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「ジェンドリン哲学」登山ガイド(2): 道迷いを防ぐ“理論リテラシー“


例年、夏の終わりは学会シーズン。今年も昨年に引き続き、どこもオンライン実施でした。8月28日には、日本人間性心理学会第40回記念大会で「PCAは本当に絶滅危惧種なのか?」(企画: 企画活動研修委員会)という刺激的(?)な名前の自主シンポジウムに、話題提供者として登壇。翌週9月4日には、日本心理臨床学会第40回大会では「PCAの未来を語る」(企画: 飯長喜一郎)に、こちらは一般の聴講者として参加しました。その翌朝にはまた人間性心理学会のほうで、指導教官だった池見陽先生(関西大学)の学会賞受賞記念公演があったり。他にもいろんな発表を聴いて、ずっと遠隔ではありましたが、zoomやチャットで意見交換したり、懐かしい人たちと交流したりしながら、自分が専門に取り組んできたPCE(Person-Centered and Experiential)について、じっくりと振り返る日々を過ごしていました。

自主シンポで話した内容や、学会でいろんなお話を伺っていて感じたこと、特に「理論」をめぐる所感を、備忘録として、そして「ジェンドリン哲学」登山ガイドという企画の記事として書いてみようと思います。ここ最近、PCEの実践や研究をもっと進化/深化させていく上で「理論とどう付き合うか」ということを考えています。この”登山ガイド”と目打ったこの企画も、「理論を学ぶという過酷な登山を安全に行うこと」を目指していて、こんなアナロジーを使うこと自体がその1つの実験みたいなものです。また随分長くなりますが、お付き合いいただけると幸いです。

PCEに理論は必要ない?

自主シンポの参加者の皆さんから頂いたコメントの中で、特に印象的だったのは、「PCEの実践をどう言葉にしていくかが難しい」というものだった。私たちが行っているPCEの実践には素晴らしいものがある。しかし、それをいざ言葉にしようとすると、つまり自分たちが行なっている実践を現場の同僚や学生たち、他のオリエンテーションの臨床家にも伝えようとすると、とても難しい。私たち自身の実践を語るための言葉が少なすぎるのではないか。そういった意見は、他のシンポやワークショップでも聞かれた。

これはとても重要な指摘で、まさに僕らが「ジェンドリン哲学」という山に登ろうする理由の1つでもあるだろう。Gendlinのテキストという「極地」に赴き、そこで「実践を語るための言葉」を見つけ、下山する。考えるための言葉を探すために、本を読むということを、研究という営みで行っている。でもこれがなかなかに過酷なことなのだ。

Gendlinに限らず、Rogersにせよ、Mayにせよ、Franklにせよ、彼らが残してくれた「壮大な知の山脈=テキスト群」がある。Gendlinはその生涯で150近い論文や書物を残してくれてくれていて、おそらくは僕は論文数だけで言えば、その3割も「アタック」できていないと思う。実践を語るための言葉を見つけるために、私たちは理論を学ぶという「登山」を一層、大切にしていきたい。

ただ、PCEのコミュニティ界隈には、どうも理論に対する独特の風土というか空気感があるように感じてきた。これは僕が自主シンポで「『ロジャリアン』の専門性〜”PCE”と掛けて”蛇”と解く〜」というタイトルでお話ししたこととリンクする。全容はまた別のところで書くつもりなので、部分的にご紹介したい。

『夢とフォーカシング』(1998年刊行)という邦題で知られるGendlinの1986年の著作”Let Your Body Interpret Your Dreams”は、フォーカシングの夢解釈への応用を記した実践の本である。この本が書かれた、80年代後半のGendlinは、後に展開する”A Process Model”に繋がる哲学的な概念をすでに考案していたが、この『夢とフォーカシング』では、理論的な議論は「付録」扱いで書籍の最後についているのがユニークなところだ(そしてそれが今回の議論の的になる)。
ジェンドリン哲学を語る上でこの付録で書かれた「生きているからだと夢の理論」は、掛け値なく言って、ジェンドリン哲学全体を語る上でも極めて重要だと考えている。ただ、その導入部分には以下のようなことが書いてある。長いが引用しよう。

