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二人の少佐と大東亜戦争 その3

玉砕の島ペリリュー島

大東亜戦争時に、世上玉砕と伝わる戦いが幾多もある。サイパン、マリアナ、硫黄島、沖縄。その中のひとつがフィリッピンの東方に浮かぶ小さな島ペリリュー島。玉砕の島だったことは知っていたが、郷土から多くの戦死者が居たことは寡聞にして知らずにいた。きっかけは、パラオ共和国のTwitterと上毛新聞の記事だったことは先に書いた。

前置きが長くなるが、今の国会も酷い有様だが、戦前の大本営なる組織もこいつら日本人なのか?と感じざるを得ない。そもそも人のイノチを何だと考えていたのか? 玉砕と特攻の四文字は、どんなに戦争を美化しようが、Fルーズベルトの策謀に翻弄されようが、指弾されて然るべきと感じてならない。軍部内の対立があろうが、無かろうが、さっさと降伏してしまえば、あたら母国想いの若者たちを殺させることもなかったろうに。と近年感じてなりません。大本営を含め、本土で指図していた皆さんが、戦後の復興を担った?と考えると、そりゃ、国が良くなることも無かったか?とも。まぁ半分、死期が近い古希ジイの戯言とご容赦くださいまし。が、ペリリュー島に限らず、戦争のことを知れば知るほど、大本営なる腐れ共の存在に憤りを感じてなりません。

ペリリュー島とパラオ共和国
日本から3,000kmのフィリッピン東方に浮かぶサンゴ礁の島々がパラオ共和国。色合いが違いますが、日の丸とほぼ同じデザインの国旗。

パラオ共和国・国旗

人口が2万人弱の小さな国です。この国の島の一つがペリリュー島。日本の統治が長かったこともあり、日本語が色濃く固有名詞で遺されているようです。また、日系の子孫の方も多く居住されてるようで、日本名を名乗って居られた大統領も。ペリリュー島の面積は15km2と小さな島。沖縄県の離島のひとつ、伊江島や旧千代川村の面積が20平方kmほどゆえ、少し小さいか?そこでホンの少し前に日本兵10,000人。米兵3,000人が戦死した戦いがあった。米軍の負傷者は8,000名を超えたと云う。日本兵の負傷者数は、皆無に近い。何を意味しているか?生きて虜囚の辱めを受けず!が軍人訓だったようだ。云うのは容易い。が人のイノチ。ちなみに、米軍は、既にこのときには病院船を沖合に待機させていたようだ。彼我の違い!イノチに対する考え方の違いがここにも現れている。

二人の少佐を追いかけて得た結論のひとつは、戦前の日本って、全体主義国家そのものではなかったのか?彼我の戦力差もう、歴然です。降伏してしまえば!と現代社会に生きる身は思わざるを得ない。この戦闘が始まる直前に、日本海軍は、過半の空母を失っています。

制空権、制海権を握られ、兵站もまともでない中、戦車や砲弾とイノチを盾に戦うなんて絶望以外のなにものでもありません。ここには書かれて居りませんが、米国海軍の船舶は200隻を越えていたと文献にあります。

兵站を司る貨物船が多数用意されていたかと。対して、日本軍は、軍艦はありません。航空機も少数とありますが、ほぼ、事前の空爆で使用不能だったようです。米軍がこの島を狙った目的は、飛行場にあった様子。ここを拠点に、東南アジア、琉球列島、台湾への進攻を画策したものかと。

図をご覧いただきたい。

これで戦さになりますか?日本陸軍の戦車は、司馬遼太郎氏が何度か紀行文に書いてますが、まるでブリキ板のような装甲。

対して米軍のそれはM4シャーマン戦車と呼ばれる装甲の分厚い当時の敵は、ドイツ軍のタイガー戦車とソ連のT34戦車くらいとされていた。その戦車の数を御覧いただきたい。戦史によれば、虎の子とされた日本軍の戦車は米軍上陸二日目に投入され、全車があっという間に棺桶になっている。

一両に3名乗車し、16両がそれこそ、装甲を貫通するM4の砲弾一撃で破壊されている。当時の戦車兵の練度は非常に高く、100発100中だったようだが、M4に直撃弾を与えても、停車させることも叶わなかったようだ。

歩兵の数も日本側の守備兵士が8,000名に対し、米軍は、最強と云われた米国海兵隊の第1師団以下が投入されている。一週間で落とせる!と、当時の師団長の言葉が今に伝わる。昭和19年9月15日膨大な艦砲射撃と空爆で始まった戦闘は、11月27日まで73日間の長きにわたっている。

最後は、中川州男大佐以下、生き延びていた飯田義榮少佐も含めた幹部が割腹して組織的な戦闘は終えている。この闘いが後の硫黄島、沖縄戦に生かされて、洞窟を掘りまくった様子。それもツルハシ一本だったらしい。

念願のペリリューに誘われている。
秋に行こうとね。
関係者の子孫なんであろう友人に・・・。
これでひとつだけは、念願を果たせるかも知れない。


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