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【雑記】最初の1ページ



10〜15秒で、相手の心をつかむ必要がある。
これは最近の音楽の話。

最初の10〜15秒が肝心。これは、今はストリーミング配信で音楽と出会う人が多いので、(定額聞き放題とかね。私も登録して楽しみまくってます。) 聴き手が『スキップして次の曲にいく』かどうかを判断する時間がだいたいそれくらい……ということを指して言われている。

それほど〝直感〟的に取捨選択されてしまうということだ。

だから配信で生き残ることを目標とした音楽の作り方として、最初の10〜15秒で「良さそう」「気になる」と思ってもらえるような特徴を入れる傾向があり、近年ますます顕著になっている。
面白いリズム・和音・耳に残るフレーズ・歌手の声質やキャラクター性みたいなもの……を、なるべく最初の15秒内に提示できるよう、工夫が凝らされている。

好き嫌いは主観によるが、やや性急だなと感じる人もいるだろうし、その感覚は間違いじゃない。



小説も似ている。
U-nextが本の配信も始めて、好評らしい。となると、スキップされない本の特徴を、当然ながら作家は意識するだろうし、研究して書くだろう。

私は10〜20代の頃に小説を書くことにハマり、その趣味に多くの時間を費やしたのだが……。発表する媒体によって小説の書き方を変える必要があるのは、2010年代からすでに、仲間内ではまあまあ常識として認知されていた。

媒体とは、人に届けるための手段が何であるか、情報を媒介するメディアが何であるかを総称する言葉だ。
私の場合、おおまかに言えば電子か紙の本か、SNSアプリであるかHPであるかが、書き方と関わっていた。受け入れられやすい文体が違うことを意識して、段落などを工夫した。

また、『最後まで読んでもらうこと』がどうしても課題から外せないため、おのずと書き出しから癖を出していくようにもなった。(序盤の展開に力を入れて、ストーリー傾向をわかりやすく提示できるよう心がける、など。)


こういった努力の方向性は、配信向けの音楽作りと似ていたと感じる。
(本として印刷できるときはまた別。安くないお金を出してまで本を買う人は、だいたい最後まで読んでくれるので、出だしがやや悠長であってもいい。)


──今は、誰もが創作者になれる時代、と言われている。

私は、物心ついた時からインターネットがあって、若い時代からネットの世界で発表できて、同好の仲間と繋がれて、本当に良かったと思っている。
創作者になるための最初のハードルが下がっているから、誰でも挑戦しやすい。これは現代のメリットとして主張したい。
(消費者としてのみ生きるなんて、つまらない。何かを生産してこそ生きるよろこびを実感できると思うから……できれば全ての人が、何かの作品の創り手であってほしいなと思う。)


音楽も、小説も、変わっていくのは当然で、きっと変化自体は嘆くことではない。
媒体が変われば適したものは変わる。人の暮らしが変われば、創作物も変わっていくのが自然だろうと思う。

……しかし、この記事の主旨は、現代人の性急さを、全肯定することではない。




「でも、指輪物語は、〝最初の1ページ〟では分からないよね」

最近とある方と読書好き談義をしていたときに、そういう言葉がとびだして、私の頭に強く残った。
それ〜! と思った、言い表してもらえて嬉しかった。本当に、その通りだ。


全ての音楽や物語が、最初の印象や直感だけで理解できるわけはない。


指輪物語は、冒頭の『ホビットの冒険』を読みきるまでが大変だというのは、読んだことがある人には分かると思う。その第一関門さえ越えれば、憑かれたように読めてしまったりするのだが……。最初にすこしの忍耐を必要とする。

良さを理解するために、忍耐、または、理性と知性を求められるもの。
音楽にも、本にも、そういった読み解く力を必要とする名作が存在していることは、疑うべくもない真実だ。
できればこれからも色褪せず存在していてほしい。受け継がれていくと信じたい。


現代の暮らしのなかで、人間が読み解く・受けとる力を失いがちになっているのも、おそらく真実としてある。


今の世の中、どこか皆がせっかちになっている。よっぽど意識して取り組まなければ、待つことができなくなっている。

〝良さ〟を理解できるまでの時間を、待てる人間、待つ能力。これを、どうやったら育てられるだろう?


