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「スラブ」って何?

スラブ人

スラブの衣装を着た女の子。ニコライ・ラチコフ

スラヴ人は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団です。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類。

北スラブ人:東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)

南スラヴ人:(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)

スラヴ人が多数派を形成する国々
濃い緑:東スラヴ人/明るい緑:西スラヴ人/深緑:南スラヴ人
CrazyPhunk - self-made - based upon: Image:Slavic europe.png, CC 表示-継承 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2116035による


歴史

言語の面では先史時代のトシュチニェツ文化が基層と推測されていますが、政治・文化面ではその後のルサチア文化チェルノレス文化プシェヴォルスク文化、ザルビンツィ文化、チェルニャコヴォ文化、デンプチン文化などの発展や混交の過程を通じて地方ごとに諸部族と各地それぞれの文化が形成されたものと推定されています。スラヴ語圏全体に共通する文化的な要素が希薄であるのは、このため。

スラブ地域の住民のほとんどは、北ヨーロッパと東の国への武器の製造と輸出に従事していました。

象眼細工の柄とブラトニツァからの他の発見を持つ剣。

ドイツとオーストリアでの発掘調査では、スラヴ文化に典型的な装飾が施された剣や鎧の要素が今でも発見されています。一部の東スラヴの部族は、広範囲にわたる農業と毛皮の動物の狩猟を行っていました捕鯨は、ポモール、オボトリート族、ラーン人などの北スラブの部族の間で開発されました

9世紀に入ると、農耕に適さず人口が希薄なパンノニア盆地の広大な草原に遊牧民のマジャール人が侵入、西スラヴ語群の諸部族が北と南に分断され、それぞれ北では西スラヴ語群、南では南スラヴ語群の諸民族が中世を通じ、形成されていきました。

スラブという名称

スラヴ全体に関する様々な学問をスラヴ学という。その語源となったスラヴ語本来の「スラヴ・スロボ」は、「言語」を意味するもの。

政治と文化

ボートでスラヴ人を燃やす異教の儀式
ヘンリク・シェミラツキ - lj.rossia.org, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2386223による

多くのスラヴの戦士がしばしばドイツ人とギリシャ人に雇われたことが知られています。スラヴ人のあいだでは、高貴な戦士の死体をボートで燃やす習慣が広まりました。後にこの習慣は、スカンジナビア人とバルト人にも伝播しました。

近隣のゲルマン人やローマ人の社会では、家族の女性は夫の奴隷と見なされ、軍事に従事することを許可されませんでしたが、スラヴ人には、男性と女性への分割の概念がありませんでした

スラヴ語の共通性を基盤とするスラヴ全体の共通性を強調する姿勢は、汎スラヴ主義と呼ばれ、国民楽派、第一次世界大戦と民族国家、旧東欧の概念などの重要な主体性となりました。

文化・宗教面ではスラヴ各民族ごとに異なる主体性を持っており、過去何度も繰り返されたポーランド・ロシア戦争のほか、近年では1990年代のユーゴスラビア紛争2010年代〜20年代のウクライナ紛争などのように血を流し合って対立する矛盾した面を持っています。

分布

ロシアとフランスの人類学者ジョゼフ・ドゥニケールJoseph Deniker)は、スラブ人を北方人種(ゲルマン人種といくつかのフィン・ウゴル人種と一緒に)に属するものとしました。スラヴ人の最初の祖先の家はバルト海の北にあり、そこからスラヴ人は現在のポリーシャ(北ウクライナ、南ベラルーシ、東ポーランドと西ロシアの間に位置する歴史的地名)の領土に移住したと考えられています。その後ヨーロッパ各地へと移住する過程で、6、7世紀頃まで言語としてある程度の一体性を持っていたものが、次第に東スラヴ人、西スラヴ人そして南スラヴ人といった緩やかなまとまりから、さらに各地のスラヴ民族を多数派とする集団へと分化していった歴史があります。移住先では元々の在来の住民と混交する形で言語的にも文化的にも、次第に現地住民を同化しつつ、在来の住民と相互に影響を与え合う形で発展していきました。特にトルコの支配を受けた南スラヴ人については、スラヴ人の移住以前からのバルカン半島の土着的な要素に加えて、オリエンタル地域に由来する文化も持ち合わせています。「ブルガリア」の名前は、中世のテュルク系遊牧民であったブルガール人に由来しており、ブルガール人は彼らが支配するドナウ・ブルガール・ハン国で多数派であったスラヴ人と同化してブルガリア人となりました。
一方、西ヨーロッパにおいても少数ながらスラヴ民族が現在も居住しています。特にドイツ東部においては、古来よりポーランドとの国境付近にはドイツ人とポーランド人との混血集団であるシレジア人を始め、エルベ川東部にもスラヴ系集団が居住し、現代に至るまでドイツ人との間で複雑な相克の歴史があります。現在もドイツ東部にはソルブ人が居住している。また中世以来の古い家系でありながらスラブ系やスラブ系由来の姓を持っているドイツ人は多数います。近代以降は、カナダに大量のスラヴ人が移住しています。彼らは英語化し、もとの母語であるスラヴ語を失っているものの、カナダ最大の民族はアングロサクソンではなくウクライナ人やポーランド人を基幹とするスラヴ人であるとされています。また、シカゴを含むアメリカのイリノイ州の住民は圧倒的にスラヴ系が多い

ロシアについては、歴史的に民族の行き交う十字路に位置しており、古代にはスキタイ人やサルマティア人、フン人そしてハザール人を始めとする遊牧民族、中世にはモンゴル人やタタール人らによる支配を経験しています。その後、ロシアが領土を中央アジアからシベリア、極東方面へ大きく拡大し周辺の諸民族を征服する過程で、これらの民族と言語的、文化的に混交、同化していった経緯から、ロシア人はコーカソイドを基調としながらも、東へ向かうにつれてモンゴロイド人種の特徴を含む人々も見られ、人種的に相当なばらつきがあるといわれています。


国旗

スラヴ人が多数派を占める国々の国旗には、赤、青、そして白色からなる配色による構成が見られますこの配色は、汎スラヴ色と呼ばれ、自由と革命の理想を象徴したものです。汎スラヴ色を国旗の意匠とする国々は、ロシア、チェコ、スロバキア、スロベニア、クロアチア、セルビアなどであり、南スラヴ族のモンテネグロ人を主要民族とするモンテネグロも2004年7月まで、汎スラヴ色を基調とする国旗を使用していました。また、同じ南スラヴ族のブルガリア国旗についても、青色の配色が農業を表す緑色に置き換えられているが、汎スラヴ色に分類されます。
ポーランドとウクライナは他国とは異なり、ポーランドの国旗は、かつてポーランド・リトアニア共和国として大国だった時代にコモンウェルスの軍旗として使用されていた紅白旗を一貫して用いています。正式には国章の白鷲が付く。ウクライナの国旗は空とウクライナの大地を表したものとなっています。


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