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世界の国々シリーズ(7) チェコ共和国

世界の国々を知っていくマガジン

ニュースに触れても世界の国々のことやその歴史を知らないでいるとほとんど理解できません。なのでまずは世界の国々のことを少しずつ調べていき、このマガジンにおさめていきます。世界には196カ国もあるみたいです。


チェコ

国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家。かつてはチェコスロバキアと呼ばれた共産主義体制国家の構成地域でしたが、1989年からの革命によってその体制が崩壊したことから、1993年にチェコとスロバキアへ分離して現在の同国が成立しましたNATO、EU、OECDの加盟国で、中欧4か国からなるヴィシェグラード・グループの一員

ヴィシェグラード・グループ

ヴィシェグラード・グループの参加国

ヴィシェグラード・グループは中央ヨーロッパの4か国(チェコ、スロバキア、ハンガリー、ポーランド※)による地域協力機構。ヴィシェグラード諸国、またはV4と呼ばれます。
※チェコスロバキアは、1993年にビロード離婚(チェコとスロバキアの両共和国によって1993年1月1日に実施されたチェコ及びスロバキア連邦共和国の連邦制解消)により分離しましたが、両国ともグループのヴィシェグラード・グループのメンバーとなっています。


どこ?

国土は東西に細長い六角形に近い形をしており、北はポーランド、東はスロバキア、南はオーストリア、西はドイツと国境を接しています。

正式名称

日本語:チェコ共和国
英語:Czech Republic
チェコ語:Česká republika

国旗

チェコの国旗

縦横比 2:3
制定日:1992年
使用色 :青、白、赤

チェコの国旗は、青、白、赤の三色(汎スラヴ色)を用いている。前身のチェコスロバキアの国旗を引き継いだデザインであり、1993年1月1日のチェコスロバキア分離(ビロード離婚)後も継続して使用されています。1918年からボヘミアの紋章に由来する白赤の横二色旗を使用していましたが、ポーランドの国旗と同じ柄である為、1920年にスロバキア、モラヴィアを表す青の三角を加えました。


国章

チェコの国章

チェコの国章は、国を構成している3つの歴史的な地域を表現しています。背景が赤色の、2つの尾の銀色のライオンの紋章はボヘミアの紋章であり、国章の左上と右下にあります。背景が青色の、赤と銀のチェック柄のワシの紋章はモラヴィアの紋章であり、国章の右上に位置しています。背景が金色の、clover stalk(kleestängel)という飾りを胸につけた黒いワシの紋章はシレジアの紋章であり、国章の左下に位置しています。チェコ共和国大統領府の旗には「真実は勝つ」(ヤン・フス)というチェコ共和国のモットーとボヘミア王冠領の紋章に使用された菩提樹の枝がサポーターとして付け加えられています。この紋章は、サッカーチェコ代表及びアイスホッケーチェコ代表のバッジにも使われています。

チェコ共和国現在の大統領府の旗。国章に「真実は勝つ(Pravda vítězí)」のモットーがあしらわれています。

独立

1993年1月1日:チェコスロバキア解体

政体

共和制国家

大統領

ミロシュ・ゼマン(Miloš Zeman)

ミロシュ・ゼマン Miloš Zeman


公用語

チェコ語

首都

プラハ(Prague)

国土面積

78,871km2/世界115位
※日本は世界61位で377,975.21km2

人口

10,701,777人/世界86位(2020年)
※日本は、126,860,300人/世界11位(2020年)

宗教

No religion (47.8%)
Christianity(11.7% )
   Catholicism(9.3%)
Other Christian(2.4%)
Others (1.2%)
No organized religion (9.1%)
No answer (30.1%)


通貨

チェコ・コルナ

GDP

2,415億米ドル(2020年、IMF)

一人当たりGDP

22,578米ドル(2020年、IMF)

経済成長率

-5.6%(2020年、IMF)

インフレ率

3.2%(2020年、IMF)

失業率

2.7%(2020年、IMF)

合計特殊出生率(2018年)

