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【長編小説】踊る骨 プロローグ/高村亜美

【あらすじ】
公園で5歳の幼女が行方不明になった。それから目に見えて変化していく17歳の大川雪柾。彼が幼女を誘拐した動機は、想像を絶するほどおぞましいものだった。
※R15 エロはありませんが、グロが苦手な方はご遠慮ください。

人は死後、
すぐに腐敗がはじまる。
透けるように白い肌でも
ドブのように黒くなり、
ガスがたまって膨れあがる。
やがて皮膚が破れ、
肉が溶けて流れ落ち、
干からびた骨が動きはじめる。
ちょうど踊るように
・・・・

 プロローグ 高村亜美

 

 ■一九九六年 十月十四日 月曜日

 すっきりと晴れわたった十月のその日、まだ五つになったばかりの高村亜美は、不意にオシッコがしたくてたまらないのに気づいた。家の近くの公園の砂場で、王子さまを迎えるお城づくりに夢中になってしまったためだ。
 さっきまで一緒にお城をつくっていた四つ上の姉は、友だちを見つけるとすぐに飛んでいって、いまはブランコに立ち乗りになって遊んでいる。友だちとクツを遠くへ投げ飛ばすのに夢中になっている姉の姿が亜美のところからも見えた。
 彼女に(遊びに夢中になっている時はとくに)おトイレに行きたいなんて言うと、ひどく機嫌をそこねるに決まってる。いつまでたっても一人で行けないのね、とお姉さんぶってブツブツ文句を言うに決まってる。まだぁー、ウンチしてんじゃないのぉ? と外から大きな声でかすに決まってる。そしてカギが壊れたドアをドンドンと蹴るのだ。
 夕暮れ時の公園は、先日死んだおばあちゃんの遺体を連想させるので、亜美はあまり好きじゃなかった。
 じっと天井を見つめつづける半開きになったおばあちゃんの瞳。乾燥して小さなシワがよったあの暗い瞳。亜美はそれを見てビックリした。瞳にシワがよるなんて・・・・。
 大好きだったおばあちゃんがおばあちゃんでなくなっていく――。
 おばあちゃんは? 
 ねえ、ママ。おばあちゃんはどこ? 
 どこへ行っちゃったの? 
 ねえ、ママ――。
 夕暮れ時の公園は、あのときの感覚に似ていた。
 大好きな公園が大好きな公園でなくなっていくこの感じ。心にポッカリと穴があいたようなこの感覚――。
 心なしか急に風も冷たくなってきたような気がする。
 友だちのカオルちゃんもヒサちゃんも、今日は来ていなかった。途中でおなじスミレ組のエイジ君が来たけれど、彼は亜美をみても見向きもせず、砂場に足を一歩もふみ入れてこなかった。
 ブランコとすべり台とジャングルジム。
 男の子はみんなそうだ。少しもジッとしていない。動いてスリルのあるものなら何だっていいと思っている。騒々しい。だから大っ嫌い。
 それに先生が見ていないとろくに手を洗わないのも信じられない。それでおやつを食べるのだ。不潔で乱暴でいつも威張ってて。男の子なんてみんなこの世からいなくなればいいのに――。
 オシッコがとても家までもちそうにないので、亜美は公園の隅にある公衆便所まで急いだ。公園の中でも一番嫌いな場所だ。
 暗くてジメっとしてて、いつもいやな臭いがたちこめている。
 男の子たちと同じようにこの世からなくなって欲しいもののひとつだけれど、今はなくなって欲しくなかった。緊急に必要としていた。
 だが亜美は、公衆便所まであと三メートルといったところで走るのをやめた。もうそこでもいやな臭いが漂っていた。
 内部が見えないように、つい立てがわりに造られた壁の向こう側の蛍光灯が、咳をしているみたいに不規則に明滅している。パッと暗くなったり、パッ、パッと明るくなったりをくり返している。それも女子便所だけで、男子便所の方は――蛍光灯管の両端がドブ水につけたみたいに黒くなってはいたけれど――明滅してはいなかった。とにかく点いてはいた。
 亜美はそれを見ただけでもチビってしまいそうだった。一瞬にしろ、真っ暗になるのだ。夕暮れ時にしても、あの狭い囲いのなかで真っ暗になってしまうのだ。
 怖い――。
 ・・・・でも、したい。
 亜美はその場で足踏みしたまま考えた。漏らさない程度に小さな手で腰の骨をトントンと叩いた。
 怖い、したい、怖い、したい、怖い、したい――。
 やっぱりお姉ちゃんに来てもらおうか・・・・。
 お漏らしすると、ママはひどく怒るに決まってる。おねしょをした時だってモノサシで五回もおしりをぶつのだ。
 あれほど念を押したのにママを起こさなかった罰、パシッ。
 寝る前にオレンジジュースを欲しがった罰、パシッ。
 ママの仕事を増やした罰、パシッ。
 ふとんを汚した罰、パシッ。
 そして最後におねしょをした罰、パシッ。
 きっとお漏らしの方がもっと多いに決まってる。亜美はそれを考えただけでも泣きたくなった。
 どうしよう。家まで走って帰ると三分とかからない距離だけれど、とても間に合いそうにない。ううん、もう絶対もたない。すでに下腹部が痛いし、身体もまっすぐにできないほどなのだ。十歩も走れない。歩くこともできないかもしれない。
 亜美は公衆便所にむかってゆっくりと歩きはじめた。
 股の間にバレーボールを挟んでいるようなひどいガニ股で、片時も公衆便所から目を離さずに、明滅する蛍光灯をにらみつけていた。
 ひとりで便所に行っちゃいけないって、ママにあれほどクドく言われてたのに――。
 でも、お姉ちゃんは男の子みたいな遊びに夢中になってるし、来るとい言ってたカオルちゃんが来なかったんだし・・・・。
 公衆便所の入口まで来てみると、もうそこから一歩も動けなくなってしまった。
 ひとりであの狭くて臭くて汚ない囲いの中へ入っていくなんて想像もできない。
 誰も外で待っていてくれない便所に入るなんて考えられない。
 亜美は心臓がドキドキしていた。口から心臓が飛びでてくるんじゃないかと思えるぐらい、鼓動が耳のすぐ近くで聞こえた。そんな感覚はじめてだ。こんなところ、絶対入りたくないっ! でも・・・・。
 亜美は公衆便所の裏手に目を向けてみた。
 そこは彼女の背より高い{潅木}(かんぼく)に囲まれていて、そのすぐ向こう側は道路だった。しかも灌木の葉が細かいので、何をしていても道路側からは見られる心配はない。
 あそこだったら、あの狭くて臭くて汚い空間よりはマシかも知れない、と亜美は思った。
 少なくとも逃げ場がある。お化けがでてきても、すぐに道路に出ちゃえばいいのだ。
 ぬめっとした生温かい舌がおしりを撫でてきたら、おもいっきり叫んでやればいいのだ。
 そうすれば、向かいの家の人がきっと助けてくれる。お姉ちゃんにだって聞こえるはずだ。
 亜美はもう一度だけ公衆便所の裏手と、暗い女子便所を見比べてから、お姉ちゃんを見た。
 姉はブランコから下りて、片足でケンケンをしながら自分のクツを取りにいくところだった。一度も亜美の方を見てくれない。自分の遊びに夢中になっていた。なんでもすぐムキになる姉なのだ。
 彼女はあきらめてひとりで便所の裏手に入りこみ、すぐにパンツを脱いで枯れ葉の上に放尿をはじめた。
 これでもうママに怒られないですむという安堵と、恐怖を早く終わらせたい思いに夢中になり過ぎてしまって、亜美は背後からしのびよる気配にまったく気づかなかった。
 枯葉によって変な流れ方をする尿からクツを守るのに意識を集中していたために、背後の人影が枯葉を踏む音にもまったく気づかなかった。亜美自身、尿から逃れるためにしゃがんだまま場所を移動したりして、けっこう大きな音をたてていたのだ。
 やがて放尿が終わってあわててパンツを引き上げたとき、彼女は後ろをふり向いた。何かに気づいたわけではなかったが、何かを感じたのは確かだった。
 巨大な舌で背中を撫でられるような重くて湿った空気――。
 黒い雲が被いかぶさってくるような暗い気配――。
 悲しいことに、亜美の五年と二カ月の生涯の中で最期に記憶したものは、ママのやさしい笑顔でもなく、パパとママとお姉ちゃんが病院のベッドで寝ている自分の顔を心配そうにのぞき込んでいる姿でもなかった。
 真っ黒な足が二本、目の前に立っている光景と、知らないオジさんが私を見下ろしている姿だった。
 すると、その知らないオジさんの大きな手が、大きくて冷たくてツルツルした手が自分の首に・・・・。
 亜美は叫び声を上げることもできずに、ましてや道路に飛び出すこともできずに、急速に記憶が薄れていった。