この理論が好きでなければ、理論が本書で述べたような体験的なステップの邪魔にならないようにしましょう。体験的なステップは、理論をもとにしてつくられたものではないのです。これらのステップには、理論は必要ありません。理論がここでは付録になっているのはそのためです。
理論は本書で述べられてきたことの基盤ではないのです。私は理論が好きですが、それは人生の基盤ではないのです。多くの人びとは、すべてのものが理論に「もとづいて」いると考えます。しかし、もしそうだとすれば、理論自体は何にもとづいているのでしょうか。(ジェンドリン, 1998, 邦訳166頁)

Gendlinは、フォーカシング実践するのに理論に還元するな、と警笛を鳴らしている。フォーカシング実践は理論を知らなくてもできる。だから理論はあくまで付録というわけである。こうすることで、Gendlinは戦略的に、フォーカシングへの「敷居を下げる」ことを目論んでいると見えるし、「頭でっかちになるな」というストレートなメッセージでもある。同様に、1981年のフォーカシング第2版も一般向けの本なので、哲学の話は本文中には出てこず、背景に現象学や実存思想、解釈学が関連していることを示すのみであった。

フォーカシングのワークショップや研究会で「理論」について語るとき、ふと上記の「フォーカシングを理論に還元するな」という一節をふと思い出して、饒舌に話していたのが、なぜか語尾がモゴモゴしたりする。フォーカシング実践を理論に還元してはいけない。Gendlinがそんなことを明記して慎重に語っているからこそ、いっそう理論を語りづらいし、実際にGendlinはフォーカシング実践やセラピー自体については、理論的な整理を驚くほどしてくれない。山の危険を誰よりも知っているからだろうか、おいそれと理論という山で遭難しないようにしているようにも思える。
(追記:同じような問題意識を、人間性の大会賞受賞記念公開講演で池見先生も同じ箇所を引用されてお話されていた。池見先生が以前Gendlin本人に「心理学者にもわかるように理論を書いてくれ」とお願いしたら、「どうせ書いても伝わらないから書かない。そんなに必要なら君が書け」と言われたそうだ。)

フォーカシングの「技法」についても同様のことが言える。1988年にベルギーで行われた講演をもとにした「セラピープロセスの小さな一歩」という論文でも、Gendlinはこのように語っている。これも長いが引用しよう。

フォーカシングであれ、リフレクションであれ、他のものであれ、二人の間にはさみこんではならないのです。
「僕にはリフレクション法があるからここにいてもいいんだ、僕には卓球パドルがあるから君には負けない、何か言ってみろ、返してあげるから」と言ってはならないのです。武装している感じになってくる。そうでしょう。私たちには方法があるし、フォーカシングも知っているし、資格も持っているし、博士号ももっている。私たちはこんなものをいっぱいもっています。だから二人の間に、こういうものをはさみこんで座っておくのは簡単なことです。
はさみこんではならないのです。それをどけなさい。クライエントがもっているくらいの勇気はもてるでしょう。もしそうでなければ、こんなに色々なものをもっていても恥ずかしいでしょう。(ジェンドリン、1999、邦訳31頁、筆者により改行箇所を修正)

まさにPCEの本質が語られているこの箇所は、それ以来PCEの論文や書籍等でもたびたび引用される部分で、クライエントその人と出会うことを強調する人間性心理学に通底するものだ。技法や資格越しでは、その人とのセラピーにはならない。Rogersも生涯、「専門資格」の存在については懐疑的でその弊害を指摘し続けていた。その姿勢はGendlinにもこうして受け継がれている。

もちろん、これはセラピー場面やセッションを行う際の話である。セラピーで技法や権威、専門性なるものを武器にしてクライエントに会ってはならない。PCEの実践が、いわゆる「傾聴技法」や「フォーカシング技法」に還元されてしまうことへの危惧が語られている。

