社会としての歌舞伎俳優の社会を指す)の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに梨園での封建的な部分に反発して1931年(昭和6年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立されました。
第二次大戦後
第二次世界大戦の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われました。戦災による物的・人的な被害も多く、歌舞伎の興行も困難になっていきました。
終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止しました。1945年(昭和20年)11月15日、GHQは東京劇場上演中の「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段を反民主主義的として中止命令を出し、11月20日に上演中止となりました。
松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととしました。しかし、マッカーサーの副官フォービアン・バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、1947年(昭和22年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われました。
1950年代には人々の暮らしにも余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めました。1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始されました。同日、同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組『道行初音旅』でした。
一方でテレビ時代とともにプロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなっていきます。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まっていきました。
そのような社会の変動の中、1962年(昭和37年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復。役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。日本国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われました。
戦後の全盛期を迎えた1960年代から1970年代には次々と新しい動きが起こりました。
特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がっていきました。1965年(昭和40年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財(日本において、同国の文化財保護法に基づいて、同国の文部科学大臣によって指定された、無形文化財のこと)に指定され、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功しました。
国立劇場は高校生のための歌舞伎教室を盛んに開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出に努めました。
その後、大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増しました。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれた外連(けれん:歌舞伎や人形浄瑠璃で、見た目本位の奇抜さをねらった演出。また、その演目。早替わり・宙乗り・仕掛け物など)の要素が復活します。
猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、より大胆な演出を強調した「スーパー歌舞伎」(1986年)を創り出します。また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎らによる関西歌舞伎の復興などが目を引くようになりました。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられ、新しい形の歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではありません。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いています。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っています。
歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)無形文化遺産保護条約の発効以前の2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していましたが、2009年9月の第1回登録で正式に登録されました。
スーパー歌舞伎
スーパー歌舞伎(スーパーかぶき)は、三代目市川猿之助が1986年に始めた、古典芸能化した歌舞伎とは異なる演出による現代風歌舞伎。新橋演舞場などで上演されることが多い。第1作は梅原猛(うめはら たけし)の脚本による『ヤマトタケル』でした。2014年より「スーパー歌舞伎II(セカンド)」として、四代目市川猿之助を中心とした作品を上演しています。
水滸伝
すいこでん。明代の中国で書かれた長編白話小説。『西遊記』『三国志演義』『金瓶梅』とともに「四大奇書」に数えられています(※1)
内容
時代は北宋末期、汚職官吏や不正がはびこる世の中。様々な事情で世間からはじき出された好漢(英雄)百八人が、大小の戦いを経て梁山泊(りょうざんぱく:中国の山東省済寧市梁山県に存在した沼沢。この沼を舞台とした伝奇小説『水滸伝』では周囲800里と謳われた大沼沢であった。)と呼ばれる自然の要塞に集結。彼らはやがて、悪徳官吏を打倒し、国を救うことを目指すようになる。
登場人物
水滸伝には数々の豪傑たちが登場します。それぞれ天傷星・天狐星など、百八の魔星の生まれ変わりです。百八とは仏教で言う煩悩の数でもあり、除夜の鐘で突かれる数でもあります。
梁山泊
天魁星 宋江(そうこう): 梁山泊の三代目首領。綽名は呼保義(こほうぎ)。
天機星 呉用(ごよう) :梁山泊の軍師。綽名は智多星(ちたせい)。
天間星 公孫勝(こうそんしょう): 道術使いの道士。綽名は入雲竜(にゅううんりゅう)。
天雄星 林冲(りんちゅう): 槍の名手。中国で「教頭」といえばこの人のこと。綽名は豹子頭(ひょうしとう)。
天英星 花栄(かえい): 弓の名手。宋江の無二の親友。綽名は小李広(しょうりこう)。
天貴星 柴進(さいしん): 後周皇帝の子孫。綽名は小旋風。
天孤星 魯智深(ろちしん): 大力無双の破戒僧。綽名は花和尚(かおしょう)。
天傷星 武松(ぶしょう): 拳法の達人。綽名は行者(ぎょうじゃ)。
天暗星 楊志(ようし) :顔に青痣を持つ武人。綽名は青面獣(せいめんじゅう)。
天殺星 李逵(りき): 二丁板斧の使い手。斬り込み隊長。綽名は黒旋風(こくせんぷう)。
天微星 史進(ししん) :上半身に9匹の龍の入墨を施している。百八星の中で最初に登場する。綽名は九紋竜(くもんりゅう)。
天寿星 李俊(りしゅん): 水軍の総帥。綽名は混江竜(こんこうりゅう)。
天巧星 燕青(えんせい) :あらゆる事に通じる美青年。綽名は浪子(ろうし)。
守護神 晁蓋(ちょうがい): 梁山泊の二代目首領(新生梁山泊としては初代)。百八星には含まれていないが、死後、守護神とされた。
王倫(おうりん): 梁山泊の初代首領。落第書生で偏狭な人物。林冲らに悪人として粛清されており、百八星には含まれていない。
梁山泊の関係者
羅真人(らしんじん): 公孫勝の師で、強大な法力を持つ仙人。
王進(おうしん): 史進の師匠。元は八十万禁軍の教頭(武術師範)。
官軍、朝廷
高俅(こうきゅう): 殿帥府太尉。元幇間。蹴鞠・棒術などに通じるが、心のねじけた悪漢。
蔡京(さいけい): 宰相。朝廷の最高権力者で、花石綱や収賄で私腹を肥やす。
童貫(どうかん): 枢密使。宦官で禁軍の総帥。帝に媚び売る奸物。
楊戩(ようせん) :太尉。四姦の中では一番影が薄い。
慕容彦達(ぼようげんたつ): 青州知州。徽宗の妃の慕容貴妃を妹に持ち、それを笠に好き放題をしている。
梁世傑(りょうせいけつ) :北京知府。蔡京の娘婿で収賄に精を出す。「梁中書」とも呼ばれる。
蔡得章(さいとくしょう) :江州知州。貪欲で傲慢な性格。蔡京の第九子で「蔡九知府」と呼ばれる。
高廉(こうれん): 高唐州知州。高俅の従弟にして、強力な妖術使い。
宿元景(しゅくげんけい): 太尉筆頭。数少ない清廉な人物。
徽宗(きそう): 皇帝。政治に関心がなく、奸臣に朝廷を牛耳られている。
梁山泊の敵・市井の人々等
耶律輝(やりつき): 遼国王。宋国内の混乱に乗じて大軍を起こし、宋の併呑を目論む。
田虎(でんこ): 河北を荒らしまわる盗賊の首領。
王慶(おうけい): 淮南の反乱軍の総帥。軽薄な色男。
方臘(ほうろう) :花石綱に不満を持つ民衆と喫菜事魔を利用し、江南で反乱を起こした。
石宝(せきほう): 方臘軍の将帥。杭州、烏竜嶺にて梁山泊軍の前に立ちはだかる。
祝朝奉(しゅくちょうほう): 祝家荘の荘屋。三人の息子とともに、梁山泊を潰そうと企む。
曾弄(そうろう): 曾頭市の長。女真族で名を上げるため、梁山泊を狙う。
西門慶(せいもんけい): 悪者。豪商で作中屈指の好色漢。小説(二次創作)『金瓶梅』では主人公を務める。
潘金蓮(はんきんれん): 武松の兄嫁。絶世の美女で毒婦。『金瓶梅』のもう一人の主人公。
来歴
