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二人の少佐と大東亜戦争 その2

二人の少佐

後に階級があがって中佐になられた。


飯田義榮少佐の墓誌の一部に、享年33歳とあった。

少佐は、下妻中学28回卒業(昭和4年)。旧真壁郡黒子村稲荷(現在は筑西市)の生まれ。卒業生は124名と同窓会名簿にある。普通に進学していれば、明治末期の生まれかと思われるが、遺族の皆さんとは会えないため、仔細は不明。

もうひとり冨田保二少佐。旧嘉田生崎村北榎生(現筑西市)生まれ。下妻中学33回卒業(昭和9年)。上毛新聞の記事によると、二人は旧制中学の同窓であり、隣村の出身と云うことで仲良しだった様子。
ここで疑問。お二人とも遺族の皆さんとお逢い出来ないため、仔細は想像するしか無いが。単純に卒業年次から考えると、飯田義榮氏の没年は33歳とある。

同じ年の同じ場所でたぶん、一ヶ月違いくらいで、戦死されているので、冨田保二氏は28歳ということになる。お二人共に、陸軍士官学校は出て居られるかと思うが。それにしても冨田氏は若すぎる。この事は心に留めておいて、追いかけてみていと考えても居るが。

以下は、小生の推測。飯田少佐は陸軍士官学校から陸軍の職業軍人。
冨田保二少佐は、任官後選抜される陸大卒業組。
ゆえに年齢差五歳の違いがあっても、冨田少佐は、若くして特進していたのでは無かろうか?

現在の教育制度と違い、陸軍大学は現役尉官からの選抜だった様子。それも入学試験は、学問ではなく、口頭試問。戦闘が前提の尉官であるから即応能力で選抜されてたようだ。調べてわかったが、陸大卒業者は首席から6番までは、恩賜の軍刀を賜ったようだ。また、首席は天皇が列席した卒業式で40分もの長きにわたり、御前講演をしたと云う。

歩兵二連隊とあるのは、正式には、水戸歩兵二連隊。宇都宮14師団に属していたようですが、元来は関東軍と呼ばれ、満州に展開してます。南方の劣勢を受け、急遽、水戸二連隊と高崎十五連隊の一部がペリリュー島に移ることになった。連隊長は、中川州男大佐。熊本県の生まれで父親は、西南の役に薩摩軍の一員として参戦してたと伝わる。

ちなみに宇都宮餃子の発祥は、関東軍の一員として満州にわたった皆さんが帰郷後始めたようだ。33歳で部下800名以上のイノチを預かること!

先にも書いたが、飯田義榮少佐は、33歳で中川州男連隊長ほかと共に、最後は、割腹しているようだ。ふっと思ったんだけどね。市内の事業所で一番従業員が多いのは、リクシルかしらね? 何人居るか知らないが。次に多いのは、役所。300名ほどであろう。その幾多の生死を預かることの重さは計り知れない。

どれほど、きつい戦場だったんだろう?冨田保二少佐は、水戸二連隊第二大隊の諸兄と共に、最前線の防衛線を固め、最後は米軍の砲弾(艦砲なのか戦車なのか迫撃砲なのか不明)が直撃したそうな。生き残りの一人が最後の姿をみていたらしい。

記録によれば、新婚二ヶ月だったようだ。覚悟とか命懸けとかの言葉がある。これ以上の覚悟はあるまい!これ以上の命懸けはあるまい。

いのちがけで30代から50代まで駆け抜けたと自負しているが、そうでもなかった人生。二人の部下を続けて交通事故で失い事業への情熱が消えた。他所様のイノチを奪ってまでもするだけの価値があるのか?

自問したが疑念が消えないままに、事業を譲渡した。それでも、おのれ自身は古希の今日まで生きながらえている。

園内が富田保二氏。たぶん、陸士卒業時の一枚
円内が飯田義榮氏。こちらも陸士卒業時かと。


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