1.71(世界145位)
※日本は1.36で世界186位

合計特殊出生率(英:total fertility rate、TFR)とは、人口統計上の指標で、15~49歳までの女性の年齢別出生率を合計したもので、一人の女性がその年齢別出生率で一生の間に産むとしたときの子供の人数に相当します。この指標によって、異なる時代、異なる集団間の出生による人口の自然増減を比較・評価することができます。

ジェンダーギャップ指数

Score:0.706(世界76位)
※日本は0.652で121位
順位は高いほど男女差が少ない。1位はアイスランド。

ジェンダーギャップ指数(Gender Gap Index:GGI)とは、世界経済フォーラム(World Economic Forum:WEF)が公表する、各国における男女格差を測る指数(※5)

民主主義指数

Score: 7.74 =(世界29位)(2021年)
※日本は8.15で世界17位

民主主義指数とは雑誌『エコノミスト』が算出する民主主義の度数を示すもの。毎年更新。

Full democracies score 8.01–10
Flawed democracies  6.01–8
Hybrid regimes  4.01–6
Authoritarian regimes  0–4

幸福度ランキング

スコア:6.965(世界18位)(2022年)
※日本は、5.871で世界55位(2022年)

自殺率

10万人につき自殺する数:-人(2022年)
※日本は、15.3人

軍隊

予算:32.8億ドル(GDPの約1.28%(2021年))
兵力:24,900名
※ミリタリーバランス2021
徴兵制度を2004年で廃止し、職業軍人化

チェコ軍は、チェコ陸軍、チェコ空軍、および特殊支援部隊で構成されています。軍隊は国防省によって管理されています。チェコ共和国大統領は軍隊の総司令官です。2004年に陸軍は完全に専門的な組織となり、強制的な兵役は廃止されました。1999年3月12日からNATOに加盟。国防費は、GDPの約1.28%(2021年)。軍隊はチェコ共和国とその同盟国を保護し、グローバルな安全保障上の利益を促進し、NATOに貢献することを任務としています。


略史

9世紀 大モラビア帝国成立
10世紀 大モラビア帝国滅亡、ボヘミア王国成立
1620年 ハプスブルク帝国の支配下になる
1918年 第一次世界大戦後、チェコスロバキア共和国成立
1938年 ミュンヘン協定により、チェコスロバキア共和国崩壊
1939年 ボヘミア・モラビア地方はドイツの保護領に
1945年 第二次世界大戦後、独立回復
1948年 共産主義体制確立
1968年 「プラハの春」事件
1989年 民主革命(「ビロード革命」)により共産主義体制が終結
1993年 スロバキアと平和裡に分離・独立
1995年 OECD加盟
1999年 NATO加盟
2004年 EU加盟

プラハの春

プラハの春(Prague Spring)は、1968年に起こったチェコスロバキアの変革運動。ソビエト連邦軍主導のワルシャワ条約機構軍による軍事介入のみを取り上げた場合はチェコ事件という。

1956年のスターリン批判の衝撃は、ポーランドやハンガリーのように社会主義体制の危機を引き起こすほどではなかったにしろチェコスロバキアにも波及し、1960年代に入るとアントニーン・ノヴォトニー(党第一書記兼大統領)の統治体制は揺らぎ始めました。とくに、1950年代に猛威を振るった粛清裁判犠牲者の名誉回復問題、経済成長の鈍化に象徴される計画経済の行き詰まり、スロバキアの自治要求などをめぐって、ノヴォトニーに対する批判が高まっていきました。