水滸伝の物語は実話ではありません。しかし14世紀の元代に編纂された歴史書『宋史』には、徽宗(きそう:北宋の第8代皇帝)期の12世紀初めに宋江を首領とする36人が実在の梁山泊の近辺で反乱を起こしたことが記録されています。講談師たちは12世紀中頃に始まる南宋の頃には早くも宋江(そう こう:北宋末の1121年に現在の山東省近辺で反乱を起こした人物)反乱の史実をもとに物語を膨らませていったと推定され、13世紀頃に書かれた説話集『大宋宣和遺事』には、宋江以下36人の名前と彼らを主人公とする物語が掲載されています。
15世紀頃にまとめられた水滸伝では、36人の豪傑は3倍の108人に増やされました。また、荒唐無稽で暴力的な描写や登場人物の人物像を改め、梁山泊は朝廷への忠誠心にあふれる宋江を首領とし、反乱軍でありながらも宋の朝廷に帰順し、忠義をつくすことを理想とする集団と設定され、儒教道徳を兼ね備え知識人の読書にも耐えうる文学作品となっていきました。
しかし反乱軍を主人公とする水滸伝は、儒教道徳を重んじる知識人にはあまり高く評価されず、もっぱら「民衆の読む通俗小説」として扱われました。その風潮の中で、明末の陽明学者で儒者の偽善を批判した李卓吾(り たくご:中国明代の思想家・評論家)が、水滸伝のような通俗小説を高く評価しました。同じ時期に「農民反乱を扇動する作品である」として禁止令が出されており、また清代には京劇の題材にとられ、108人が皇帝に従うという展開が西太后などに好まれました。
中国共産党では、「投降主義」的であると見なされ、降伏経験のある幹部や原則主義的な立場から見て妥協的であるとされる幹部への間接的な批判として水滸伝批判が行われました。1975年の毛沢東の名による水滸伝批判では、「宋江が前首領の晁蓋(ちょう がい)を棚上げして実権を握り、自ら首領となった挙句に朝廷に帰順したことが革命への裏切りである」として非難され、批判的に読むための連環画形式のものも出版されました。これは後に「四人組による周恩来批判であった」と解釈されました。
文化大革命が党によって全面批判された後は、このような政治的位置付けは行われなくなり、京劇の上演なども復活しています。
日本における受容
日本へは江戸時代に輸入され、岡島冠山により『通俗忠義水滸伝』として和訳され、広く普及しました。
19世紀には、浮世絵師の歌川国芳や葛飾北斎が、読本の挿絵や錦絵(にしきえ:日本の江戸時代中期に確立した、版元、絵師、彫師、摺師(すりし)四者の分業による、木版画浮世絵の形態)に描いています。
曲亭馬琴(きょくてい ばきん)が『新編水滸画伝』として翻訳を開始した際にも、挿絵は北斎によるものでした。馬琴は『椿説弓張月』や『南総里見八犬伝』にも水滸伝の構想を取り入れており、とりわけ『八犬伝』は影響が最も色濃く出ています。この他にも馬琴は、パロディである『傾城水滸伝』も書いています。
江戸時代後期の侠客((きょうかく:強きを挫き、弱きを助ける事を旨とした「任侠を建前とした渡世人」の総称)である国定忠治(くにさだ ちゅうじ)の武勇伝は、のちに水滸伝の影響を受けて脚色されました。
明
明(みん)は、中国の王朝。1368年から1644年まで存在しました。朱元璋(しゅ げんしょう)が元を北へ逐(お)って建国し、李自成(り じせい)軍による滅亡の後には、清が李自成政権と明の再建を目指す南明政権を制圧して中国大陸を支配しました。
白話小説
白話小説(はくわしょうせつ)は中国において、伝統的な文語文(漢文)で記述された文言小説(ぶんげんしょうせつ)に対して、より話し言葉に近い口語体で書かれた文学作品です。
歴史
白話小説として最も早期のものとして唐代の変文があり、宋代には口語を用い、娯楽的、勧善懲悪的な内容の説話が作られるようになりました。現在伝わる『三国志演義』は宋代に「三国志語り」が語った台本に加筆していき、明代に整理されて成立したものです。
明清代になると、数多くの白話による作品が作られ、江戸時代には白話小説を含む中国の俗文学が数多く日本に輸入されました。漢学者らは俗文学に対して排斥の態度をとりましたが、長崎の通訳だった岡島冠山(おかじま かんざん:1674-1728。江戸時代初期の儒学者。唐話に通じ、『水滸伝』などの白話小説の翻訳を行った)や荻生徂徠(おぎゅう そらい:1666-1728年。江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者)らが関心を示し、唐話学(当時の現代中国語)とともにその普及に努めました。その後、曲亭馬琴、上田秋成らに大きな影響を与えることになりました。
中華民国時期には陳独秀、胡適、魯迅らを筆頭にした言文一致運動()が興り文語文が使用されなくなると、小説の区分としての白話小説は消滅しました。
主な白話小説
三国志演義
西遊記
水滸伝
金瓶梅
以上4作を「四大奇書」と呼びます。
紅楼夢
清代の作品。中国では『金瓶梅』の代わりにこれを含めて「四大名著」と呼びます。
三言二拍
宋代から明代までの短編小説を集めた5冊の短編集の合称。
今古奇観
三言二拍から40編を選んだ選集。
参照
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