見出し画像

【TRAVEL】鹿児島市加治屋町~幕末・維新の英雄たちを輩出した街

ここまで知覧と鹿屋をテーマに書いてきましたが、今回はタイトル通り幕末・維新の時代に輝いた豪傑たちを次々と輩出した加治屋町についてご紹介したいと思います。綺羅星のごとく、時代を切り開いていった明治の偉人たちがほとんど同じ地域から誕生したという一見不思議に思えますが、必然だったのではと納得するに至った話をしていきたいと思います。前回までの知覧・鹿屋のエピソードよりはライトなトーンになると思いますので、ご安心下さい(笑)。


まずは加治屋町についての基礎知識から

加治屋町(かじやちょう)は、鹿児島県鹿児島市の町。旧薩摩国鹿児島郡鹿児島城下加治屋町。江戸時代には鹿児島城の城下町の一部を構成しており、下級武士の居住地となっていた。江戸時代の末期から明治時代にかけて活躍した西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、大山巌、山本権兵衛をはじめとする多数の著名人を輩出した地として知られており、このことから歴史小説家の司馬遼太郎は加治屋町について「いわば、明治維新から日露戦争までを、一町内でやったようなものである(翔ぶが如く)」と述べている。

ウィキペディアより

JR鹿児島中央駅から歩いて10分ほどにある川(甲突川)沿いの一区画がこの加治屋町なんです。2、30分もあれば歩いて回れる程度の地区なんですが、ここに先ほど紹介したあの有名人たちの生誕地があちこちに点在しているんです!確かに幕末の英雄たちは当時の下級武士の家に生まれた人たちであったということはなんとなく覚えていたので、ウィキペディアを見て納得。この地域で切磋琢磨して桜島の下、にぎやかにワイワイしていたんだろうな・・などと考えながら散策をしていました。そしてポイントとなるのが「郷中(ごじゅう)」という薩摩国ならではのシステムですよね。

ここであの「西郷さん」が誕生したのか・・・と思うと!!

薩摩武士の強さの証「郷中教育」

もうすでに有名ではありますが、改めて「郷中」についての紹介です。

江戸時代の薩摩は、城下の居住地を「方限(ほうぎり)」、あるいは「郷(ごう)」と呼ばれる区域に分け、その区域ごとに「郷中(ごうじゅう)」を設けて子弟の教育を行っていました。先輩が後輩を教え、同輩同士で助け合う、「教師なき教育」だったそうです。武士道を第一として精神と肉体を鍛錬し、上下関係にも厳しい「郷中教育」でしたが、それがやがて多くの偉人たちを輩出することになるのです。

トラベルjp「鹿児島市加治屋町で維新期の薩摩を知る」より抜粋

地域の先輩が後輩を指導するというシステムといった感じでしょうか。とはいえ、当時の武士たちですから、先輩の指導はきっと厳しかったでしょう。それでもそうした中で規律を学び、国(この場合は薩摩国)のために、という精神を身をもって学んでいったのでしょう。では「郷中」での掟の一部をご紹介します。

(略訳)
■まず武道を嗜むこと
■武士道の本義を油断なく実践せよ
■用事で咄(グループ)外の集まりに出ても、用が済めば早く帰れ、長居するな
■何事も、グループ内でよく相談の上処理することが肝要である
■同輩に無作法なことを、やたらに話しかけるものではない。古風を守るべし
■グループの誰であっても、他所に行って判らぬ点が出た場合には仲間とよく話し合い、落ち度の無いようにすべきである
■嘘を言わない事は士道の本意である、その旨をよく守るべし
■忠孝の道は大仰にするものではない。その旨心がけるべきであるが、必要なときには後れを取らぬことが武士の本質である
■山坂を歩いて体を鍛えよ
■二才(薩摩の若者)は髪型や外見に凝ったりするものではない。万事に質実剛健、忠孝の道に背かないことが二才の第一である。この事は部外者には判らぬものである

これらはすべて厳重に守らなくてはならない。背けば二才を名乗る資格はなく、軍神摩利支天・八幡神の名において、武運尽き果てることは、疑いなきことである。

ウィキペディアより

なんだか今にも通じるような基本の「き」とも言える内容ですよね。そして興味深いのが会津藩の「什の掟」にも通じる武士として心得を表している点です。結果的には薩長を中心とした新政府軍が、会津藩を中心とした幕府軍との間で戦い(戊辰戦争)が勃発するわけですが、いずれも「心」の部分では同じものを追求していたんですよね、本当にやるせない気持ちになります(判官贔屓の私としては敗れてしまった会津藩への強いシンパシーもあるもので・・・)

