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「未知」との遭遇者は逡巡する: 宇宙飛行士・フランクル・村上春樹


はじめに: 宇宙飛行士は、宇宙での体験をどう語るのか


ある人に勧められて、最近文庫化された稲泉連さんの『日本人宇宙飛行士』(ちくま文庫)という本を読んだ。僕自身の専門は臨床心理学と身体論だが、この本の内容があまりに面白く、解説の東工大の伊藤亜沙さんの解説と合わせて、実は自分が関心をもっていることと「宇宙飛行士」というトピックが、実はとても関連しているということに思い立った。
宇宙飛行と心理学に、いったいどんな関連があるのか。宇宙船や惑星間移動などのストレスフルな状況、極地での心理過程やメンタルヘルスに関する研究はすでにある。あるいは「宇宙意識」とか「宇宙身体論」とかと表現してみれると、妙に怪しげな字面になる。けれども実際は、宇宙空間という未知の領域に足を踏み入れた(足は浮いているけど)人間が、どのような体験をするのかということが、自分の関心と交差しているのだ。
端的に言えば、「言葉にならないことを言おうして逡巡すること」「自分の未だ経験していないことに意味を見出すこと」は、まさしくカウンセリング、特にフォーカシングのプロセスに特徴的なもので、それが宇宙飛行士たちが宇宙の体験を語る際にも見受けられるということである。
ほとんどの人類は、まだ宇宙に行ったことがない。最近でもJAXAによる新しい宇宙飛行士候補生の募集と決定が話題となったが、宇宙に憧れを持つ人はたくさんいれども、実際に大気圏を超えて宇宙に行った日本人は、民間人として宇宙旅行を行った前澤友作氏も含めても、十数名程度にすぎない。
もし宇宙に行ったことがある人とお話する機会があれば、もちろん「宇宙にいるってどんな体験でしたか?」と聞きたくなる。この『日本人宇宙飛行士』は実際に宇宙に行った全12名の方々のインタビューをまとめたものだ。著者はこの本の執筆意図をこう語る。

日本の文化で生まれ育ち、その風土を背景に持つ日本人宇宙飛行士は、自身の体験をどのようなものとして持ち帰ったのか。そして、その体験は彼ら自身の世界認識にとって、どのような「意味」を持つことになったのだろう–––。宇宙から地球を見つめた飛行士たちの言葉は、地表に生きる私たちが世界をとらえる上でも、様々な新しい視点を与えてくれるはずである(14頁)。

稲泉連『日本人宇宙飛行士』(ちくま文庫)

自分が体験しておらず、かつ知りたいことについて、それを体験した人を探し、その人に質問してその「意味」を探る。これは、心理学の研究でも一般的に用いられている研究手法のひとつ、「面接法(インタビュー法:interview method)」の土台となる考え方である。そういった意味で、この本は著者にとっても読者にとっても未知の「宇宙体験」をインタビューを通じて明らかにするものである。
しかし、面接法でインタビュー対象者が実際に体験したことの「意味」を理解することへの難しさが、いくつか存在する。
一つには、読者も含めた聞き手が「自分が行ったことのない場所についての説明」を聞かされたとして、その説明を理解できるのかということだ。宇宙という極端な場所でなくても、例えばある観光地や名所、テーマパークに行ったことのない人に、その場所の魅力や体験談を語ったとして、それは何がわかったことになるのだろうか。そして、そういう場合によく「この魅力は、実際に行かないとわからないよー」なんて言われたりもする。もし、実際に経験しないとわからないのであれば、あらゆるインタビューは意味をなさないことになる。
もう一つは、インタビューの話し手が「その体験を言葉にする」ことがどこまで可能であるか、ということである。インタビューで得られる情報は、インタビューの話し手の言語能力に影響を受ける(もちろん、話しやすい場面や関係を左右するという意味で聞き手側の影響もある)。