 

 高村亜美の失踪が判明してからしばらくの間、報道協定によって事件の一般公開はひかえられた。身代金を目的とした誘拐事件だった場合の配慮だ。
 それとは別に、亜美が行方不明になった第二海浜公園周辺の捜索は、その日のうちに実施された。
 じっさいその時点でいちばん懸念されたのは事故だった。
 それは交通事故かもしれないし、公園の周囲にある十センチ幅の排水溝にはさまって出られなくなっているのかもしれない。どこかのくぼみにスッポリとはまり込んでいることも考えられた。
 そこで公園周囲の探索と、道路についたタイヤのスリップ跡、血痕、周辺住民への聞き込みなどが入念に行われたが、その時はまだ多くの人が、亜美はひょっこり帰ってくるような気がしていた。服は泥だらけでひどく泣き疲れているかもしれないが、不意にどこかで発見されるような気がしていた。
 以前にも五歳の男の子が、行方不明になった場所から五キロも離れた場所で発見されたことがあったのだ。その時も行方不明になってから六時間も経過していたのでひどく心配されたが、周囲の心配をよそに、発見された本人はどこにも怪我もなくケロッとしていて、泣きじゃくる両親に抱かれたときにはじめて泣いたぐらいだった。
 だから今回の場合も心配はされるが、またどこかで元気にしているんじゃないかと思われていた。