変化は嘆くことではない、と先に書いたが。
変化を否定せずに認めながら、「じゃあ私は何をする?私はこの世界に何を残したい?」と、よっぽど意志をもって選択することが大事だと思う。

文化を残すためのアプローチ方法を探ることが、今の世に必要なことだと思う。

否定では、人の心は動かない、と思うのだが……。世代間の感覚のズレを感じることも多くて、私は結構しんどい。(具体的に言うと、「最近の若者文化は…」の愚痴を、もう聞き飽きた🙄)

人の好きなものを否定しなくても、本当に良いものの〝良さ〟ならば、伝えられるはずじゃないか?

軋轢を生じさせないアプローチ、つまり、対象や目標におだやかに接近していく方法を、私はなんとか考えていきたい。方法論だけがしたいわけではないが、なるべく前向きに、愚痴で終わらない話をするべきじゃないかと、そう思っている。




バイオリンを習っていたときの思い出として。
先生がふとこぼした言葉で、忘れ難いものがある。


「〝情動〟で聴ける音楽にはいつ出会ってもらってもいいんだ。でも、クラシックは〝理性〟で聴くことができないと面白くないからね」


通っていた町田コダーイ音楽院の、大熊庸夫先生の言葉だ。

「少しの訓練がいるものには、そう苦じゃない年代のうちに、取り組んでみてほしいんだ」


すぐに楽しめるものや、明日すぐ役立つものだけを見るのでなく、広く視野を開いていくこと。先生方が教えてくれたのは、そういうことだった、と、私は思っている。

受けとるために、慣れやスキルを必要としたり、文脈をつかんで考える力を必要とするものが、あるということ。

感性を磨くとは、結局、受けとる力をつけることだ。
直感力を高めるのも、知性と理性の積み重ねだろうと思う。

コダーイシステムの考え方の基盤である、
『音楽教育とは、優秀な音楽家をつくるためにあるのではなく、優秀な聴衆をそだてるためにある』という話も、よく聞かせてもらった。

音楽家になれるかもしれないから音楽を習わせる、ではない、ということだ。



私は結局、出来の悪い生徒でありつづけたので、習っていたくせに今もバイオリンを弾くことができない。

先生とする雑談を目当てに通っていた。モーツァルトの純正調の話や、上杉謙信と川中島の戦いの話をするのが、好きだったのだ。
音楽ももちろん好きだが、正直、音楽のレッスンよりも、レッスンをとおして得られる副産物? のほうに、当時から夢中だった。

先生とのレッスンを通して、先生の思考に近づきたかった。歴史をとおして、歴史に残る人々の考えに近づこうとするように。

バイオリンは純正調を私の肌になんとなく教えてくれたし、先生は、何事も知的にとりくむことの面白みを教えてくれた。



いつも思うのは、あの時間が、私の学びの入り口であったことだ。学ぶことは楽しい、と、子どもの時代のうちに心底から思わせてくれた。

子どもが、己の人生にとっての〝良い出会い〟をするための、自分でつかみとるスキルと環境を手渡すということに、あの教室の大人達がいかに心を砕いていたか。

子ども本人の気づきを待つこと、大人が気づきを奪わないこと。性急には教えられない、じっくり伝えていくしかない、けっして正解のない分野の物事を、自分達の生きる姿で説くような先生方に、習うことができた。

それがいかに幸せなことだったか。
(私はつくづく出来の悪い生徒だけれど、私が今もっているただひとつの自信は、彼らに育ててもらった感性が自分にあることだ。)




これからの私たちにできることは何なのだろう、と考える。

やっぱり、新しい文化を否定する必要はないと思う。(前向きな目的があっての批判や批評ならば結構だが、それはそれでスキルが必要だ。)

どうやったら、学びとの出会いの間口を広げられるだろうかと、私は最近それをよく考える。

じっくり向き合ってみよう、すぐに結果がでないことでも、取り組んでみよう。そういうやる気を起こさせる人には、どうやったらなれるのだろう。

誰かの〝最初の1ページ〟になれたらいいのかもしれない。すぐに分かってもらえる楽しいことだけを言っているのでは、たぶん、伝えたいことを伝えていくには足りないのだろうと思う。

難しい、が。とにかく行動を起こさないと、な。

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