1967年に入ると、第4回チェコスロバキア作家同盟大会において、パヴェル・コホウト、ミラン・クンデラ、イヴァン・クリーマといった作家たちが共産党への批判を行いました。また10月末には、プラハで学生が学生寮の設備をめぐる抗議デモを行い、党指導部がこれを警察隊によって鎮圧する事態に発展しました。それに加えて、党内においても、ノヴォトニーの国家・党運営に対して、スロバキア共産党側から強い不満が噴出。こうした状況下で、12月にブレジネフが非公式にプラハを訪れました。ブレジネフからの支援を梃子に、事態の収拾を図ろうと目論んだノヴォトニーでしたが、ブレジネフはチェコスロバキア共産党内の問題であるとして、積極的なノヴォトニー支持を打ち出しませんでした。結局、党内対立が解消されないまま開かれた12月の党中央委員会総会は、さらなるノヴォトニー批判一色となり、ノヴォトニーが兼任していた党第一書記と大統領職を分離する流れが固まっていきました。

1968年1月5日のチェコスロバキア共産党中央委員会総会において、スロバキア共産党第一書記のアレクサンデル・ドゥプチェクがノヴォトニーに代わって、チェコスロバキア共産党第一書記に就任しました。

アレクサンデル・ドゥプチェク、1968年9月

1月総会の結果、事実上、検閲が廃止されたこともあり、ノヴォトニー体制の中核を担っていた党幹部や閣僚に対する批判が高まります。2月には、国防省の幹部で、ノヴォトニーと懇意にあったヤン・シェイナ将軍がアメリカに亡命する事件が起きました。彼は公金の不正流用疑惑で捜査対象となっていましたが、同時に12月末から1月初めにかけて、ミロスラフ・マムラ将軍などと共謀し、ノヴォトニーの権力維持を目的とするクーデターを企てていたことが発覚しました。この事件は、マスコミにとって格好の話題となり、その論調の矛先は、大統領職に留まっていたノヴォトニーに向かいました。3月21日、ノヴォトニーは大統領職を辞任し、第二次世界大戦中の英雄であったルドヴィーク・スヴォボダが大統領に選出されました。

ブラチスラヴァ会談後、チェコスロバキアをめぐる緊張状態は、ソ連のマスメディアが改革を批判する記事の掲載を見合わせるなど、低下したように思われました。しかし、チェルナ会談の結果とされる「合意」内容の履行をめぐるソ連とチェコスロバキア間の見解の相違は徐々に明らかになり、ブレジネフは、9日と13日の2度にわたりドゥプチェクと電話会談を持ち、「合意」の実施を迫ったが、ドゥプチェクは9月の臨時党大会の準備を理由に、ブレジネフの要求に応える態度を見せませんでした。ここに至って、ドゥプチェク体制の下では、これ以上の改革の進展を阻止することは困難であるという認識が固まり、軍事介入によって、事態を打開する方策が採用されました。8月15日から8月17日の3日間にわたって開かれたソ連共産党政治局会議でチェコスロバキアへの軍事介入が最終決定され、翌18日、ウルブリヒト、ゴムウカ、カーダール、ジフコフをモスクワに招き、介入決定を伝え、承認を得る。

8月20日夜11時頃、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を突破し侵攻。チェコスロバキア全土を占領下に置きました。

国際社会の反応

ソ連のチェコスロバキア侵攻に関して、21日、アメリカ、イギリス、カナダ(UKUSA協定参加国)、フランス(北大西洋条約加盟国)の要求で国連安保理が招集されました。この四国にブラジル、デンマーク、パラグアイが加わって共同提出した「侵攻が国連憲章に反する内政干渉であり、即時撤退」を求める決議は、賛成10、棄権3、反対2の採決結果を見たが、ソ連が拒否権を行使したため廃案となる。またカナダは、国連事務総長がプラハに特別使節を派遣する決議を提起し、24日には、介入当日にユーゴスラビア訪問中だったハーイェク外相が国連で軍事介入を非難しました。しかし「モスクワ議定書」が締結された結果、チェコスロバキア側が議題を取り下げたことで、国連での議論は効果的な措置を講じることなく終わりました。他方、西側陣営、特にアメリカはドゥプチェク指導部による改革運動に共感を寄せつつも、具体的な行動をとることはありませんでした。その背景には、核拡散防止条約の調印や戦略兵器制限交渉の開始など、ソ連との関係改善に期待をかけ、チェコスロバキアに関わることで、こうした流れが中断される懸念がありました。またチェコスロバキアとの関係に関しては、当時アメリカが泥沼にはまっていたベトナム戦争において、チェコスロヴァキアが北ベトナムへの兵器供与国であったこともジョンソン政権が積極的支持を躊躇させる要因のひとつ。そのため、チェコスロヴァキアの状況よりも、予定されていたモスクワ訪問の行方に対する軍事介入の影響を気にかけたジョンソンの反応は、冷戦下のヨーロッパ分断状況、米ソの勢力圏に対する相互不干渉という暗黙のルールを示唆するものでした。