宇宙飛行士の方々は得てして数々のテストをパスされた優秀な方々であり、語学力という面からも高い言語運用能力があると推察される。しかし、実際のところは、宇宙の体験を言葉にするのはいくつかの意味で「難しい」。雪やオーロラを一歳見たことがない人、それを知らない人がいたとして、雪やオーロラについて説明することの困難さを想像すればわかるかもしれない。そして、今まさにこの記述のなかでそれを実施してみているのだが、何かある未知の対象に関して、それを知らない誰かに説明をする際には、何かに「喩える」という戦略を使いがちである。カエルを食べたことのない人に「鶏肉みたいなもの」と伝えたり、あるいは先ほど僕自身がやったように「宇宙に行ったことのない人に宇宙のことを伝えることは、雪を見たことのない人に行きについて伝えるように難しい」と言ってみたりする。ある種のアナロジー転用をすることは、未知の対象を、既知のリソースを用いて理解する認知的な働きである。
このような点がインタビューを用いることの難しさでもあり、同時に魅力でもあるわけだが、では宇宙の体験を、宇宙飛行士たちはどのように語るのか。
そして実は、これは宇宙という特異な対象に限らず、私たちが何か状況について語るとき、いつもいつでも生じる問題なのである。

宇宙は「教会」に似ている:油井亀美也


『日本人宇宙飛行士』は、単行本刊行時点での日本人宇宙飛行士の12名全員にインタビューがされている。当たり前ではあるが、宇宙に行った印象や感想は、12人みな違っている。そもそもが宇宙に行った目的(宇宙ステーションのメンテナンスか、研究目的か、報道か…)などによってそもそもの宇宙滞在期の体験が異なるが、宇宙飛行士の世代などにより、さまざまであるが、今回特に注目したいのは、宇宙という未知の世界に行って帰ってきた人が宇宙を語る、その語り口である。
期待値を高めておいて申し訳ないが、先にお伝しておくと、宇宙の経験を差し当たり淡々とかある宇宙飛行士の方もいらっしゃる。例えば、2018年に宇宙から帰還した金井宣茂氏は、宇宙を「普通の場所だった」と形容する。もともと宇宙への憧れが薄かったというが、自衛隊で潜水医学の医師としてキャリアのあった金井は、ISS(国際宇宙ステーション)にて船外活動も経験し、宇宙空間に投げ出されたときには、暗い宇宙に対して、圧倒的な恐怖や孤独感を感じたという。とはいえ、このように語る。

金井はISSに到着して初めて窓から地球を見たとき、「なんだ、こんなものか」と思った。それほど感動は覚えず、「テレビで見るのと一緒だな」と第一印象として感じた(85頁)。

稲泉連『日本人宇宙飛行士』(ちくま文庫)

窓の外の地球の美しさには見惚れたものの、金井の表現は一見するとドライに感じられるものが散見されるという。宇宙での経験というと、つい勝手に神秘的なものを期待してしまうが、皆が皆、そうなるわけではないらしい。
一方で、アメリカでかつて行われた宇宙飛行士へのインタビューでは、多くの飛行士たちが「宗教的」とも取れる自身の経験を語ったとも言われるが、文中にあるように、これにはソ連との間の宇宙開発競争のなかで、無神論で唯物主義の共産主義諸国に対して、キリスト教国であるアメリカのスタンスを示すというために飛行士たちの宗教的な経験が強要されていった、という側面もあるようだ(巻末の美学者・伊藤亜紗先生の解説にも詳しい)。

もちろん、日本人宇宙飛行士のなかでも、そのような宗教的、神秘的な体験として宇宙での体験を語る人もいる。2015年よりISSに5ヶ月間滞在した油井亀美也氏である。

油井は宇宙での体験について語るとき、「それを言葉で表現するのは難しい」と何度も言った。工夫を凝らして撮影した写真でも伝わらないと覚った彼が比喩としてよく話すのは、ISSから地球を眺めているときの感覚が、「ロシア正教の教会に入ったときの感覚」に似ていたというものだった(175-6頁)

稲泉連『日本人宇宙飛行士』(ちくま文庫)

油井はモスクワでの数年間の訓練中、たびたび街中の教会を見学する機会がああり、街の喧騒とは異なる静寂さ、そのなかでの讃美歌の調べや静かに祈る人々に心を打たれ、ふと「神様というものは本当にいるのかもしれないな」と思ったという。油井は特定の宗教を信仰しているわけではないが、「ロシア正教の教会に行った時のその経験がなければ、神様がいるかもしれないな、と言ってもいいようなその感覚は持たなかったかもしれません(176頁)」とインタビューで語っている。

