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仙崖と霊界ヌ〜ボ〜♨️

背表紙と音楽の奇跡的出会いはミシンと洋傘との手術代の上の、不意の出会いのように美しい、、はずだ

 
 筆者は好きなものの関連を探すのが好きです。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた互いの美学を紐解いて新しい解釈がしてみたい、と常に思っています。

では、ウォームアップにこちらから。

人間には二つある。善と悪だ。死体には二つある。屍かキョンシーだ。

霊幻道士

人生には二つの生き方しかない。奇跡などないように生きるか、全てが奇跡であるかのように生きることだ。

アインシュタイン

 今この瞬間、全て奇跡。機嫌がいい日はそう思えます。機嫌が悪い時はキョンシーになります。
 生と死を二分割する発想が天国と地獄ではなく、奇跡、の方にシフトする考え方って素敵だと思います。二項対立からの止揚。

 ところで宇宙物理学と禅は親和性が高いそうです。物理は全然わかりませんが、最近の量子物理はたくさんある、とか仏音でいるところ(変な宛字で御免なさい)が人間っぽくて好きです。
 しかし、禅は一つだ、の方に収斂していて自分は一つの方が有難い気がしています。どちらにせよ、太陽が地球を回っていても、地球が太陽を回っていてもそう生活が変わらなかったのと同じように筆者に直接関係ないわけですが。


仙崖 と ロック


仙崖の丸三角四角 中山喜一郎著
ブックデザインもイラストも中山さんが手がけていらっしゃるようです
要所を物語る名デザインでうっとり
仙崖ベスト100 出光美術館
仙崖のコレクション質・量共に日本随一の出光美術館編・著
やはりこの布袋さんはコレクション1作目で代表的なんでしょうね

井上ひさしの言葉「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」

井上ひさし

筆者は仙崖の禅画はこの言葉を体現しているな、と思います。

ただ、仙崖さん、つい最近知ったばかりで、、
遅ればせながら(三百年くらい)とても人気らしいですね(汗)

この絵の作者、仙崖義梵は江戸中期(1750~1837)に活躍した禅宗の高僧だそうです。庶民に伝わるような愛らしい禅画で広く親しまれておられます。

禅宗には言葉では仏の教えは伝えられない!

という意味の「不立文字」という考え方があるそう(倫理で聞いたことあるかも)それに基づいて絵で表現したのでしょうか。


丸三角四角


これくふて茶のめ

あれは仙崖の看板みたいなものだからな 辻唯雄

解説書を読んでおりますと、こんな一文がありました。

身近なもので例えれば温泉のマークが書かれていたり、「ゆ」と書かれていたりする風呂屋の暖簾のようなものである。

仙崖の丸三角四角 中山喜一郎(p166)


暖簾?


地獄の連想ゲーム

 筆者は八十八ヶ所巡礼という親孝行スリーピースロックバンドをよく聞いており、来年は日比谷野外音楽堂でもライブがあるということで凄いな〜と思っております。

 この曲に限らず、八十八ヶ所巡礼の楽曲は仏教思想や神道に基づく宗教観、憂国の思想、浮世を憂いつつも聴衆を励ます歌詞が多く見られます。筆者にはかなり難解で、MCで聞く「目ェ醒めてますか!」以前に正しく理解しているか謎のままです。
 ですので、今回は仙崖から解釈していこう、という挑戦です。

霊界ヌ〜ボ〜♨︎ はアルバム『◯△□』(2012)に収録されている楽曲です。
以下は歌詞の一部です。

◯は△ ◻︎は豆腐 
まるで錯覚のように 視覚は飛ぶ
◯は△ ◻︎は豆腐 ◯と△のように 死界へ飛ぶ
あ、クリアランス  クリアランスに浄化して
あ、クリアランス  クリアランスに浄化したい
あ、クリアランス  クリアランスな気持ちで
あ、クリアランス  クリアランスに誰か消して
ねぇ