ただ、こんなふうにはっきりと書かれちゃうと、セラピーの外の場面でも、研究会や学会、あるいは日頃、PCEについて語り合う中でも、技法や理論の話をすると、どこからともなく(実際に真っ向からそう批判されるわけでなくとも)「こんなことをするのはPCE的ではないのでは?」という想念が、鎌首をもたげてきてもおかしくない。
PCEを語るとき、理論について語ることは、防衛的で、武装していることで、恥ずかしいことだ。「理論や技法を語るなかれ」という風土が、PCEにについて語るコミュニティにおいて、当のGendlinの記述によって、どうも後押しされてしまっているように思う。普段から「PCE的な生き方」をすることを、実践家や研究者は志向する。PCE的な授業運営、PCE的な研究会運営、そしてPCE的な原稿の書き方...を目指したい。そしてPCE的に理論を語ろうとするとき、そこに困難さを感じざるを得なくなる。

Gendlinの「二枚舌」性

とはいえGendlin自身は、先の『夢フォーカシング』で「私は理論が好きだ(I love theory)」と記して、付録ながら理論を書かずにはいられなかった人である。もちろん先の書籍や論文が出された80年代以降も、1996年には『フォーカシング指向心理療法』でセラピーについて実践的に論じ、TAEという新たな思考の手順に関する実践を考案していくものの、晩年はGendlinは、哲学分野での研究を自身の仕事の中心に置いて、これをさらに推し進めていくことになる。
日本でも2000年代以降、ジェンドリン哲学に関する研究書籍がいっそう相次いで刊行されている(『ジェンドリン哲学入門』『問いつづける哲学』)。2017年にGendlinが亡くなった後、後期の主著『プロセスモデル』及び論文集 “saying what we mean“が刊行されている。バチバチに理論をやっていて、むしろGendlin自身の実践に関する研究は、70-80年代がもっとも華やかだったと言っても良いだろう。

注意しておいた方がいいのは、Gendlinが「実践を理論に還元するな」「技法越しに人と出会うな」と強調したのは、あくまでセラピーやフォーカシング実践での話だ、ということだ。
理論や技法を学ばなければ誰かの支援ができないわけではない、という人間性心理学のラディカルな実践知を、Gendlinは専門的な知へのアンチテーゼをPCEの実践家として提唱している。こういった主張が、後にPCEの実践は「素人の域を出ない」という批判を呼ぶことになる(例えば氏原, 2007)。自主シンポではこのテーマについてもお話したが、これは重大な話なので改めて別稿で論じたい。

どんな人でも、専門家(=専門知)に頼らなくても、自分の実感に触れる、類は相手の話を聴くことでその人を支援するということが可能だ。そのためにはこんなことが大切だ、ということを、PCEは極力、専門的な理論に依らずに語ろうとした。こういう伝え方ができたことはPCEのという実践の大きな強みの1つであり、だからこそ、戦後すぐの日本で「ロジャーズ・フィーバー」と呼ばれた動向が起こり、Rogersは熱狂的に受け入れられたのだろう。

一方で、Gendlinではいっそう顕著であるように、PCEの実践はその「思想性」に支えられている。フォーカシングは理論に基づいていないが、フォーカシングを「発見する」ことができたのは、Gendlinが哲学者であり、体験と言語の関係について精緻に論じてきた経緯があったことを無視できない。それが思弁的なものに留まらず、カウンセリング実践と交差したところに面白さがある。思想性と実践の両面があるのだ。
Rogersの実践が日本において広く受容されるに至ったのも、それがただ単に簡単だから、誰にでもできると思われたからだけでない(そう受け取った人も実際には少なくないとは思うが)。Rogersの“On Becoming a Person“に代表されるように、実存思想や現象学などの哲学は、Rogersの実践として体現されたその人間観を支え、それを多くの人に届けるための「大きな武器」であったと言っていい。

にもかかわらず、PCEの実践は「反専門性」を掲げ、専門家でなくても人を支援することができること、多くの人に伝えようと、なるべく理論的でない言葉を使うことを心がけた。PCEは、対人支援のためのリソースの門戸を多くの人に開いた最初期の実践である。そこで「理論を介在させない」という戦略を取ったとみた方がいい。