「宇宙ステーションから地球を見た時も、自分でも意外だったのですが、おな以上な感覚を覚えたんです。これほどすごいものを作るには、奇跡があるに違いない。心地いいし、自分の心が綺麗になっていくような気持ちがして、ずっとここにいたいと理屈抜きに思ってしまうのも同じでした」(176頁)

稲泉連『日本人宇宙飛行士』(ちくま文庫)

油井は長野県の山村で生まれ、満点の星空を眺めながら、その光景にロマンを感じるような少年時代を過ごしていたという。宇宙ステーションでの経験の語りもまたロマンティックであり、宇宙を「教会」というメタファーを通じて語っている。しかしこの修辞は、実際に油井が教会に訪れた際に感じた荘厳さや静寂さ、そして「心地よさ」などの感覚に裏打ちされているものである。
しかし、いづれにせよ油井が「言葉にすることは難しい」とたびたび表現していたように、自分が経験したことを、それをまだ経験したことのない誰かに、言葉で伝えることはとても難しい。ましてや、宇宙に行くという人類史的な「未知」の領域である。
このような「未知との遭遇」経験をした者は、それをうまく言葉にすることができず、逡巡する。実際、未知のものを言葉で表現するためには、何かに喩えざるを得ない場合が多い。宇宙という人類にとっての未知の「極地」であればなおさらである。

極限状況が私に「意味」を投げかける:フランクル


宇宙飛行士のインタビューを読んでいて、思い出したことがある。
『夜と霧』の著者で、アウシュヴィッツ収容所を生き抜いた精神科医のヴィクトール・フランクルは、登山、それも過酷なロッククライミングを愛好したことで知られる(これについては以前書いたnote記事に詳しい)。オーストリア登山協会の講演録を元にしたエッセイ「山の体験と意味の経験」でフランクルは、過酷な状況を生き抜くために人生の意味、目的にタフに向き合う重要性と、現代人がそのようなタフさを失ってしまった要因について説いている。文中では、過酷な山岳地域と同様に、宇宙という「極地」に立ち向かった、とある宇宙飛行士の言葉を引用している。

はじめて地球周回軌道を飛行したアメリカの宇宙飛行士ジョン・グレンは、「理想こそが生き抜くための素質である」と言いました。理想を心に抱いていないと人は息抜けません。しかしそれは緊張関係を生みます。わたしたちは戦うことも、待つこともできなければなりません。いうなればフラストレーションに対する耐性が求められるのであり、そのためにはトレーニングが必要です。ところが今日の教育は緊張を最小限に抑え込むことのほうに力を注いできたために、しだいに人々のフラストレーションに対する抵抗力が衰え、精神の免疫力の低下が起きてしまっています(33頁)。

V.F.フランクル(赤坂桃子訳)「山の体験と意味の経験」imago 4月臨時増刊号 2013, Vol. 41-4

フランクルは現代の教育のなかに、生きる意味について切実に問う場面や、そのような問いに晒されざるを得ない過酷な状況を耐え抜くための機会がなさすぎると嘆いている。そのために、登山が持つ「自己との対峙」という契機がいかに必要であるかがこの後で語られていくわけだが、『夜と霧』でもたびたび強調されているように、そのような過酷な状況を耐え抜くためには、未来への希望、宇宙飛行士のグレンがいう「理想」が不可欠である。
ただし、過酷な状況で理想を持ち続けるということの内実は、理想を思い描き浮かれるようなものではなく、現実の厳しい状況に身を晒しながら、ぐっと胆力をもって踏みとどまる、フラストレーションへの耐性である。
「言語を絶する」と形容される収容所体験を生き抜いたフランクル自身による「戦うことも、待つこともできなかければならない」という表現には、詩人キーツが語った、未確定の状況を耐え抜く「ネガティブ・ケイパビリティ」という発想がオーバラップする。そしてフランクルはこのように言う。

経験ある精神科医として申し上げたいのですが、困難に遭遇したとき、「意味」が私を待っている。わたしには実現しなければならない「意味」がある、と思える人には、窮地を乗り越える力が与えられるのです(33頁)。

