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戦前は、一高、海兵、陸士、と並び称された!

旧制境中一期生の旧総和町出身の堀江芳孝氏の書籍を読んでいる。読んでいる!としているのは10分程度読み進むと文字が滲んで見えなくなるからだ。彼の著作「闘魂ペリリュー島」。                 ネットの知り合いから紹介され、これもネットで中古本を入手したからだ。この本の中に出てくる母校出身の玉砕された二人の大隊長を追い掛けてきた。それを知って様々な資料を送付してくれた方が居られる。ネット社会の恩恵なんであろうが・・・。上記画像。二列目右から3人目がそのひとり、(たぶん)17歳か18歳の頃の富田保二氏の陸士予科の卒業写真。二十歳前でこんな表情が出来る時代の凄まじさを感じます。富田保二氏は旧制下妻中学を4年で中退し、陸士(陸軍士官学校)に入学していたようだ。陸軍士官学校予科十三期生とある。もう一方が飯田義榮氏。彼は同じく十期生とある。四年違いだが、富田氏は四年で陸士入学していることを考えると5歳違いだった様子。

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飯田義榮元少佐(中佐に昇進) 後列真ん中! 18歳かと。

著者の堀江芳孝氏は、元陸軍参謀。                  北支に派遣された当時に大怪我をし、内地に送還。稀有な人物であったのであろう。自身の事は書いてないが、後に陸軍大学に進学し、参謀として終戦まで転戦している。とりわけ、ペリリュー島と硫黄島にも派遣されてた様子。想像でしか無いが、参謀本部参謀ゆえ、戦闘の前に離島した様子。戦後は在日米軍に勤務している。ゆえに、書籍は、日米双方の記録を網羅している。郷土の先達、二人の元少佐はペリリュー島で玉砕。二人のことも仔細に書かれている。とりわけ、飯田義榮氏とは肝胆相照らす間柄だった様子。いずれ、遺族の元を訪れ、話を聞いてみたいお一人。
子息氏も小生よりも年上であり、存命であればよいが・・・。

憤るだけの記述                             ペリリュー島の戦闘前に、日本海軍は、ほぼ、壊滅状態にあった。開戦から半年後の昭和17年6月。ミッドウエイ海戦で虎の子の空母四隻を失っており、ペリリュー戦の前のマリアナ沖海戦で、日本海軍は、ほぼ壊滅している。グアム、サイパン、テニアンの西方にあたる現パラオ共和国の島のひとつペリリュー島の戦闘以前に日本海軍は存在が消されていた。大切な補給ルートが絶たれた中、北支・満州から派遣されたのが水戸二連隊と高崎十五連隊。前者の一員大隊長だったのが富田少佐。後者の大隊長だったのが飯田少佐。読み進むと著者の静かな憤りと1万余の玉砕覚悟の皆さんの心情が朧氣に伝わる。下図を御覧いただきたい。

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ここに記載されてない戦力が存在する。                 日本軍の船舶はゼロ。                         米軍の船舶は、                              ○戦艦5隻
○重巡洋艦5隻
○軽巡洋艦4隻
○駆逐艦14隻
○航空母艦3隻
○軽空母5隻
○護衛空母11隻                               これ以外に上陸用舟艇が無数に沖に浮かぶ。特筆すべき彼我の相違がある。すでに、米軍は、病院船を伴っている。                これでも絶望せずに、戦闘をしようとする背景は、軍人勅諭にあるのだろうか?個人的に、陸軍も含めたこの無謀な、人のイノチを盾にしようとする旧日本軍の体質は、似非維新後の大戦。日露戦争に端を発していると感じてならない。旅順攻略、奉天会戦、双方ともに18ケ月の戦闘で8万人を越す戦死者を出している。当時の日本とロシアの国情は大きな相違があったはず。それでも双方共に、人のイノチを盾にした攻防戦を繰り広げている。日本側の背後には似非維新を後押しした英国が控えていた。脇道にそれた。子供の頃、近所の女の子たちがお手玉遊びをしていた。男の子の遊びは、ビー玉とベーゴマ、めんこ遊びだったかと。                  ♬一 一列談判(らんぱん)破裂して
二 日露戦争始まった
三 さっさと逃げるはロシヤの兵
四 死んでも(死ぬまで)尽くすは日本の兵              五 五万の兵(御門の兵)を引き連れて
六 六人残して皆殺し
七 七月八日の戦いに
八 ハルピンまでも攻め込んで(寄って)
九 クロポトキン(クロパトキン)の首を取り
十 東郷元帥(大将)万々才(十でとうとう大勝利)          戦後の時代のお手玉遊びの唄だった。むろん、子どもたちは、意味の多くを知り得ない。辛うじて日本海海戦で日本海軍が勝利したくらいは知っていたが。これもある種のプロパガンダであり、この時代の感覚がその後の日本軍を形作ってきたと感じてならない。時代と共に兵器も進化しているが、人命に関しては、当時の日本国ほど、軽視していたのは、旧ソ連軍くらいのものかと。この戦さこそが後の日本軍の骨格になっていった感が否めない。
戦争は、武器や物量>兵隊の生命。
これが日本軍の戦陣訓となり、
「義は山嶽より重く死は鴻毛より軽しと心得よ」
諸説あるが、軍人が発案・起草し、島崎藤村などの文人が校閲したとされている。ここで云う軍人は前線の部隊員ではなく、参謀本部員(後方部隊)を指している。
日清戦争時「捕虜となるくらいなら死ぬべきだ」という趣旨の訓令が山県有朋から発令され、それが大東亜戦争時の「生きて虜囚の辱を受けず」に連なり、玉砕が美化されることとなった。
当時とは社会情勢の違いもあろうが、こんな事を武士道精神であると流布した当時の軍部に対しては、激しい憤りを感じざるを得ない。
大東亜戦争初期。シンガポールの守備隊に対し、米国大統領は彼我の戦力を考えれば、戦うこと無く、降伏しなさい!との訓令を示達している。
大統領は、米軍の最高司令官であり、最高司令官が降伏しなさい!と示達していることも知った。
犬死、無駄死はやめよ!の意味であろうし、真偽は別にして米軍は、生命が尊い事を一義にしている。
堀江氏も書籍の中で生き残りの皆さんの言葉として、米軍は病院船を伴っての戦さをしており、我が方は洞窟に放置されたと書いている。
穏やか、且つ平易は文章で淡々と書き連ねているだけに、余計に、行、あるいは、行間から伝わるものが押し寄せてくる。
ペリリュー島の戦闘の様子を彼我の双方から読み解いた文章は、一言一句が突き刺さるが、今日も疲れてしまったので、一行だけ書き留めて、中途半端な何度目かのペリリュー戦関連駄文を結びたい。
「洞窟戦の途中から米軍は、洞窟に大量のガソリンを流し込み、そこへ火炎放射を浴びせた」。

中途半端になってしまったが、戦後に生きた世代と戦前の、特に軍隊に身を置いた先達の皆さんの人生を重ねてみると、なんとまぁ楽な時代を生かしてもらったもんだ・・と感謝の念以外浮かばない。
まとめようと思わないで、思いつくままに、このシリーズは書き連ねたいと。

久しぶりに無駄・無理・ムラの半日を過ごしてしまった夕刻。



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