鹿田、夏の準備をする2

今日は2週間ぶりの出勤日だった。久しぶりだったのでいつもの仕事もそこそこハードで疲れたが、ともに久しぶりの充実感も味わうことができた。なにより、好天の下、ドライブできたのが良かったなー。やっぱり外の空気は格別にうまい。

そしてふと、巷はGWに突入していることに気づく。もともと4週8休で祝日関係なしの仕事なのだが、GWとなると日々の仕事とは変わるので少しばかり心浮かれるものがある。しかし鹿田は、2週間の休日を終えたばかり。たった1週間の連休がゴールデンなら、僕の過ごした2週間はダイアモンドかね、DW。なんて、高みに立って見下すことができる。

なんてひどい奴だ。鹿田です、よろしくね。

そして今日も土曜なので長時間の仕事1件をこなし、空白期間の事務仕事を終えて、今、一休みといったところだ。空き時間を有効活用し、帰ったらすぐフィットボクシングをできるようにね。伸びた日に心のゆとりがある。しかし少し寒い今日の気温に、ただでさえまだ連休の余韻が残る鹿田は、不安定な心地もある。事務所の暖房をつけるほどでもないが、1枚多くは羽織りたい。今朝少し集めの上着を着てきて正解だった。それと腹巻もね。しかし久しぶりの勤務、疲れがいつもより嵩み、厚着によって程よい冷気が消え去った今、今度はぬくもりから睡魔が顔を出す。

「やい、鹿田。つい先日までは俺とお前の仲だったのにどうした。今日は昼間一睡もしないじゃないか。貴様が眠らんと、おれの給料は下がるんだよ!」

そういう仲だったのならもうおさらば願いたい。そう思ってもだんだん疲れの浮きだって来る夕方界隈は、睡魔を遠のけることが難しくなる。しかも久しぶりの仕事だったのだ。そうだ、窓を開けよう。日の伸びた、まだ明るい空を見上げれば、眩しさに眠気は冷めるかもしれない。

そう思っては立ち上がり、近くの窓を全開にした。やはり想像通りの冷たい風が吹き抜け、身震いをする。そして自分の体を両手で抱きながら空を見上げる。薄紫の地平、だがそこからゆっくり見上げていくと、まだ、昼間の青が残っている。僕はそこでなぜか鼻頭をつんとさせ、涙が滲む。

(なんだ、なんだちゃんとあるじゃないか!…ぁ…)

もう寒さなんか忘れていた。僕は空を見上げることに集中して、視覚以外の感覚が自然と薄れた。間に合ったよ、まだ夏が生まれる前の、初心な空があった。見届けたかった。空気さえ冷たいが、それに混じるとっても透き通った夏のにおいだ。意識しないと気付かないほどの、生まれたての夏のにおいがちゃんとある。

向かいの焼き鳥屋の屋根が煙る。2、3人の客が並んでまっている。僕のおなかが鳴った。それもうれしかった。そして次第に傾く西日。青々しい雑草が薄い黄色に染まって光る情景。なにもかも、ちゃんとあるじゃないか。なにもかも。そう思っては口角が自然と上がるのを止められなかったし止めなくていいと思った。空を見上げて笑っている僕を、偶然歩行者が見つけて笑ったなら笑ったでいいし、僕はその方がうれしいと思う。人と人が集まることのしにくくなったこの時代だけれど、できないけど、忘れてはいけないことがある。飲まなくたっていいのさ、笑いたい、それだけだからね。

僕は田舎に育ったので、町を歩けばほぼほぼ顔なじみという状況だった。それで会う人会う人に「おはよう」、や「こんばんは」をいうのが当たり前だった。しかし街に出ればそうではない、出会う人が知り合いである確率は殆どない、と言っても過言ではない。そこであいさつすれば変な人、か、不審者になってしまうのだ。カルチャーショックだった。もちろん僕は、それ以来誰彼構わず挨拶することはなくなった。公園は別だ。公園はいわばコミュニケーションの場、と理解してくる人の方が多いわけだから、自然とお互い向かい合わば「おはようございます」「あついですね」くらいはする。

だったらね、町中ですればいいのにね。と、僕は思ってしまう。もちろんこのコロナ禍で、誰彼かまわず大きな声で挨拶しろと言っているわけではない。そんなの感染を広める以外の役割を果たさないことくらい、夏の馬鹿の鹿田でもわかる。でも、会釈くらいんらいいんじゃないかな?マスクをしていると表情が見えないというが、果たして本当だろうか?みなさんご存じ有名なことわざがある。

目は口程に物を言う

ね。口ほどにものを言うなら、会話になるんじゃない?

いわゆる非言語コミュ二ケーションという奴だが、知らず知らずのうちに、みんな昔からやってきたはずだ。『人は見た目が9割』なんて本も、昔はやったよね。

ほら、そしたら気軽にコミュニケーションできるんじゃないだろうか?もしかしたら今まで以上にコミュニケーションできるかもしれないよ。コロナ禍なんて関係ない。店に入って買い物をしたら店員さんに、にっこりわらって会釈をする。道端の人ともにっこりわらって会釈しちゃえばいい。ま、これも現代の性だが、知らない人に声をかけられることに対する、マイナスイメージが大きいことは仕方ない。それが事件につながる事があるからね。でもね、近所でいつも見かける人に、笑って会釈ぐらい、なんの危険性もないんじゃないかな?逆に、近所のみんながお互い会釈をする仲になってしまえば、防犯の役割も果たすんじゃないだろうか?ここをこの時間通るといつもあの人があるいてるなぁとか、より意識するようになるはずだし、それはもともとの挨拶運動に通じるところだからね。いいと思うんだけどなー。

結局人は属していたい生き物だから。仲のいい人といたいし話したい。しかしこのコロナ禍、それがなかなか難しい。

しかし、属するところが、増える。というメリットはないだろうか?いや、この話は全て休み明けに脳みそがフルスロットルした鹿田の、私見でしかないけれど。

ここに行くと、あの人が挨拶してくれる。あそこにいくと、あの人。あそこは夕方行くとあの人がいつもいるんだよなぁ。日々の場所場所で知っている人ができる。コロナ明けにはそれがもっと、濃密な人間関係に生まれ変わるかもしれないね。そもそも何かの実験で証明されている。

人は、会う回数が増えれば増えるほど、相手への警戒心はやわらぎ、信頼感や好意が増してく。という性質がある。

なんだっけ?たしか法則の名前があった気がするけれど忘れてしまった。興味ある人は調べてみてくださいな。単純接触効果、となんかカタカナの名前があったはず。

ま、最後にむりやり片づけるが、この通り、意外とコロナ禍コロナ禍と悲観しなくとも、今できることと、今やっておくことによって、未来につながること、が見えてくる。そうすると、すこし重い気分が浮き上がらないかなぁ。

確かに子どもたちは、その短い貴重な人生の時期を、かなり台無しにされているところがあるので、そこらへんは大変心苦しいし、そのほかにもきっと、今動かなければ取り返しのつかない事がある人も、多々いると思う。僕は何の専門家でもないので、そこを救えるなんてちっとも思ってやいないが、そうでもない、今、まだ余裕のある人たちが、前向きに考えていけたら。余裕を少しでも伝播していけたら。今は未来の準備期なんだって思えたら。


うおん、なんかまじめな話してしまったぞ。職場復帰で脳がヒートアップしているのだ。明日からは多分ただの夏バカにもどるよ。

じゃね!

かえってフィットボクシング頑張らねば!

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