V.F.フランクル(赤坂桃子訳)「山の体験と意味の経験」imago 4月臨時増刊号 2013, Vol. 41-4

フランクルは著作や講演のタイトルに、「人生があなたを待っている」あるいは「それでも人生にイエスと言う」という表現を用いた。私が人生に意味を見出すのではない。人生が私に意味を投げかける。人生が、私がその意味に応えるのをじっと待っている。そのような一般的なものとは逆説的な発想をすることが、フランクルの思想、そしてロゴセラピーという彼の精神療法の特徴でもある。そしてその人生の呼びかけには、なかなか答えられない。答えられない問いかけに、それでもじっと耐え、逡巡しながら、それでもその問いかけにイエスと応答しようとする。そのとき、その窮地を乗り越える力がその身に宿ると、フランクルは自身の収容所での壮絶な体験を踏まえて述べるのであった。

地球からの呼びかけにどう応じるか: 野口聡一


人生が私に呼びかける言葉を聴くのがフランクルなら、宇宙飛行士の野口聡一は、地球の呼び声を聞き、そしてそれに応える言葉に逡巡する人である。彼は宇宙服を来て宇宙船の外に出て、いわゆる「船外活動」を行なった数少ない日本人(というか人類)の一人である。『日本人宇宙飛行士』によれば、「船外活動の間にときおり地球の方に目を向けると、野口はそれが自分に何事かを語りかけるような気がした」(221頁)という。
野口は、自身が宇宙に行って感じたことをインタビューや書籍を通じて語ることに最も意欲的に試みている宇宙飛行経験者の一人であるが、その野口をして、宇宙で経験したことは「言葉を超えた何か」だとたびたび表現する。

その強烈な存在感は生き物のようでした。「オレはここにいる」と、語りかけてくるんですから。地球とぼくの、一対一の対峙。そこに生まれた言葉にならない会話。
この輝きはなんだろう。輝きは命を持っているからだろう。すべての命を内包しているから、その命が輝いているんだろう。太陽の光を反射しているのが理屈だとしても、地球本来の内包する輝きからのものではないのか。僕の命の流れがその輝きの中にすべてあって、ぼくもそこにいるべき存在。なのにこうして外から見ている不思議さはなんだ?

野口聡一『オンリーワン ずっと宇宙に行きたかった』新潮文庫

その体験は当人にとっては、呼び声として、あるいは問いとして、その人に語りかけるようなものである。しかし、その問いかけに応えるための言葉が見当たらない。言葉にしようとして、逡巡する。そこにとどまり、言葉を待つしかない。
これはもちろん「宇宙に行ってじぶんがどう感じたかを語る」ということとは真逆のことであり、主語は私ではない。フランクルが「人生が私を待っている」「意味が私を待っている」と語ったように、地球が私に語りかけるという反転が起こっている、というか、さしあたりそうとしか表現しようがない事態が生じているようだ。
『日本人宇宙飛行士』のインタビューでは、野口はこう言っている。

「あのときに自分が見たもの、感じたものはいったい何だったのか」
と、三度目の宇宙飛行を控えた彼は言った。
おそらくその答えには自分の人生のなかで、長い時間をかけてたどり着くべきものなのだろうと思っています。答えを探すその過程そのものに意味があるのかもしれないし、そうではないのかもしれないけど」(222-223頁)

稲泉連『日本人宇宙飛行士』ちくま文庫

呼びかけの答えを、これから長い時間をかけて探していくしかない。そしてその答えに、あるいはその過程には、意味はたしかに感じられている気はするものの、確証はない。言葉にならないものを、逡巡しながら辿っていく。これは、漠然としているものの、たしかに意味ありげに身体的に感じられる「フェルトセンス」を時間をかけて探求していく、フォーカシングのプロセスそのものの説明としても遜色がないように思われる。

”未知の意味”との出逢い方:村上春樹


言葉にならない言葉を探し、そこに時間をかけてとどまること。ここでもう一人、そのような「未知の意味」へと向かって、物語、あるいは文学という方法論により接近し続けているある作家の存在を思い出す。村上春樹だ。

先だって、2023年4月に『街とその不確かな壁』という最新の長編小説が刊行されたが(かつて同題の短編があった)、刊行の数日前に、出版元の新潮社に村上自身が以下のようなコメントを寄せている。