アルバム『◯△□』より  霊界ヌ〜ボ〜♨︎

霊界ヌ〜ボ〜♨︎って何


♨︎マーク ◯△□、
Beaujolais Nouveau 
地獄先生ぬ〜べ〜
ヌーボー
(抜けてぼうっとしている様子を外国語に託して言ったもの)動作や顔つきなどがつかみどころのないさま。
…わからなさがそのまま音になった感じがとても粋な曲だと思っています。
筆者はお風呂に入って「極楽極楽」って言ってたら排水溝に流されて霊界に行ったらどうしよう、みたいなイメージしか浮かんでこないんですよね。


MVも掴みどころがない

・水面とカポーンという銭湯の音
・◯△の次に六芒星(宇宙からのエネルギーを得られる印)
・寅の刻(霊界の扉が開く時間?)
・宇宙と書いてある紙、神を喰って覚醒
・大きくなったり小さくなったり(不思議の国のアリス反応)
・時間感覚や空間感覚の変異
・クリアな三角柱(上から見ると三角 横から見ると四角な視覚)
・牛(ピンクフロイド『原子心母』水の音は入ってた気がする?)
・コルナポーズ(ケンタウロス?悪魔崇拝?メタル?)
・柱時計、荒野と海(寺山修司連想)
・トイレに流す(滝のメタファー?水に流す?禊?)
・切れ味の悪そうな包丁で材料を切り刻み混ぜる!(宇宙食?)

などなど 拾いきれません。

(メモ)アメリカのヒッピーや神秘主義的な人たちは禅と称してLSD等の薬物を神聖視してましたね、ビートニクというかバロウズの「裸のランチ」や中島らも「アマニタパンセリナ」、結構離れますがアルトーの「タラウマラ」などを読んでると人間面白いな、って思います。自失するために頑張っているのに、個性大事!みたいな矛盾もカウンターカルチャーの面白さだな、と思ったり。またこの辺は考えてみたいです。

寺山修司 時間認識と言葉

人は「時」を見ることはできない。見ることができるのは「時計」なのである。

寺山修司の仮面画報


売りにゆく 柱時計が ふいに鳴る 横抱きにして 枯野ゆくとき

田園に死す

MVで出てきた時計はそんな感じのことを言いたいのかな?と邪推しました。

◯とは無限であり、全ての土台である。しかし、無限とはそれ自体に形はない。果てがない。ところが我々人間は形あるものを求める。感覚と知性がそうさせる。それゆえ△となる。△は形の始まりである。端がある閉じられた図形の最初である。□とはこの△が二つ合わさったものである。三角が合わさっていく過程は無限であり、そこから万物が生まれる。したがってこの図は宇宙となる。

鈴木大拙(『SENGAI』1971/ferber and ferberlimited 中山喜一郎訳)

この引用を裏付けている考え方が、「言語が時間的認識を生んだ」というものらしいです。(『存在と時間』あたりにヒントがありそう。)

そういえば、京極夏彦さんが『地獄の楽しみ方』の第一章『言葉の罠にはまらないために』で「言葉がカオスをコスモスにする。言葉はデジタルで欠損している存在であり、意味の過剰を呼び込む。また、人間は言葉を発明したことにより時間という運動・変化を捉えた」という趣旨のお話をされていました。(確かに今こうして色々な方々の言葉を引用しつつ何かを理解しようという試みも言語の不確実性が生み出しているのでしょう。)

だが、不立文字カモン!


丸は悟りまたきてお月様

ここからの話は前述の『仙崖のまるさんかくしかく 無法の禅画を楽しむ法』を元に進めます。(実際に読んだ方が確実ですのでどうぞ話半分で読んでください。)

丸は完全な図形。欠けることのない満ちた形です。

この世をば我がよとぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば

藤原道長

満月の丸さはよく比喩的に使われますが、仏教的には円は悟りの象徴だとか。仏道を志すものは誰しも悟りたい。(そのための厳しい修行です)

しかし、悟りを開いたものは悟りへの執着さえ手放す必要がある。だからこそ、円をお饅頭に見立て、「これ食ひて茶飲め」。食べたら、無くなりますものね。

しかし、「丸三角四角」に至っては説明文(画賛)が無い。これは、実は答えを示す絵ではなく、悟りを開いた仙崖が自身に「悟り、分かるとは何か」を問いかけたものではないか、と中山喜一郎さんは書かれています。以下、引用です。