国際共産主義運動の分裂

共産党自身による社会主義体制の改革の試みが「社会主義の祖国」ソ連によって押しつぶされた事実は、「現存社会主義」に対する期待・希望を一掃することになりました。その結果、国際共産主義運動は分裂状態に陥いりました。フランスやイタリアの共産党などは、プロレタリア独裁を放棄し、議会制民主主義の枠内での社会主義理念の実現へと方針転換を図る、いわゆるユーロコミュニズム(Eurocommunism:欧州共産主義:中ソ対立などにより国際共産主義運動が多様化する中で1970年代に西欧(主にフランス、イタリア、スペイン)の共産党で趨勢となった共産主義の一潮流。暴力革命・プロレタリア独裁・民主集中制・分派禁止などの路線を放棄し、ソ連型共産主義と違う路線を選んだ)を掲げるようになりました。
中国共産党は、ソ連のチェコスロバキア侵攻を「社会帝国主義」ないし「覇権主義」と厳しく非難し、1969年には中ソ国境紛争に発展して、中ソ対立は修復不可能な状態に達しました。ソ連をより差し迫った脅威ととらえた中国は、この後、外交面では西側諸国との関係改善を模索することになります。ワルシャワ条約機構に加盟していたルーマニアのニコラエ・チャウシェスクはルーマニア軍の派遣を拒否してソ連のチェコ介入を公然と批判し、中国を訪問し、後のニクソン大統領の中国訪問を仲介して米中接近を支えました。こうした国際共産主義運動の動揺は、後述するように、冷戦構造の変容、すなわちデタントをもたらす下地を形成しました。
一方、キューバのカストロは、ソ連軍のチェコ介入については非難しつつも、共産主義体制維持については支持し、キューバ危機以来のソ連・キューバ間の不信感は払拭されました。

チェコスロヴァキア解体の芽

軍事介入によって改革目標の多くが頓挫する中、唯一実現されたのが連邦制の導入だったことは、少なからずチェコとスロバキアの間に亀裂を生じさせました。つまり民主化・自由化を犠牲にして連邦化という民族的利害の実現を優先させたという意識がチェコ人の改革派で持たれるようになりました。この意識は、スロバキア人のフサークが「正常化」路線を推し進め、改革派やそのシンパに対する弾圧を強化し、経済資源を重点的にスロバキアに配分し、その工業化を進めたことによってさらに強まりました。1977年に出された「憲章77」運動においても、その中心を担ったのはチェコ人であった。このようなチェコとスロバキアの政治主導層の認識の相違は、1989年のビロード革命後の移行政策をめぐる対立にも反映され、1993年の連邦解体につながる遠因となりました。

東欧革命に対する影響

また東欧諸国の異論派・反体制運動も、共産党による「上からの改革運動」が否定されたことから、党や国家とは別次元の市民社会に政治変革の拠点を求めるようになりました。この認識変化は、ポーランドの連帯運動、そして最終的に1989年の東欧革命に帰着することになりました。またこうした動きは、政治学における「市民社会の再発見」という学術的な貢献をもたらしました。

デタント

デタント(フランス語: Détente)とは、戦争の危機にある二国間の対立関係が緊張緩和すること。

参照

※1:Wikipedia


※2:外務省


※3:Wikipedia (English)


※4:人間開発指数

※5:ジェンダーギャップ指数

https://www3.weforum.org/docs/WEF_GGGR_2020.pdf



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