 亜美の自宅では、父親の高村浩司、母親の恵子がまんじりともせずに自宅の電話機をにらみつけていた。
 もう少しラクな姿勢で、というガス会社の検査員みたいな格好をした大石警部の声にもまったく耳を傾けなかった。コトリとも鳴らない電話機にしびれを切らせて受話器を取ろうとする浩司の手を、大石警部が何度止めたかしれない。
 高村浩司は、松田と橋本という私服の警察官によって自宅の電話機に取りつけられたコードが、本当に外部と繋がっているのかどうか心配でならなかった。
 この町のどこかで電信柱に昇って配線工事をしている男が、たったいま電話線で首を吊ってしまって不通になったかもしれないし、どこかの馬鹿な若者が、スピードの出し過ぎでカーブを曲がり切れずに、電柱をなぎ倒してしまったかもしれないではないか!
 電話機が外部と繋がっているのは大きなカセットリールデッキについている赤いランプで確認できるといわれても(これですよ、これ、と大石警部は大きな機械についている赤いランプを指差してわざわざ教えてくれた)、それすら壊れているかもしれない。今日に限って、なんてよくあることなのだ。不祥事の時の常套文句だ。
 高村浩司は気がきでなかった。誰も見ていなければ、そして亜美が目の前にさえいれば、電話機にまるごと喰らいついてぶち壊してやりたいという、どうにも抑えがたい衝動にかられていた。

 一方、高村恵子は、亜美の姉、里美があわてて家に走り込んできた光景をなんども思い返していた。
「ママッ! 亜美帰ってる?」
 すべてはそこから始まったのだ。こんな気狂いじみた、とうてい現実とは思えない騒動が、すべてそこから始まったのだ。
 でもこの夢のような現実の中で、以外と冷静な自分に驚いていた。
 ワイドショーなんかで、テレビカメラに向かって行方不明になったわが子に泣きながら呼びかける親の心情はどんなものだろうと心を痛めたものだったが、想像していたよりも冷静な自分に戸惑ってさえいた。
 大石警部に渡す亜美の写真は、いま自分がいちばん気に入っているものをあえて探して渡したり(今年の夏、家族で海水浴に行ったときに撮った『ハマグリの地獄焼き』のすすけた貝殻をつまんで嬉しそうに笑っている亜美の顔のアップの写真)、いつのまにか増えてきた私服の警察官にお茶を出そうとしたのもそうだ。けっして気が動転していたわけじゃない。みんな亜美のためにわざわざ集まってくれているのだ。それにあの松田っていう太った警察官が、電話機にカセットリールデッキのコードを取りつけるのにてこずってしまって、汗だくになりながら格闘してくれていたのだ。せめてお茶ぐらい出さなくちゃ――。
 もちろんそれは大石警部に止められた。落ち着いて、奥さん。いつ、なんどき・・・・。
 いつ、なんどき、なに? なにがあるっていうの? 亜美の身に何かあったっていうの? 
 高村恵子は、みんなが騒げば騒ぐほど、亜美がひょっこり帰ってきた時に申し訳ないような気がしてならなかった。普通にしていれば亜美は帰ってくるに決まっているのだ。いつものようにしていれば、ひょっこり玄関に現れて、ママーッ! って叫びながら私の胸の中に飛び込んでくるに決まっているのだ。
 なにもそんなに騒ぐことなんてないのに・・・・。
 やはり警察に連絡すると言い張った夫を、もっと強引に止めた方が良かったかしら――。

 しかし、亜美は帰ってこなかった。夜遅くなってもなんら確かな情報はなく、自宅の電話機はコトリとも鳴らなかった。
 ついに堪えられなくなった高村浩司が、大石警部の静止も聞かずに家を飛び出していったのは夜の九時過ぎだ。
 こんな日がいままでにあっただろうか、と高村恵子は考えていた。一日に電話が一度も鳴らないなんて・・・・。
 なぜ?
 どうして私の家族がこんな目にあわなければならないの?
 私たちがなにか悪いことをしたっていうの?
 気がつけば道に落ちてるゴミだって拾っているし、燃えないゴミだってちゃんと分けてるのに――。

 高村亜美の本格的な捜索が始まったのは、翌朝火曜日の九時過ぎからだった。
 捜索は県警捜査一課、所轄の警察署、それに紺色の防災服を着た地元の消防団員などが大幅に増員され、道路は明るい陽射しの中でアスファルトの表面を這いつくばるようにして念入りに探索された。亜美が消えた砂場の中も、髪の毛一本見逃さないように徹底的に調べられた。
 しかし、狂気はすでにはじまっていた。誰にも気づかれない場所で、誰にも気づかれないうちに、予想もしなかった狂気がすでにはじまっていた。
 静かに、
 おだやかに、
 ゆっくりと――。
 干涸ひからびた骨が踊りだすまで――。



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