PCEの持ったこの戦略、特にGendlinに顕著である、ユーザーにはどこまでもわかりやすく、専門性を排して語り、一方で高度に哲学的な議論を展開するというあり方を、僕は先の自主シンポでGendlinの「二枚舌」性と呼んだ。ロジャーズ派実践を「素人性」(氏原, 2009)と形容する言葉をあえて使えば、PCEは本来、「誰にでもわかるように」という素人性へも、概念の使用を精緻に検討する専門性へも、双方向に「饒舌」であったはずである。Gendlinは戦略的に「二枚舌」を使ったのである。

問題は、このPCEの「二枚舌」という強み、特に専門知における饒舌さを兼ね備えてこそ発揮させるPCEの強みが、現在のPCE研究の場面においては十分に機能していないのではないか、ということである。先にも指摘した、PCEを理論的に語るという行いは、PCE的ではないのではないか、実践と理論が乖離したいわば「不一致」の状態になってしまうのでは、と私たちはどこか錯覚していないだろうか。
この「二枚舌」は決して不一致の状態と一緒ではない。諸富(2021)でありありと描かれているように、Rogersは徹底的に議論をし、研究することを尊重した人であったし、Gendlinは哲学を、理論を愛した人であった。二枚舌は、PCEの本来性である。

ユーザー、多くの人へと届きやすい平易な言葉、実践について精緻に思考するための理論的な言葉、この双方向への饒舌さが重要ではある。ただ、今回の学会でも「私たちには実践を語るための言葉がない」というコメントが聞かれたように、私たちに直近の課題は「理論を語るための言葉」、理論的な饒舌さをいかに育んでいくかではないだろうか。だから私たちはPCEの「巨人たちの肩」に登り、彼らの言葉を聴き、私たち実践を語るために持ち帰り、共有する必要があるのだ。

ずいぶんと前置きが長くなってしまった。今一度、登山のアナロジーに戻ろう。

「地図」としての理論:道迷いの防ぐために

国立登山研修所ウェブサイトによれば、登山における遭難の原因として一番多いのは、「道迷い」なのだそうだ。近年の登山ブームよる登山者人口の増加、そしてソロでの登山が増えていることが起因のようである。もちろん、遭難者の属性(年齢・性別・登山歴や体力など)や、登山する山の標高や季節などにも起因する。

登山や野外活動分野での心理学の研究者であり、オリエンテーリングの元アジア太平洋チャンピオンでもある村越真先生によれば(村越, 2013; 村越・宮内, 2017)、2000m以上の高山では、「滑落」や「負傷」などの事故による遭難が多いようである。高山は元々危険なので登山道や道標が整備されており、また登山者もそれなりの装備をして山に臨む。そのため、突然のアクシデントなど、不測の事態が遭難につながるようである。
対して、低山や比較的都市部に近い山などで圧倒的に多いのが「道迷い」である。登山道の整備がされていないことが多く、低地の方が道が複雑で見通しが利きにくい。かつ、装備がなくても初心者でも気軽に入山しやすくなる。無事救出されるケースも多いものの、道迷いによる遭難のリスクはかなり高いことがわかる。

とはいえ、初心者がろくに装備を持たずに気軽に山に入ったから道迷いが増えているんだ、という批判はそこまであたらないようである(村越・宮内, 2017)。登山に積極的に興味を持っている入山者の約80%は地図を携帯し、かつ70%はコンパスも持っているが、実際に登山中に地図を見る人は6割程度、コンパスを使う人は4割強だという。皆、地図やコンパスを持ってはいるものの、使えていないのである。しかも、多くの登山者はちゃんと地図が読めることが多い。つまり、「読める」と「使える」は異なるのである。
村越は、地図が読めること、使えることをめぐって、特に登山中に道迷いを防ぐための「ナヴィゲーション」の重要性を以下のように指摘する。

ナヴィゲーションとは、未知の目的地に向かう行為である。知っている場所と違って記憶を頼りにというわけにはいかない。そこに地図を使う必要が生まれる。
地図を使うことで、独特の難しさが生まれる。地図は現実を不完全にしか表していないという点である(中略)。どんなに緻密に見える地図でも現実通りではない。(中略)その意味では、ナヴィゲーション技術とは、地図記号の持つ不確実性に対応するための技術である。(村越・宮内, 2017, 44頁)

