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吉良邸討ち入りの日に思うこと

今日、12月14日は赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした日であります(元禄15年、つまり1702年)
とはいえ、僕のまわりではこのことについて何か話している人は特におらず、唯一僕の受けていた授業の先生が少し話していたくらいですかね。
最近ではテレビでも忠臣蔵のドラマはなかなか放送されていないのでしょうか、忠臣蔵について知っている若者は減っているように思います。
それを特段責めるつもりはありませんが、世代を超えて伝えられてきたものには、何か人の心を揺さぶるものがあるからこそ伝わってきたのではないかとも思います。だから、忘れられてしまうのは寂しいことです
なお、「忠臣蔵」は後付けの名で、吉良邸討ち入りから四十年以上経った「仮名手本忠臣蔵」に代表される浄瑠璃などによって定着した名前です。つまり、「忠臣蔵」が史実に忠実かというとそうではありません。脚色も入っています。知らない人もいると思うので、そのもとになった「赤穂事件」や吉良邸討ち入りについて簡単に説明します
事の発端は元禄14年(1701)の3月14日に江戸城松の廊下でおきた事件に遡ります。この日は、朝廷から江戸城に勅使(天皇が派遣する使い)がやってくる大事な日で、江戸にいる大名も皆江戸城に行きます。ここで、その勅使の接待を任されていたのが浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩でした。かれは播州赤穂藩(今でも兵庫県にはJRの駅で播州赤穂駅がある)の藩主でした。そして、その勅使の接待にあたって、礼儀作法などの必要事項を浅野内匠頭に教えるのが吉良上野介義央の役目でした。吉良家は「高家」という家柄で、足利氏の流れを組みます。江戸時代は大名ではありませんが、こうした高い家柄のため、幕府の儀式面を担当する「高家」でした。ちなみに、今でも愛知県西尾市内に吉良町がありますが、あのあたりに吉良氏は領地を持っていたので、気になる方は地図をみてください。
さて、詳しい理由は今でも謎ですが、浅野と吉良の間に勅使の接待にあたって何らかのトラブルがあったようで、ついに勅使を迎える日であった3月14日に、浅野は江戸城松の廊下で刀を抜き、吉良を斬りつけてしまうのです。忠臣蔵のドラマや映画などをみると、まるで浅野が吉良を殺しにいくように見えがちですが、斬られ方などから、浅野は逆上して感情を抑えられなかったのは確かだが、本気で殺すつもりではなかったのでは?という説もあります。ここらへんの真相を知るのは難しいです
いずれにせよ、吉良は一命をとりとめたものの、浅野の行為に対して将軍徳川綱吉は激怒、その日のうちに浅野内匠頭は切腹を命じられて亡くなったのでした
しかし、大名が即日のうちに切腹とは異例ですし、何せ「喧嘩両成敗」の原則に反して吉良側には何の処罰もない。加えて赤穂藩は城と領地を没収されてしまいます。赤穂藩士たちは失業したことになりますから、辛い立場に追い込まれます。もっとも、赤穂藩士といっても一枚岩ではありませんでしたし、すぐに吉良を討とうとしたわけではありません。はじめは、亡くなった浅野内匠頭の弟、浅野大学長広によってお家が再興されることに期待しましたが、それも叶わず、ついに赤穂藩の家老だった大石内蔵助良雄を中心とした47人の元赤穂藩士たち(=赤穂浪士)は吉良邸への討ち入りを決意し、主君浅野内匠頭の無念を晴らすことにしたのです。それが、浅野内匠頭の死から1年半以上が経った元禄15年の12月14日なのでした。
吉良上野介は彼ら赤穂浪士によって討ち取られ、その首は浅野内匠頭が眠る泉岳寺(現在の住所でいうと東京都港区で、地下鉄の都営浅草線に「泉岳寺駅」がある)に供えました。しかし、いくら主君の無念のためとはいえ江戸時代は戦国時代と違って個人的に武力行使に出るのは許されません。結局、46人(一人は討ち入り後に姿を消した)は全員切腹することになるのでした

以上が事件の顛末ですが、僕も忠臣蔵についてテレビで放送されているものは見たことがなく、映画が一回あるだけで、大まかな流れを知っているくらいでした。しかし、ある時NHKの「歴史秘話ヒストリア」で大石内蔵助の特集がやっていました。そのときに紹介された大石の辞世の句に僕は思わず涙しました。その句とは
あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし

というものです。初句の「あら楽し」に彼の気もちが凝縮されているような気がします。ここでいう楽しいとは、ド一パミンが出るような興奮している楽しさではなく、そのあとに続くように、長く胸に秘めていた思いを達成してもう思い残すことはない、というように心の静けさを得たことに対する満足感を表しているのではないか、と私は思います
そして、僕はこの「月にかかる雲がない」という表現が大好きです。満月をイメージしてみてください。それが何にも妨げられず煌々と輝いている。そのように、大石の心も討ち入りを果たした以上何にも妨げられず晴れ渡っていることが月の例えにより、より鮮明にイメージできます
何で私が涙を流すまで感動したか、言葉で説明するのは難しいですが、大石のように、自分の命を捨てることになってまで達成したいことがあって、それを実行して死んでいくという彼の生き様に感動したからなのかもしれません。もちろん、僕はこれまで仇討ちをしたことはないですし、これからもしないでしょう。それに、僕自身日常生活において誰かに対して「恨みを晴らしてやる」などと思うことはないですし、つらい目にあったとしても思いたくありません。
しかし、江戸時代も今もこの世は「常にとまらぬ浮世」、つまりいつまでもいられる場所じゃない。そんな中、大石たち赤穂浪士のように自分の命を捨ててまで何かに取り組んで、この世に悔いなく死を迎える。そういうところに僕は心惹かれ、自分も何かに命がけで打ち込めればなぁ、と思うようになりました。
なので、吉良邸討ち入り自体に興味は持てないという人も、赤穂浪士たちの行動を見て、自分が一番大事だと思うことに命をかける勇気をもらえたらいいのではないかと思います。吉良邸討ち入りは、現代の価値観では理解されにくいところもあるかと思います。しかし、誰だって死ぬ時に後悔はしたくないでしょう。そのために、自分が大事にしたいことに真剣に打ち込んで、大石のように晴れ晴れとした気持ちで最期を迎えてみたいとは思いませんか?何もべつに、大きなことでなくてもいいです、他人には小さく見えることでも、自分がそれを本気で大事にしたいならそれでいい。赤穂浪士は主君に対しての行動でしたが、真剣に打ち込む対象が人間でなくてもいいのです。あなたが大事にしたいものが、あなたにとっての「主君」。私はそう考えているので、こうした気持ちにさせてくれる忠臣蔵、赤穂浪士たちの生き様をこれからも後世に伝えていきたいです。僕だけでなくみなさんも、赤穂浪士たちから勇気をもらえたとしたらこれほど嬉しいことはありません。


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