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感情の伝え方

なんで、感じたことを感じたまま、じゃなくて ことば に、言語化しようとしたり、そういう 見える化されたもの に、あぁ〜と共感するのかなぁ。面白い。「ここ」が行き着くべきところだったんだぁ、みたいな。

どちらかというと、言語化しちゃうと 感じたままそのまま が完ぺきには表現されないと感じてしまう。だから、(頭の中では 言葉にしたい!言語化したい!うぅぅ...ってなりながらも)その感覚を 写真 に込めたりするのが好きなのだと思う。まだまだ自分の中にある ボキャブラリー だけじゃ表現できない。

だから!だから、自分のその感覚を素直に丁寧に表現してくれそうな、代役君の ことば を探す旅によく出るし、そういう 出逢い に毎回感動するし(あー〜言葉を使える生き物で良かったなぁ)と、そういう出逢いを通して実感するのです。「言葉の旅」には終わりがなく、とても美しく楽しい。

自分の中で あーだこーだ 考えていてもその考えごとは自分のボキャブラリー間で、でしかなされなくて、自分とは違う他人(ひと)や 本、映画、自分を中心にした時の「その他」っていうものに触れることで、はじめて価値のある 考えごと ができるとあたしは勝手に思ってる。

でも、言語化 っていうのは、なんだか負けた気がするんだよなぁ。仕方なくその ことば 君に代弁してもらう、みたいな。とりあえずそのことばで規定しとくわ、みたいな。感覚として、規定の強さは「ことば>視覚情報(静止したものに限る)」だと思うんだよなぁ。結局のところ、写真 も妥協の一つ。

だから、新たな表現方法がもっとこれから生まれてもまったくおかしくないと思うし、そういうものにもっと寛容でありたいし。「あくまで」「暫定的に」この 表現 をしているだけで、ここでは終わっていない、ってことを常に心に留めておきたい。

ことば を再定義したり、ことば を新たに生み出す人が出てくるのも当たり前。時代が変わればその時代で使う(使いたいと思う)ことばも変わる。

Photo:

thanks to Sophie Ebrard.

cf. https://twitter.com/sxm583/status/489008937505538048?s=20


本をたくさん買って、たくさん読んで、たくさん書きます(たぶん)