ナヴィゲーションに関するこの記述は、ジェンドリン哲学の安全登山というアナロジーを考える上で非常に示唆的だ。ここで書かれている「地図」を「理論」に置き換えてみよう。PCEの実践を語る上で、理論は必須になる。しかし、”理論は現実を不完全にしか表していない”のである。そのため、理論と現実を照合しながら語ろうとする。ただ、理論はいつも不完全なものだ。必ずそこに「不一致」が生まれるのである。

つまり、理論を語る上で最も重要なのは、理論の持つ「不確実性に対応するための技術」なのだ。
理論は現実をそのまま反映してはいない。理論は不確実なものだ。確かにGendlinが言う通り「理論を現実に当てはめてはならない」。ただ地図通りに進んだとしても、私たちは道に迷うだろう。しかし、だからと言って地図を捨ててはいけない。地図を見なければ、私たちはどこへも行けなくなり、動けなくなってしまうだろう。PCEについて語る言葉がない、とはまさにこのことではないか。大事なのは、理論を実践的な場面で活用するナヴィゲーション能力である。
理論と現実の間の不確実性に対応する、ナヴィゲーション力を身につけることが、ジェンドリン哲学への登山を安全に進めるために必須である。理論を知る、ということ、ただ読んでいくこと以上に、理論を活用するためのリテラシーが求められる。

理論リテラシー: 理論は「腑に落ちる」ためにある

理論と実践との間をつなぐことをめぐって、僕は最近「理論リテラシー」と言う言葉を勝手に考案して、これを使って考えて始めている。
リテラシーとは「識字能力」のこと、文章の読み書きができて、理解できることを指す。この言葉は、他にも「メディアリテラシー」や「科学リテラシー」あるいは「メンタルヘルス・リテラシー」などというように、それこそアナロジカルに、何らかの知識にアクセスでき、それを活用できる能力を表現する際に活用さているのはご存知だろう。
フォーカシング界隈でも、Marry Hendricks-Gendlinが「フェルトセンス・リテラシー」という造語を用いている(Hendricks-Gendlin, 2003)。これは、フォーカシングのプロセスにおいて中核的な「フェルトセンスを感じる」ということを能力として捉え、これがもともとは人間にとって自然なプロセスであるへのリテラシーを高めることを指す。
ジェンドリン哲学への安全登山を考える上でも、登山中の地図のリテラシー(単に読めるということ以上に、登山の”現場”で活用できることを)と同様に、PCEの「理論リテラシー」を高めることが大切になる。

そしてHendricksが強調しているように、「リテラシー(literacy)」という言葉を用いるメリットは、そこに教育的な営みを想定できるということである。読み書きと同じように、多く人が適切な方法やアドバイスを受ければ、誰しもがそのリテラシー能力を高めることができる、という発想である。
「理論リテラシー」という言い回しにもこのニュアンスが含意している。理論を語る、活用するという営みは、一部の研究者に閉ざされたものではない。誰しもが地図の活用法を少しずつ学んでいけるように、「理論」の使い方を習得してくこと、学び合うこと、高め合うことができるのではないか、という意味が含意されている。それによって、PCEについて理論的に語るためのより多くの言葉を得て、それを活用し、もっと饒舌に私たちの実践を語っていけるのではないか。
もちろん、いきなり高嶺を目指すのはリスキーだ。低山でも、装備を整えずにいけば、何とかいけそうな気がするからこそ、「道迷い」が起こりやすい。

登山における読図のアナロジーを用いたときに際立つ「理論リテラシー」の内実は、「理論と現実の不一致」への対応力である。もともと、言葉と体験の不一致、ピッタリとこない感じに関わることは、フォーカシングの実践者がもっとも得意とするものだ。理論と実践をすり合わせるために「理論リテラシー」を向上させる取り組みは、それ自体がフォーカシング的なプロセスの実例でもある。こういった教育的な側面も、フォーカシングが本来的に持っている大きな強みである(岡村, 2018)。「PCEについて語る言葉が少ない」と感じる時は、理論リテラシーをトレーニングする絶好のチャンスでもある。

ところで、件の『夢とフォーカシング』の付録a「生きているからだと夢の理論」は、以下のような文章で閉じられている。これも多くの人に知っていただきたい大事なところなので、引用しておきたい(ぜひ全文読まれることをお勧めします)。

