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国家権力とは?

「国家主権とは何か」
他国の干渉によって犯されることのない国家の意思力(統治権)
主権というとまず頭に浮かぶのは「国民主権」という言葉だ。現在の日本国憲法の下では国民主権が謳われているが、「国民主権」とは何を意味するのだろうか?再び辞書で調べてみると、「国民が主人公となって自分たちの国の意志決定を行う事」とある。
つまり、自分達で自分達の事を処理し、考え、決定し、行動する。そして、相手に対し意見をする事ができる権利や能力をさしている。国民を国家に置き換えて考えると、解かり易いが、果たして日本はこの「国家主権」をきちんと行使しているのだろうか?
日本人が国内において他の民族よりも優先的に持っている権利、それは我々の先祖が創った国で先祖が守ってきたものだ。そして、今ここで生活している我々には、次の子孫のためにも同じように日本の国を守る義務がある。
個人に置き換えて考えてみれば当たり前の事だが、こういった肝心のことが日本の国という枠組みの中では忘れ去られているのではないかと思う。
 我々はこのような平和な時代に生まれ、生死にかかわる心配もなく暮らしていると、税金やその他の保険料・厚生年金等を払い選挙に行く以外、ほとんど国家との関係を感じることがない。しかし、日本の国土と歴史は、代々引き継がれてきたかけがえのないものだから、それを一度戦争に負けただけで全部放棄して、考えなくなるのはご先祖様に申し訳ない様な気がする。 

 国家にとって主権の存在が重要であることを理解するとともに必要なのは、この主権というものが外部からは何の制限も受けない、いかなる制限も受けない権利であることについて認識することだと思う。

主権は、不可能のない何でもできる力であって、これに制限を加えてしまえば、それはもはや主権でなくなってしまう。

 次に日本国の主権を取り巻く状況に目を向けてみると、日本国憲法にはいくつかのタブーが存在するようである。まず戦争、武力。そしてもう一つは私的な権利を無制限に認めている点、つまり「公」という観点だ。
これらの問題が武力攻撃対処法という法案審議を通して現在議論されているが、法案が反対されているのはここで上げた二つのタブーに少なからず触れているからだ。

 現在、国会で上程されている有事法制では、もし外国からテロや戦争攻撃を受けた場合、現在の日本の法律では対処できないことがはっきりとしている。つまり自衛隊は存在するものの、日本を守る仕組みができていない。以前、勉強会で西村議員は次のような事態を想定して講演していた。

~仮にテロ部隊が日本にやってきたと仮定し、宣戦布告もなく相手の正体も分からない集団が日本のどこかの山中に逃げ込んだとする。対して自衛隊は作戦を遂行すべく追跡を始めるが、その山中が私有地であった場合、山に立ち入ることは問題ないが、臨時の前線基地を山中に設けようと思っても、無許可に山中を整備することはできない。早急に許可が取れるのであれば問題はないが、所有者が外国にいる場合や、最も困るのは所有者が意識不明などの状態だと、許可を取るのに時間がかかり、その間にテロ部隊はどこかへ逃げてしまったということにもなりかねない。仮に自衛隊が作戦を強行するなら、自衛隊は法律を違反することになる~ということだ。

こんなことでは、許可を取る手続きをしているうちに、日本はこてんぱんに攻撃されてしまうだろう。

 普通に考えてみれば当たり前の話で、なんら問題はないはずなのに、共産党や野党の一部は、有事法制は戦争に巻き込む法律なので、断固反対だといっているそうだ。

 この法案は自衛隊に対する法律、米軍と行動を共にする法律、それから私的財産・様々な権利を制限する法律の3本立てである。現状では一応米国と日米安全保障条約で平和が守られている。そのため、駐留米軍に対し何者かが攻撃を仕掛け周辺事態が発生すると直接攻撃を受けていない我が国もこの戦いに参加せざるをえなくなってくる。

