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大黒屋光太夫と北槎聞略

三重県鈴鹿市にある大黒屋光太夫記念館

2017年撮影。カッパとともに記念館を訪れました。
記念館入り口で光太夫が迎えてくれます。(普段カッパはおりませんw)

大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は江戸時代(18世紀後半)の船頭です。

雇われて乗船した千石船「神昌丸」が嵐で遭難し、7ヶ月もの漂流ののちアリューシャン列島を構成する島の一つ、アムトチカ島に漂着。

たまたま現地に滞在していたロシア人や島民に助けられ、その後大勢の仲間を失うなど大変な苦労をしながらも数年かけてロシアを横断し、サンクトペテルブルクでエカテリーナ2世への拝謁が叶ったことでロシアの外交使節団の一員として日本に帰国を果たした人物です。

いわばロシア版ジョン・万次郎といったところでしょうか。
ジョン・万次郎ほど有名ではありませんが(多分)、それでもその波瀾万丈な光太夫の半生は、小説、映画、舞台、漫画などで繰り返し描かれています。
かく言う私は国立公文書館の企画展「漂流ものがたり」を見るまで全く知りませんでしたが。。😅

さて、「大黒屋光太夫記念館」で展示されていた資料で大変興味深かったのは、光太夫達のロシア語習得のきっかけとなるエピソードです。

此嶋に半年余りも居けれども、とかくに言語(ことば)通ぜざりしが、魯西亜人等(ども)おりおりに、漂人(ひょうじん)等が衣服調度などを見ては、エト・チョアといふ事、耳にとまりける。是はほしきといふにや、よきあしきといふにや、又はむさきなど笑ふにやと其心(そのこころ)を得ざりしに、磯吉思やう、何(いず)れもこなたよりもいふて見れば分かる事もあらんと、をりふし側(かたわら)に鍋の有けるをゆびさして、エト・チョアといひければ、コチョウと答えける故、さては何ぞと問事(とうこと)よ心得て、夫よりは聞(きく)ままに書記(かきしる)しける程に、言語(ことば)もよほどおぼえ、少しの事は弁ずる様に成りけるまま、以下略

岩波文庫「北槎聞略 巻之二」より

漂着後、半年経ってもロシア人と言葉による意思疎通が全く出来なかった光太夫達。時折ロシア人が自分たちの着物や持ち物を見て「エト・チョワ」と言うのが、「良い」なのか「悪い」なのか「欲しい」なのかも分かりません。

ですがある日、仲間の磯吉(彼は光太夫とともに帰国できた唯一の乗組員)が機転をきかせ、鍋を指さして「エト・チョワ(*1)」と言ってみたところ、ロシア人は「コチョウ(*2)」と答えました。
これにより磯吉は「エト・チョワ」がロシア語で「これは何ですか?」を意味することに気が付いたのです。

*1「エト・チョワ」:現在のロシア語「Что это?」とは違っていたようです
*2「コチョウ」:現在のГоршок(鍋)?

「これは何ですか?」が分かればしめたもの。その後は片っ端から「エト・チョワ」と尋ねまわり、意味の判明した単語を書き留めていったのでした。

これを端緒として光太夫達は次第にロシア語を理解できるようになっていきます。

とはいえ、現代なら学校の授業や書籍、テレビ・インターネット等ロシアやロシア語についての情報を得る手段はいくらでもありますが、時は鎖国真最中の江戸時代。

当時の船頭や船員達が辞書はおろか、全く予備知識のない状態で外国語を習得するのに、大変な努力が必要だったことは想像に難くありません。

名詞や「高い」「低い」「赤い」「青い」など見た目でそれと分かる形容詞はまだしも、「悲しい」「嬉しい」といった感情の表現や「勇気」「安全」などの抽象的な概念はどうやって理解出来たのか。大変興味あるところですが、『北槎聞略』では彼らのロシア語習得の過程については上記のエピソードが記載されているのみです。

さてこの「北槎聞略(ほくさぶんりゃく)」とは蘭学者の桂川甫周が幕府の命を受け、大黒屋光太夫らから聴取した内容をまとめたものですが、漂流の経緯はもちろん、ロシア帝国の言語、風土、文化、宗教に加え、学校や病院といった社会インフラから娼館の風俗にいたるまで、非常に詳細かつボリュームのある見聞録となっています。

国立公文書館に保存されている北槎聞略の写本
左:岩波文庫の青帯本。右:国立公文書館デジタルアーカイブより。

北槎聞略には現代語訳がなく、岩波本も文字表記は現代の表記に改めつつ文体は当時のままとなっているため、少々わかりにくい表現もありますが、それでも異文化と遭遇した光太夫達の驚きと興奮がビビットに伝わってきます。

