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2020年のガンジー

年の瀬には1年を振り返りたくなるのが人の世の常なのだと。わたしもこうして久しぶりにnoteを書いています。今日は12/31。今年の365日目。


記憶にインプットされた両親の背中


半年ぶりに実家に顔を出して、今日は父親と買い物に行った。4.5年前に、父も母も心労でだいぶ痩せてほっそりした。父は昔から履いているコーデュロイのチノパンの生地がだいぶ余っていることに気がついているのだろうか、、、お菓子売り場から生魚売り場の通路越しに25m先でも、背格好で父だと分かった。今も痩せた体重が戻らないから相変わらずだいぶ痩せてるけどやっぱり分かる。

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おとといは母と同じスーパーに買い物に行った。わたしの実家は都心に比べたら人口も少なくて、家族連れのお客さんや、総じて年齢高めのお客さんが多い。この日、お母さん世代のお客さんのダウンジャケット率がおもしろいくらいに高かった。首に巻いたマフラーを皆ジャケットに仕舞い込んで首が詰まるくらいチャックを上げて着込むし、おまけに今はマスク姿。でもやはり大晦日前の混雑したスーパーでも母を見つけ出すことができる。

年と共に少しずつ背中は小さくなれど小さい頃インプットされた両親の姿はなかなか変わることがない。

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両親に限らず兄弟もまた然り。この1年、身の回りの飲食店のサービスや、旅行の在り方が変わった。テレワークができるようになり残業も減ったので、家で夜ご飯を食べ今日のうちに寝ることが当たり前に変わった。そうすると、環境の変化は見え方の変化にもなる事を実感した年だった。きっとこちらで働く兄にも、もっと遠くで暮らす妹にも、おそらく変化があっただろう。


家族も人、なんなら他人


それなのに、思い出す兄の記憶は、ビクビクするわたしを連れて、虫取りカゴ片手に夜の神社にカブトムシを捕まえにいく絵だし、妹はレシピを片手にとんでもなく美味しいご飯を作って、家族に食べてもらってエヘヘと笑う絵だ。

父はいつまでもあのコーデュロイのチノパンを履き、歩いて仕事場まで通う父だ。

母は、ユニクロのフリースベストにエプロン姿で台所に立っている母だ。

でも絶対彼らも変わった。

わたし1年前はまだ、家族の在り方に理想をたくさん求めて自分の中の理想の家族像に辿りつかないことに焦って凹んで落ち込んでいた。でも見方を変えると、家族を構成するのが人なのだから、その人々が変わっていくのは止めようがないのだから、在り方が変わる事が当然なのだ。固執しないで、ゴールも作らない。家族でさえ豪に入れば郷に従えのスタンスがいい気がした。

変わるものを認める。認めるって、言うを忍ぶと書くのだから、口を出すのを辞めて、ただそのものを捉えて受け取る。認める事は時に、哀しかったり、想像が必要だったり、我慢が必要だったりする。一方で、認めたら物ごとが進んだり、相手を応援できたり、見守る事ができたりする。

きっとこれからたくさん世の中は変化していくんだろう。今年は日本にもアメリカにも新しい首相生まれ、成長した企業の銘柄も変わった。人がお金をかけていくものがもっと、ものではない無形サービスになっていったりする。気がする。


来年の欲(笑)


マザーテレサのように慈愛の精神の塊のような人に憧れるのだけど、到底そんなことはない。仕事で疲れた帰りの電車では座りたいし、焼肉を食べに行った時は、焼き係と称してちょっと大き目のお肉を自分の皿に盛ったりする。そんなちっちゃいわたしなのだけど、この家族と今の仕事や関わり合う人を、自分の事も愛したいと思う。

be the change 

変化を待つのでも、変化を起こすのでもない。ガンジーの言葉で「変化になれ」と言うらしい。変化そのものになることってどんな事を言うんだろう?どんな時代に生きていようとも不変な言葉な気がする。こんなガンジーの言葉のように、変化になろうとする人を見守り、わたしも新たな世界を見ていこう^^




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