何かに頼って生きるのではなく、自律的に生きたいと思った今日この頃。

今日は朝から右肩が痛い。筋肉が張った感じがするので、多分寝違えたのだと思うが、そのせいで何をするにも猫背のようになる。別に嫌なことがあったわけでもないのに、暗い気分になってくる。嫌な感じだ。

今まで私は、何らかの権威にすがって生きることに対して、抵抗感があった。誰もが聞きなじみのある権威だ。大学という権威にすがれば、「○○大学卒」であることを誇りに思い始めるかもしれない。先生という権威にすがれば、先生の言うことを何でも聞くようになるかもしれない。宗教という権威にすがれば、自分の生き方を宗教者に委ねていくのかもしれない。しかし私は、権威にすがることなく、自律的に生きることを目的としてきた。それはカントの言う「あなたの意志の格率(個人的な行為の原則)が、つねに同時に普遍的立法の原理となるように行為せよ」と表現したものにも近いのかもしれない。

カントは「遅咲き」の人だった。46歳にして、ようやく母校ケーニヒスベルク大学哲学部教授になった。三大批判である『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』はそれぞれ、57歳、64歳、66歳の時に書かれている。

カントは毎日同じような生活を送っていた。朝4時45分に起き、お茶を飲む。朝は理性を研ぎ澄ませるため、何も食べない。代わりにパイプをふかす。朝はそれでおしまい。きっかり7時には身支度を終え、学生に対して抗議を行う。カントの声はやわらかく、通りがよかったとか。10時には講義を終え、著作の執筆を行う。12時45分、執筆を中止して上等の服に着替え、客を招いて昼食をとる。4時には客が帰っていくので、散歩に出かける。そしてぴったり10時に床につく。

話が逸れてしまったが、こんな生活を送っていたのも、純粋理性を実践し、自らの自律の哲学を実践していたからこそだったのではないかと思う。タバコやお酒を楽しむのは良いが、それがなければ生活ができないというのでは情けないのである。

何らかの権威にすがって生きるのは嫌だと思ってきた。しかし最近、無意識のうちに権威に気を使っている自分を見た気がするのだ。人に気を使うというのは悪いことではないが、それによって自分の生き方から自由が奪われていくのは、情けないことだ。最近、そのように思えてきたのだ。

というのも、周囲の環境に染まっている感じがするのだ。染まることそれ自体は悪いことではないが、その中でも自分を保ちたいし、自由に染まりたい。べったりと自分の元々の色を消してしまうような染まり方ではなく、オシャレな服を着飾るように、染まっていきたいのだ。

そのためにも、自律的に動くことのできる素地を、自分のなかで形成していきたいと考えるようになってきた。用意された場所を活用するのも一つの手だが、それだけでは必要以上に権威に頼ることにもなってしまう。完全に自由に、完全に権威から離れて、という訳にはいかないと思うが、せめて気持ちは自律的でありたいし、遠巻きで眺めて断定的に「こういうことでしょ(笑)」と決めつけるような態度ではなく、現象に飛び込んでいくような人でありたいと思う。

【参考】
・池内紀(2016)『カント先生の散歩』潮文庫.
 →カントの一日の生活についての記述があり、非常に面白い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?