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BLUE GIANT

先日、映画「BLUE  GIANT」をアマプラで観た。

漫画を読んだ事はなかったが、作品自体は知っていた。非常に話題作だし作者は行きつけのBARの常連さんでもあるから少し親近感があった(場所は言いません)。

観ている最中、音楽好きの自分としては迫ってくるものがあり数回泣きそうになった。また同時にコレはIMAXシアターぐらいに音響が整っていないと本当のポテンシャルは出てこないと思った。音楽モノだから余計に。

スマホやタブレットで映画が手軽に楽しめる時代にあって、映画の底力を感じさせた。いや、正確に言えば映画の「底」ではなく「天井が高くなった」と言った方がいい。映画館でこそ、それは再生される。

スマホを通して手のひらで再生される未来を映画は見越して、可能性を広げてきた。ビジネス的に言えば差別化とか独自化と言い換えてもいい。けどニュアンスはあくまでも「今までを突破する」という意味合い。

物事が形骸化したり、悪い現状を信じなかったり、臭いものに蓋をしたり、既得権益だけを守ったり、思うにこれは日本人が先の戦争で多くの犠牲者を出した原因である事からも「言っちゃいけない」という性質が日本人にはある。変えたくない、変わりたくない、信じない。本当の事を言えば非国民で村八分ですからね。

そういう性質を「映画」はちゃんと越えようとしている。これには色んなヒントがあると思うのは自分だけじゃないと思う。座して死を待つのか?


【生きる】

音楽の真骨頂はライブにある。

生きる、住む、生活、そういった意味がある「LIVE」という言葉を演奏会に使用する様になったのには何か本質的な繋がりがあると考えて良い。「音楽」と「生きる」ことはどこか繋がっている。

ライブの必要条件は演奏者と視聴者が同時に一つの空間にいること。これは僕の定義。

「生」の音にはデジタル音源にないモノがある。それが人を熱くさせたり感動させたりする。

「可聴音域」を越えた音が人の無意識に働きかけるのかもしれない。デジタル音は可聴音域以外はカットしていますからね。また「大音量」で振動した空気で音楽を浴びる様に全身で感じるからかもしれない。また一つの空間にいる人々と同調する繋がりを感じるからかもしれない。またデジタル音源とは違う不確実性がある生音が良いのかもしれない。時に音源より最高の演奏やミスタッチも含め。

音楽を聴くだけならスマホだけでも十分なのだけど、そうはならないのは、やっぱり「ライブ」が「生き物」だからで間違いない。


【やりたいからやる】

この映画では「一つのバンド」をトリオのメンバーひとりひとりが別々の思いを持って向き合っている。

「やりたいからやる」それで良いんだと思う。何事も。

意味を考え過ぎる、意味をつけたがる、意識中心社会。それが今の中心なんだと思う。意識できないものは「無い」事にされる。けど人間は無意識が大半を占めている。動物はそんなこと考えない。人間は動物だ。

だから「音楽」がある。

やりたいからやる、心がそれを求めている。
誰かに決めてもらうものじゃない。

自分の心が正解だ。

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