コロナ・ウィルスが日本で猛威を振い始めた二〇二〇年の三月初めに、この作品を書き始め、三年近くかけて完成させた。その間ほとんど外出することもなく、長期旅行をすることもなく、そのかなり異様な、緊張を強いられる環境下で、日々この小説をこつこつと書き続けてきた。まるで<夢読み>が図書館で<古い夢>を読むみたいに。そのような状況は何かを意味するかもしれないし、何も意味しないかもしれない。しかしたぶん何かは意味しているはずだ。そのことを肌身で実感している。

村上春樹、6年ぶりの最新長編『街とその不確かな壁』特設サイト|新潮社

この作品は、コロナ禍というある種の異様な極限状態、フランクルもいうような「緊張を強いられる」環境下で、時間をかけて書かれたものである。文学という表現形態を用いることは、特に村上のような書き下ろしによる発表を許される長編作家の場合には、「時間をかける」という現代では難しいこの営みを行うことが可能な数少ない方法なのかもしれない。いずれにせよ、作家はコロナという状況を、まさしくネガティブ・ケイパビリティを以って、小説を書き続けた。
作品というものの呼びかけに、応えるための逡巡してきたはずである。その語り口は、地球からの呼びかけに応じて、その言葉にならない言葉を探すときに似てしまう。先ほどの野口の「答えを探すその過程そのものに意味があるのかもしれないし、そうではないのかもしれないけど」という言い回し自体が、いわゆる村上春樹的な文体と言ってもいいかもしれない。
このような村上や先ほどの野口の記述に見られるような、ある種の歯切れの悪さ、逡巡、回りくどさは、未知の意味への遭遇者たちに見られる独特の口調であり、かつフォーカシングのセッション中において、フェルトセンスを感じている場合にたびたび見られるものでもある。
とてもつもない状況に立ち会った時、日本語でも「絶句した」と言ったり、英語でも"speechless"と言ったりする。そのときに何かを言おうとするのだけど、なんとも言いようがない、しかし何かは感じている。そんな何かだ。
なお、フォーカシングの考案者ジェンドリンは『体験過程と意味の創造』という本の中で、創造的な言語運用の1つに「婉曲表現(circumlocution)」を挙げている。この場合の婉曲表現とは、勿体ぶりたい意図があったりお茶を濁したいがための表現ではない。なんら確定的でない未知の事態に出逢うとき、人は逡巡し、新たな言葉を創造的に手探りをせざるを得ないのである。

おわりに: 逡巡する身体


未知の領域に足を踏み入れたり、その体験の辺縁(edge)を言葉にしようとするとき、その人の言葉遣いは、まだかたちになっていない「物語」をつむごうとするときの作家の逡巡に似る。宇宙から帰還した経験を言葉にしようとするとき。あるいは過酷な状況が、それでも私にとって「意味」があると信じ、その意味をつかもうと耐え抜くとき。キーツは、シェイクスピアこそネガティブ・ケイパビリティの持ち主だと言ったが、作家とは本来言葉を紡ぐものというより、紡げない言葉たちを前にして苦しむ人なのかもしれない。書けないものを書こうとする人、言えないことを言おうとする人たちのことだ。
ジェンドリンもまた、フォーカシングを行っている人の言葉遣いは、言葉をさがす詩人のようになるとたびたび指摘している(村上春樹とフォーカシングについては以前、日本フォーカシング協会のニューズレターにまとまって書いたものがあり、許可を経て近日中に公開予定)。未知との遭遇者は、村上の「そのような状況は何かを意味するかもしれないし、何も意味しないかもしれない」という表現のように、それを言おうとして、歯切れの悪い口調になるのだ。
そこにあるのは、たしかに意味がありそうなのに、でもうまく扱えない、「違和感」のようなものだ。フォーカシングではその漠然とした有意味な身体感覚を、フェルトセンスという用語を使って呼ぶ。そして村上もまた、先のティザー広告の最後に、新たな物語の到来のその意味をなぜか「肌身で実感している」と書いている。それがまだ言葉にできてきないので、明確ではないのだけれど、それでも確かに実感はしている。それでもまだ言葉にはならない…。そういう行きつ戻りつする不安定さを生き抜くネガティブ・ケイパビリティは、タフな宇宙飛行士や、過酷な状況を生き抜いたフランクルがやっていたように、饒舌な身体とは真逆の、逡巡する身体にこそ立ち現れる。未知との遭遇者は、まずはその未知の状況をフェルトセンスとして、肌身で実感するのである。

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