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小さき哲学者へ

毎日の繰り返しのように思えるその日常が、とてつもなく愛おしく嬉しく有難く感じることが、最近よくある。『パターソン』を観てなにか感じた人にならこの感覚はきっと伝わる気がする。

パターソンはバス運転手なのだけれど、あたしの職業柄 子ども がこちらの彼是には関係なくただそこに居てくれて良かったぁ、と結構この仕事をしていて思うことがある。


昨日、しんどくなって泣きながら「しんどい」とあたしに訴えてきてくれた男の子。( よくちゃんと言いに来てくれた、良かった良かった )となった。誰かに助けを求められなくなると、辛い状態から抜け出せなくなってじぶん以外の存在が遠く感じるようになって、最悪死ぬことが怖くなくなってしまう。ちゃんと、頼るべき人を頼るべき時に分かっていること、そういう人が何人か周りに(距離は近くなくても心に存在として)いること、はとってもその人自身を救うのである。あぁ、あたしでもここに生きていて良いのだな と思わせてくれる人間関係は大事にしないといけない。

心の中で独りになると、どんどんじぶんの存在の脆さや危うさを感じる。群れたりつるんだりしなくていいから、誰かじぶんには「依存」できる人が一人でもいるんだと感じられると、少し安心できる。そういう人ってなかなかいない。みんなじぶんの時間で精一杯だから。

一人を好むし、ひとりの時間の楽しみや寂しさも結構知っている方だと何となく感じていて、なので、そういう部分で困っていたり悩んでいたりする(ようにこちらから見えたり感じたりする)人が居ると、少し心配になってしまう。でも、だからといってその人たちにじぶんから積極的に関わっていったり手を差し伸べてみるのは、エゴ

本質的に、助けてあげたいというのがあまりない。し、それをじぶんのエゴだと認識してしまってからは、そういう行為をしそうになるじぶんに一旦ストップをかけてしまうようになった。「助ける」ことによって、じぶんの存在意味・意義を見出してるに過ぎない。でも、その感覚のおかげで、こうやってひとりでではなく色んな人と関わりながら生きていけるので、こういう感覚は大事なんだろうなぁと思う。ひとりじゃ、誰も生きていけやしない

コミュニケーションロボット(LOVOT, Qoobo, ロボホン, Pepper...)に、感情移入する人たちが年々そしてコロナ禍で以前より家の時間ができ、どんどん増えてきているような気がなんとなくする。彼らに、じぶんの心情を投射させる。

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幸せ ≒ 存在意味、意義があると感じられる
と、ここ最近はなんとなく定義してる。

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それは、SEER や Theo Jansen のコレ、そして 岡田美智男 教授がつくる「弱いロボット」にも通ずるものがある気がしていて。

cf. https://twitter.com/sxm583/status/1007590144428335104?s=20


「 岡田教授が"弱い"ロボットにこだわる理由の裏には、人間の身体性と感情の揺らぎをつぶさに読み取り、人とモノのコミュニケーションに還元しようという開発思想がある 」
「 人らしさを表現する方法として人の姿に似せたロボットというものがありますが、僕らは周囲との関係の在り方に似せようとしています。なので、...人からタスクを受けたり、人に頼ったりする振る舞いをどんどん人に似せようというアプローチですね。」

via あえて"不完結"にこだわる「弱いロボット」が人とモノの関係性に問うもの|SENSORS|http://www.sensors.jp/post/post_78.html

動作、振る舞い から 愛嬌 を感じ取る。どこか許せてしまう

許す のニュアンスは、英語の方がなんとなく伝わりやすい。

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愛嬌は正義。

本をたくさん買って、たくさん読んで、たくさん書きます(たぶん)