そして私は、次のように述べて、これを締めくくりたいと思います。もしあなたが理論好きであれば、どうか、夢の体験を理論に還元しないでください。理論は「ある」ものを写しとったものではありません。理論は、意味をつくりだすものです(theory makes sense)。しかし、意味をつくりだすということは、それ自体、すでに”あった”ものを押し広げていくような種類のステップなのです。このようなステップは、さらに高次のステップへと開かれており、それは、理論との一致が保たれることを必要としてはいないのです(邦訳197頁、丸括弧の原文挿入と太字強調は筆者による)。

理論と現実は、決して一致している必要はない、とGendlinは強調する。「二枚舌」でいることは、決して不一致ではなく、それは両者を「進展」していくことを導くもので、そのための一つの「態度」であると言っていいだろう。そうやって、理論をアップデートしていくことすらできるのである。その際に、理論はこれまでにあったものを更新して、新たに意味を作り出すことができるのだ。

原文で使われている“make sense “とは「意味がわかる、納得できる、腑に落ちる」ことをいう。つまり、Gendlinのいう理論とは決して、空理空論というようなかけ離れたものではなく、身体的なレベルで理解できるものである。確かに、現実を理論に当てはまめてはいけない。ただ、登山という実践で私たちの身の安全を守ってくれる「地図」のように、「理論」が私たちの身体に作用するとき、大きな力を発揮する。私たちの実践を新たに、新鮮に語ろうとするときにこそ、「理論」は不可欠になるものだ。

Gendlinの”Theory makes sense”という一節を、あえて「理論は、腑に落ちるためにある」と曲解してみる。ある理論や概念が腑に落ちていないのは、まだ地図の中に自分の位置をマッピングできていないサイン、その概念をうまく扱えていないサインだ。そしてその概念が腑に落ちたら、自分のその概念についての理解が進展している。自分自身を進展させるために、理論を理解していくプロセスが、Gendlinのいう理論の重要な機能である。
PCEの「理論リテラシー」とは一体何なのか、自分でも腑に落ちるように、こうして理論について少しずつ時間をかけて「言葉にする」ことをトライし続けている。そんなわけで、今回も長くなってしまった... でも引き続き、安全登山を続けていこう。

(次回に続く)

文献

ジェンドリン, E.T. (著) 村山正治(訳) (1998). 『夢とフォーカシング』福村出版.

ジェンドリン, E. T. (著)池見陽 (訳著) (1999).『セラピープロセスの小さな一歩』 金剛出版.

Hendricks-Gendlin, M. (2003). Focusing as a force for peace: The revolutionary pause. Keynote address for the 15th Focusing International Conference, Germany.

国立登山研究所 ウェブサイト (https://www.jpnsport.go.jp/tozanken/)

三國牧子・加藤敬介・岡村心平・押江隆・押岡大覚 (2021). PCAは本当に絶滅危惧種なのか?(自主シンポジウム)  人間性心理学会第40回記念大会 プログラム・発表論文集  p.32 (オンライン開催)

三村尚彦 (2015).『体験を問いつづける哲学 第1巻 初期ジェンドリン哲学と体験過程理論』 ratik.

諸富祥彦 (2021).  『カール・ロジャーズ カウンセリングの原点』 角川選書.

諸富祥彦 ・末武康弘・村里 忠之(編著) (2009).『ジェンドリン哲学入門―フォーカシングの根底にあるもの』 コスモスライブラリー. 

村越真・宮内佐季子 (2017). 『山岳読図 ナヴィゲーション大全』 山と渓谷社.

村越真 (2013).『なぜ人は地図を回すのか 方向オンチの博物誌』 角川ソフィア文庫.

岡村心平 (2018). フォーカシングにおける交差の機能に関する研究 : 心理療法・メタファー・なぞかけ  関西大学 学位論文 34416 甲第685号

Rogers, C. R. (1961) On Becoming a Person: A Therapist’s View of Psychotherapy. London: Constable & Robinson.

氏原寛 (2009). 『カウンセリング実践史』誠信書房. 



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