先述した「エト・チョワ」のエピソード以外にも、

チャプチャといふ乾魚と白酒の如き汁にタラワの実を入たるを錫の鉢にもり、熊手のごときものと小刀大匙を添て出しける。熊手は箸の代に用いるものにて(中略)。翌朝は麦の焼餅と件の汁を桜の木の巻合(まげもの)に盛りて与ふ。その汁甚(はなはだ)甘美にて昨夜のものより濃し。されども何物共(とも)知らず(中略)老女はやがて牛の腹の下にくぐりて件の桶へ牛の乳を絞るに(中略)。彼(かの)白き汁は此物なり、名をばモロコといふ。(中略)磯吉は是を見て、穢はしき事と思ひ、残りの者どもへも言聞かせ、其後は同船の者絶て汁を飲まざりしとなん。

岩波文庫「北槎聞略 巻之二」より。※一部旧漢字を現代の漢字に変更しています。

「白酒の如き汁」とは牛乳。「熊手のごときもの」はフォーク、小刀大匙はナイフとスプーンで、パンを「麦の焼餅」と表現していますね。ロシア本土の家にて供された西洋風の食事に興味津々の光太夫の姿がありありと目に浮かびます。加えて「こりゃうめえ」と食していた牛乳の正体を知った彼らの反応が面白い(笑)

巻之八から巻之十は光太夫がロシアで目にした物産や動植物について記述されていて、その中からごく一部ですが紹介します。

彼邦(かのくに)にては、浴(ゆあみ)後直(すぐ)に襦袢を着居て身を乾し、其儘(そのまま)に衣服を着る也。光太夫持合せたる浴衣を着たるを見て甚感心し、皆々俄(にわか)に浴衣を製したるよし。魯西亜に浴衣ある事は光太夫より始まりしなり。

岩波文庫「北槎聞略 巻之九」より。

光太夫の浴衣姿を見たロシア人達が「ほう〜ええやんか」と次々に浴衣を作り始めたとあり、桂川甫周の聞き取りに「ロシアの浴衣は俺が流行らせたんだぜ(フフン)」と得意げに語る光太夫を想像してしまいます。(笑)

葉は狭長(ほそなが)にして厚く、薊(あざみ)の如く刺(はり)あり、地より叢生す。葉中に茎を抽(ぬきんで)、花なくして実をむすぶ。大きさ拳の如く色黄にして鱗甲(うろこ)あり、状(かたち)松毬(まつかさ)のごとし。実の中心より又茎を出し葉を生ず。(中略)其実三年にして始めて熟す。味甘酸にして極めて美なり。本国もっとも貴重し、一根の価(あたい)銀十五、七枚、皆都爾格(トルコ)より致す処なり。

岩波文庫「北槎聞略 巻之十」「アナナス」の項より。

わかりました?そうです、アナナスとはパイナップルのことでした。
当時大変珍しく高価なパイナップルを口に出来た光太夫は、かなり厚遇されていたことが分かりますね。

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船頭という仕事柄、元々読み書きとマネジメントの能力はあったはずですが、北槎聞略を読めば読むほど、光太夫の優れた観察眼と、旺盛な好奇心、そして記憶力の高さには驚かされるばかりです。
煙草と帳面を離さなかったと言いますので、文字通り几帳面な男だったのでしょう。

ちなみにロシアにも残っていない貴重な資料が含まれていることから、その価値が認められ、1970年代には旧ソ連科学アカデミーから北槎聞略のロシア語版も刊行されています。

北槎聞略「魯都図」 国立公文書館デジタルアーカイブより

光太夫が帰国時に携えてきた世界各地の地図と彼がもたらしたロシアおよび西欧の国際情勢は、幕府にとっても貴重な情報でしたが、それゆえに「北槎聞略」は機密文書として扱われ一般に知られることはありませんでした。

北槎聞略「地球全図」 国立公文書館デジタルアーカイブより

また、鎖国下にあってロシア情報の漏洩を恐れた幕府によって、光太夫と磯吉は事情聴取が終わっても故郷に帰ることは許されず、江戸の小石川にある薬草園内に邸宅を与えられそこで余生を過ごすことになります。(外国船来航の際に通訳として活用する目論見だったとも言われています)

ただ、近年新たに見つかった資料によって、一度だけですが帰郷が許されていたこと、家族が江戸の居所を訪ねてきたことがあったこと、大名や蘭学者にたびたび招かれてロシアの話をしたりロシア語を教えるなど、比較的自由に過ごしていたことが分かってきています。

一方、漂流民を外交カードとして日本と交易開始交渉を望んでいたロシアは目論見が外れ、光太夫達を送り届けたラクスマンは目的を果たすことなく帰国することになります。

もし田沼意次が失脚せず、日本とロシアが交易を結ぶことになっていたら、光太夫達もジョン万次郎のように華々しく活躍していたかもしれませんが、これはもう歴史のあやとしか言えないでしょう。

<終わり>

参考1:国立公文書館デジタルアーカイブ
北槎聞略の全ページが画像化された状態で閲覧することが出来るようになっています。

参考2:光太夫が描かれた漫画

「大黒屋光太夫」さいとう たかを

参考3:小説「おろしや国酔夢譚」(1974年。井上靖)

参考4:実写映画「おろしや国酔夢譚」(1992年。主演:緒形拳)

参考5:小説「大黒屋光太夫」(2003年。吉村昭)

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