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中学生と校則について考えてみた

先日、中学生と校則について考えてました。ほぼ中学1年生でして、入学して数ヶ月経って、夏休みがあってのこの時期にお話できてよかったと思ってます。

校則についてですが、子どもたちは明確には知らないようです。生徒手帳的なものに記載されているそうですが、詳しく説明を受けたわけでもなく、書いてなくても校則ぽくなっているものもあるとのことでした。

制服を着ている時間よりも、体操服やジャージを着ている時間の方が長いようでして、制服を着る意味な意味があるのか?そんな意見もありました。

では、校則をなぜ守るのか?
叱られるというよりも、守ることで評価されるからという要素が大きいようでした。

いわゆる、いい子が評価されるという好事、内申書の態度の要素です。
テストでの評価はわかりやすいですが、定性的な評価は基準がなく、校則や慣習といったものに基準をもとめているようでした。

このあたりで面白かったのは、「ルールを守ることがよい子の条件ではない」という発言があった点です。
その子はこうこのように話してくれました。「掃除をするのは自分がスッキリするから、自分にとって正しいと思うことをやっているだけだ。だからよい子なわけじゃない。」

ある子はこう言いました。
「校則を守れば評価される。奴隷でも作りたたいの?」
そもそものルールを守る意味が不明であったり、はっきりした説明もなく、いい子というよく分からない尺度で評価されているように感じる。学校行きたくなる子っていると思います。

中学生は評価されるということに、モロにさらされる時期、しかも小学校からガラリと変わる。このギャップも大きいようでした。

先生に反抗して嫌われて、嫌な思いをするくらいなら反抗しないそうです。
やりたいことやりなさい!と背中を押してくれる先生、たわいもない話ができる友だちもいるそうですが、この子たちが見ている世界には考えさせられました。

社会の授業で知らないことを知ると楽しい、数学で解けるようになったら楽しい。勉強はそういった楽しさだけではだめなのか?そんな話もでました。

この内申書での評価については、知っている子と知らない子がおりました。
知っているのと知らないのでは、差が出てしまうわけです。
このあたりもはっきり教えられたわけではないけど、何となく伝えられているそうです。
はっきりしないから、校則という、何となくはっきりしているように思われているものが威力を発揮するのでしょうか。話を聞いていると、過剰に守ろうとしているように感じました。
校則を守ることが目的化している世界。この構造は大人の世界にもあるわけでして、この構造が子どもの時から躾けられている。そのことには子どもたちを気づいているとのことでした。

こんな話をしていたら時間となりました。「次回は何を話してみる?」この問いかけからまた広がったのですが、その話は次の機会があれば。

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