悟りとは、何事にも捉われない自由な心の状態であるということができる。ところが、悟った、という自覚が生じれば、今度はその悟りにとらわれる。悟りが不自由を産む。そこで、それを消してしまわなければならないのである。

仙崖の丸三角四角 中山喜一郎(p.138)

「◯△□は3段ロケット 宇宙の始まりまで、最初の最初あるいは最後の最後までをわかる悟り。それをおでんみたいに食べてなくしてしまおう。」

指月賛画

「そうか、あんたにも月が見えたか。なら、月はもうあんたのものだ。だから、ここにはもはや月はない。月は落っこちてあんたが手に入れたからだよ。よかったね。月はあんたが隠したのだ。そうそう、手に落ちた月のことなどは忘れてしまいなさい。忘れてしまえば、もはや月はあってもなくても同じこと。たのしいだろう。一緒にこの自由を笑おう」

仙崖の丸三角四角 中山喜一郎(p.98)

とにかくライブ行きたい

妄想

この曲の主人公は「死んだらどうなるのか」という人間特有の悩みを抱えている。

考えすぎておかしくなりそうだ。もう、いっそのこと霊界にその答えを求めよう。今日はヌーボー(抜けてぼうっとしているような)霊界の収穫祭(NOUVEAU)だ。悟りのための宇宙旅行にはうってつけの日。それは精神的な旅行(トリップ)。霊界のゲートが開くのは寅の刻の3時。床一面に書いた六芒星で宇宙の力を借り、魔術的な存在を引き寄せよう。準備は整った。そこに仙崖みたいな禅問答をしている天界の小間使いが来て、◯△□の暖簾をくぐらせようとしてくる。なんだろう、この世界は。なんだか宇宙の全てがわかったような気分だ。この鮮やかな視界。さよなら三角、また来て四角。言葉遊びの一つや二つが出てくるくらいハイな気分。しかし、これで悟ったと言えるわけではなかろう。まだ自分が形だけこの世に残っている。もしや、それが死なんだろうか。わかってしまった気がする。でも、わかる、って一体なんだろう。それもわからない。だが、それこそが答え。まあ良い。これくふて茶(緑茶ハイ)飲め。自分自身を滅することだけに集中しよう(泥酔)。

茶々いれつつ、そんな歌なんじゃないかな〜なんて妄想したわけです。

この広い宇宙で生まれる時も死ぬ時も一人、の孤独感を真摯に受け止めた主人公がサイケ調のニュアンスで深刻になりすぎないように気遣いを込めつつ表現した「実存への問い」なんじゃないか。大衆受けするしないに囚われず、先人が悩み続けたその哲学的問いを正面切って音楽で引き受けているのではないだろうか。

ずっと勝利を続けてきて、自分に何も疑いを持たない楽観的で明るい人間もいるけれど、不安でいっぱいの人間には彼らの言葉や仕草は凶器になる。彼らの優しさに触れると屈折している自分は真綿で首を絞められるような気分になる。別に比較しなくたっていいのだけれど、社会で常に他者と向き合う必要がある以上、前向きになれない時もある。そんな時に同じ目線で世界を見ている誰かがいる、というだけで生きていけそうな気がする。そういうあたたかさが込められている、と思う。

あの世とこの世、生と死。これも二項対立なんですけど、それに関しても仙崖は描いているようで。


遺偈
来る時来る処を知り
去る時去る処を知る
懸崖に手を撒せず
雲深くして処を知らず

死にともない死にともない
ほんまにほんまに

悟り切った仙崖はそう嘯いて息を引き取ったとか。 紫の袈裟を着なかった仙崖と紫を基調とした八十八ヶ所巡礼のアルバム。まだまだ沢山面白い発見がありそう♪

 ただ、音楽的なことは不勉強で、モチーフでの読解になっちゃうのが悔しいです。 あと、仙崖の本は読んでいて楽しかったけれど、まだ理解できないところも多かった(当たり前)のでまた読みたい、、、 よし、ひとっぷろ浴びたらおでんで推し活じゃ!(違う)


2023/12/31

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