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短歌「にする」という言語行為

記事を読んで考えた感想のようなものです。例によって気に入ったら課金してください。 「スイミング・スクール」の新しくなさ平英之「短歌にとっての〈語り手〉」という記事を読んだ。 この文章は、井上法子「「夜明け」について 第二回笹井宏之賞大賞受賞作を読んで」(『現代詩手帖 2020年5月号』所収)を読んだうえでの平の感想のようなものらしい。井上の「「夜明け」について」は私は未読だけれど、どうやら鈴木ちはねの「スイミング・スクール」を題材にした評らしい。「スイミング・スクール」に

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短歌の鑑賞文(鯨井可菜子『タンジブル』から)

なんとなく気が向いたので、一首評的な文章を書いてみる。連作や歌集の評ばかりに力を入れているのも疲れるし。ここでは、次の一首を取り上げる。 鯨井可菜子『タンジブル』の文体は、口語のかえって自然な延長にあるような、ゆるい文語がしばしば混交するものだ。そのなかでもこの一首を取り上げるのは、私的に一番気になる一首だったから。掲出歌は「本であること」という結句のまとめ方こそややトリッキーだが、その手前の「花の枝の背筋を持たん」の意味がちょっとわからなくて、気になった。 ネットでググ

エアプ鑑賞(橋爪志保『地上絵』から)

私は『地上絵』は未読だし、内容も知りません。したがって、これは「しらんけど、これはこういうことじゃね?」と言いたいだけのメモです。 上の記事は「橋爪短歌の最大の魅力は『喩の飛躍』」だと言っています。それがもっともな感想なのかは、もちろん私には判断できかねるのですが、まあ、実際にそうなのかもしれません。 ただ、掲出歌を見るかぎりでは、橋爪さんの短歌はわりと素直な喩をやっているタイプの作品にも見えます。もっとも、掲出歌についてはいずれもちょっとハイコンテクストというか、あまり

大森静佳『てのひらを燃やす』における鳥と魚

ブログ記事で大森静佳『てのひらを燃やす』を取り上げた。 『てのひらを燃やす』で歌集を通じて繰り返し現れるモチーフは、大森の独特なイメージの連関のなかにあって、ちょっとしたものであっても、その意味付けを想定しやすい。ただ、それらについて全部書いているとキリがなかったので、先のブログ記事では一部だけについて扱った。 ここでは同書のなかに現れる「鳥」と、ブログ記事では中心的には取り上げなかった「魚」に注目した話をする。 *** 『てのひらを燃やす』では、たびたび空を飛ぶ鳥が

青松輝(ベテランち)の短歌の読み方

この記事について短歌の初心者でもわかる青松輝の短歌の読み方(その補助線みたいなもの)を書きたかった。 この人の短歌を取り上げる。 青松輝(あおまつ・あきら) 1998年3月15日生。東京大学Q短歌会に2018年から所属。ネットプリント「第三滑走路」。 彼の短歌はブログなどで読める。 はじめにはっきり言って、青松輝の短歌はかなり難しい。短歌に普段ふれない人が見ると「こういうのも短歌なのかー」くらいの感想ですむかもしれないが、それなりに見慣れている人からすると青松の作品は

あなたは、どうお考えですか

先日、100日後に死ぬことになっていたワニが死んだ。 これは短歌界隈の人にはわかる内輪ネタだけれど、歌人の加藤治郎がある女性歌人を喩えてミューズのような存在だったみたいなことを発言して激しく批判されたことがあって、そのときになされた加藤のツイートが元ネタになっている。 このあたりのことが発端になって加藤治郎がいろいろ批判された一連の経緯は中島などがまとめているのでそちらを見てもらうとして、あのとき自分も何かもやもや考えたよなーと思い出して、考えていた気がすることをだらだら

花水木の歌の意味論

この記事について土岐友浩さんの以下のコラムが話題になっているので書こうと思った記事です。 コラムでは、吉川宏志の次の短歌について、解釈が分かれることがあるらしいといった話がなされています。 花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった /吉川宏志『青蟬』より この短歌において、事実として、作中主体が「愛を告げられた」のか「愛を告げられなかった」のかは言明されていません。したがって、大前提として「愛を告げられた」のか「愛を告げられなかった」のかは結局のところ読

短歌において〈景〉がわかるとはどういうことか ~さよならあかねの作品を中心に~

有料の記事ですが、無料で全文読めます。気に入ったら課金してください。 〈景〉がわからない短歌私はひざみろさんではないけれど、思っているところを書くのにちょうどよい材料になりそうな詠み手なので歌人論をやってみる。たぶん歌人論なんて大それたものでもないのだけれど、作品を鑑賞して評を書きたいわけでもなく。 さよならあかねの短歌はわからない。もちろん、何から何までわからないわけではなくて、わかるやつはちゃんとわかるのだが、それにしてもわからない作品が目に付きやすい。 魂をビブラ

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「詩的」な短歌のゆくえ

〈最善の相〉を読むということ「基本的歌権」ということばが界隈で話題になった。 基本的歌権や何かについては、この方のように丁寧にまとめられる方がほかに現れると思うので、私がことさらがんばってまとめる必要もないと思う(そもそも私はこのことばがどういう経緯で話題になったかといったことを追いきれていない)。 基本的歌権ということばについては、「作品の創作意図は最大限プラスの方向で汲みとられるべき」という主張だと理解している。 これはいわば、作品の背後にあると考えられる意図はその

実は短歌論を1ミリも知らない奴が私性について考えるとこうなる

私性ってなんだよ短歌をやっているとたまに私性という言葉に出くわす。短歌というのは誰かの語りであって、その語り手のどうのこうのというアレである。 私性とは何なのか。この疑問はおそらく現代文学における「私」とは何かという議論に通じるものだろうが、そのことは短歌における私性を語る文脈においては必ずしも意識されていないように見える。 たとえば、本田一弘は「『私性』とは何か」と題した時評のなかで、短歌における私性とは何かを考える手がかりを探っている。本田はまず寺井龍哉の「うたと震災