 現憲法では戦争や力というようなものは完全に放棄するという形になっており、とにかく専守防衛で集団的自衛権を解釈上でも認めていない。
しかし、そういった運命共同体的な外交もせずに、自国のことは自国だけで守るということは現在の日本では無理だ。ところがそのこと自体を最初から戦争放棄や武力放棄の理念に抵触するとして認めないとなると話が全く進まなくなる。武力放棄が先にきてしまって、そこから巡り巡って周辺事態などになったら攻撃をしてはダメということになってしまうからだ。

 日本が主権国家であればこういう問題を、法律の枠を越えて議論する能力が本来あるはずなのだと考えなければならないのではないか?憲法で禁止されているというだけで制限されてしまうということ自体、主権国家ではないような気がする。 

 先ほどの自衛隊出動についても、現憲法を認めるとしても憲法は平和的状況を前提として作られている。日常生活で有事があれば、ということは憲法上想定していないということだ。国家的危機管理の欠如・・・・・現時点で調べたような問題の事態が近い将来発生してしまえば、非常事態の特例として取り扱うしか対処できないのが現状だ。では他の主要国は有事をどのように捕らえているのだろうか。

 実は当然どの国にも非常事態法というのがあり、有事が発生したら憲法の例外処置として今まで書いてあることは考えなくても、主権の発動として自身の命を守るため無制限に対処できる仕組みになっているという。

 非常事態の場合には自分たちの生命を守る仕組みである憲法が、自らの命の足枷にならないようにしているが、日本にはその機能がそもそも存在しない。この点を見ても主権が発動されないシステムが出来上がっているといえる。

 国民個人の権利に制限を加えることは戦後日本の中でタブーとされてきた。 では、改めて「公」とは一体何なのだろうか。やはり国民の共通的な認識だと思う。これは当然国によって違っている。ここから何が出てくるかといえば、結局は歴史的な感覚、民族の文化、その感覚によって違ってくる。重要な拠り所であるといえると思う。

 しかし現在の日本ではその歴史や文化というものが否定されている。 

 今の日本の中で、もし自分たちの主権を守ろうと思うのであれば、憲法違反をしない限り駄目なのだろうか。憲法は何のためにあるのかといえば、生命・財産・名誉、つまり主権というものをしっかり守るためにあるはずだ。ところが憲法を守れば今度は主権が守れない。

ここに非常に相矛盾する形がある。 

 中国瀋陽の事件、北朝鮮から五人の家族が日本の領事館に逃げ込んできた事件が起こった。この事件で先ず挙げられる問題の一つは亡命者の人権をどう考えているのか、そしてもう一つ大きな問題は治外法権で認められている日本の主権が及ぶところで何故中国人が勝手な行動をとれるのか、という二点だ。

 人権については韓国に亡命できた。しかし、主権侵害、この問題は終わっていない。米国大使館にも亡命者が駆け込む事があったが、このような騒動にはならなかった。入れば米兵が立っているからそれこそ戦争に直結しかねないからだ。

 日本の場合、はなから舐められている。主権を守る仕組みがないからだ。

日本国憲法の条文ではないが、平和を愛する諸国民が我々の身の安全を任せる事を決意したと言っているわけだが、在外交官はこの理念を純粋に踏襲している。しかしその結果、主権は侵害され世界中に無知であるという恥をさらすという事態に至ってしまった。

 結局主権というのは自分たちで守らないと誰もその代わりをしてくれないということがわかってきた。自分たちの生命財産を守るためには、血を流し、汗を流すという覚悟をしていないと誰も守ってくれないという事だ。
先般、私の呼びかけで「ブルーリボンに願いを込めて」というテーマで拉致問題運動を行った。横田さんの悲痛な叫びを生で聞き、日本の情けない現状を改めて認識した。果たして国民を守れない国家を故郷と呼べるのだろうか?何か起こってからでは遅いのだ。更に起こってからでも無力な日本。でも本当は無力なのではなく、国家主権の欠如だと思う。今こそ、日本中の国民が国について真剣に考え、行動する時だと強く感じた。合掌

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