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多様性。

「何か」にその人自身が表れているという事は、しばしばある。

多分これ接客業や営業をやっている人だと何となくわかると思う。

商談する相手。その人の服装や、話し方や、使っている靴や小物の色や、その痛み具合や傷や、人を見るときの目や声色、気を抜いている時の後ろ姿や表情、歩き方や座る場所やその姿勢、書く文字や、色々。

そういう具体を見て、その人物を推察しながら言葉を組み立て商談するという事は意識的でも無意識でやっていると思う。

そういう事の地続きにもう一つ「庭」があると思っている。家の庭のこと。

現代の家は庭と言ってもどれも画一的で差がなく面白味がないからあまり分からないかもしれない。しかし一昔前の「庭」とはそこの住人を表す一つのバロメーターの様になっていたと思う。

庭は人で例えるなら「顔」だからだ。

よって庭が荒れていたら家の中の「人」が荒れている。それは家族関係かもしれないし体調かもしれない。だから心配になれば周りの住人が声をかける事もできる。

また目隠しの木や塀が高く庭を見ることができない家の住人はどこか謎めいた人という印象を周りは持つし、その住人自身も知られたくないと思っていると考えて間違いない。だから深く入り込まない方が良かったり。

またあまりにも綺麗に整い行き届いた庭は美しい反面どこか人の目を気にしすぎている様な息苦しさに近いものを感じたり。見栄に重きを置いているかもしれないし単純に几帳面なだけかもしれない。

ともかくそれぞれの庭からそこの人物が見えた。そんな気がする。

しかしながら今の家はどれも見た目が同じ。つまりみんな「同じ顔」をして生きている。だからどんな人が住んでいるか分からない。それはそれで少し怖い気もする。

けどまたそれを人が望んできたとも言える。だから同調圧力の成れの果ての様な気もするし、怖いものは見たくない見せたくないという蓋をする日本ぽい文化の発展の様な気もする。元より庭なんてない家も今は多い。

一昔前は「個性」
現代は「多様性」

そう言い続けている世の中は物理的にどんどん画一的になっている不思議。いや、画一的になっていく事が決まっている事実だからこそ個性や多様性と声を上げているのかも。

今回の記事に結論はない。その結論が出るのは未来。

未来の人は無事に多様性や個性を手にしているか?


画。自分の理想の「庭」








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