日露戦争「日本海大戦」勝利の立役者、東郷平八郎さんの生誕地

偉人たちの名前が続々と・・・

そして実際に歩いて行くと、ほんの1,2分ごとに有名人たちの生誕地が次々に現れてくるというなんとも不思議な感覚に陥りしました。西郷さん、大山さん、東郷さん・・・この方々がなかりせば・・・という英雄たちばかり。これには私のようなにわか歴史ファンでもゾクゾクしましたね。

東郷さんは海軍で、大山さんは陸軍のトップ、この両雄が幼なじみとは!

偶然か必然か?幼なじみたちが日本を動かすことに!

薩摩と同じように長州でも吉田松陰先生の「松下村塾」に集まった若者たちが次々に頭角を現し、その後、国を動かすようになっていたのと同じように、この加治屋町の「郷中」で育った幼なじみ、まさに「同じ釜の飯を食う」仲間が同じ気持ちをもって国を動かすまでに伸びていったというのは不思議なようであり、一方では「そりゃそうだよな」という気もします。

日露戦争当時の海軍トップ、山本権兵衛!

というのも、あるプロジェクトを立ち上げたとき、やっぱり一番やりやすいのは「気持ちの通じる仲間同士」で事に当たるということだと思うからです。これは今でも同じですよね。気の合わないメンバー、何を考えているか分からない人たちとではなかなか物事が噛み合わないことが容易に想像できますよね。やっぱりそこは「気の合う仲間」で一気呵成し、大事をなす。そんな感じだったのではないでしょうか。その証拠にやはり薩摩閥と長州閥で維新で幕府をひっくり返した後は、互いにいがみ合っていた・・・などという話は有名ですからね。

この場所であの英雄たちが生まれ育ったことを想像する

歴史の面白さであり、また、人間の想像力の面白さだと思うのですが、もちろん今では近代化されたビルが建ち並び、こうした石碑が残るだけで当時を思い出せるようなものが残っているわけではないのですが、それでもふとこの場所で、先に紹介した後に日本を代表する偉人となる方々が、まだまだ「やんちゃ坊主時代」を過ごした地を想像してみると、なんともいえない面白さがあります。

先輩に時には小突かれ、また後輩指導に悩んだり、同い年同士でも言い合いだったりケンカもしたでしょう。しかし、時が経ってやっぱり一番信頼できるのは同じ「郷中」で育った郷里の幼なじみだったということなんですよね。特に日露戦争においては愛媛松山の秋山兄弟と共に、子の加治屋町の面々なかりせば・・・どうなっていたのか・・・と考えると怖くなるほどです。

上野公園ではありません(笑)鹿児島市城山町にある西郷さんの銅像です

鹿児島が持つ独特の「雄大さ」がこうした大物を生んだ?

わずか3日間の滞在でしたから、それだけで鹿児島を語るなんてことはできないわけですが、それでも独特の「雄大さ」というか「大きさ」を感じた気がしました。これは出会った方々が「大物だった」とかいうものではなく、桜島がドーンと構え、さらには日々噴火を繰り返すという災害を身近にしながら常に生きてきた薩摩人の逞しさ故なのかな、なんて思ったものです。

また、かつての京である「京都」であり、江戸などから遠く離れ、独自の文化や言葉を持った薩摩国ならではの、海外との交流や情報収集などで、実は一番最先端でもあったわけで、そうした両面を持っているからこその「強さ」がこうした偉人たちを生んだのではないか、なんて考えたりしました。なんせお殿様も「集成館」といった当時の最先端技術を集めた工場を作ってしまうくらいですからね、本当に開明的でした。


向田邦子さんも鹿児島ファンだった!

そしてこの鹿児島の居心地良さを語っている一人が、脚本家でエッセイストの向田邦子さんです。転勤族一家だった向田さんは、転校ばかりの学生時代だったそうですが、中でも数年間を過ごしたこの鹿児島の地をいたく気に入り「故郷もどき」といってエッセイに残しているほど。そんな向田さんを紹介しているのが「かごしま近代文学館」です。実は向田ファンでもありまして(爆笑問題の太田さんほどにはなれないんですが・・・笑)、こちらも見学してきましたので、後日レポートしたいと思います(こちらもまた素晴らしかった!!)。


この記事が参加している募集

旅のフォトアルバム

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?