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バトンを引き継ぐ人々。名編集者、甲斐良治とは何者だったのか。

甲斐良治かいりょうじを語りバトンを引き継ぐ会ー甲斐良治とは何者だったかー」を終えました。

仲間と企画してきたこの会。全国から約40人がオンライン上で顔を合わせ、亡くなった甲斐良治さんという編集者との出会いやエピソード、そしてそれぞれが受け取ったバトンの想いを語るリレートークをしました。

誘うべき人を誘えなかったりしましたが、次もそのまた次もあるはずです。(ヘッダー写真は参加者の上野敏彦さんより拝借しました)

サテライト会場の一つ、農文協の赤坂会場に集まった参加者たち。あっかるい会。


司会は(思想的)親子

さて、たくさんのメンバーがいる中で、私の役割は総合司会でした。

参加者は初見の人も多く、「なんでこの人が司会なんだろうか」と思われそうだったので、「甲斐さんとは一緒に取材をしていて、本人から『思想的親子』となぜか言われてました」と一言、紹介をしました。

「思想的親子」なんて言葉があるのか知りません。でもそんな便利な間柄を作ってくれていたおかげで、「そうか、それなら司会でいいか」と許してくれるように、みなさん笑ってうなずいてくれました。

甲斐良治という「親」が亡くなってから半年以上経っていました。「増刊現代農業」という雑誌の編集長を長年務め、地方移住をネガティブにとらえられがちだった時代に、農的暮らしに向かう人々の動きをいち早くポジティブにとらえ、それを「帰農」と表現し、農的社会に生きる人と人をつなげる名人でした。

無名な若者たちを常に敬い、「若者についていきたい」と言い続ける珍しいお父さんでした。

東海村村長をインタビューする甲斐さん。『季刊地域』(旧増刊現代農業)では村長インタビューを続けてきた。(筆者撮影)

訃報を知り、悲しみに浸る人たちがたくさんいました。

幸い私は生前に、「自伐じばつ型林業」という小さな林業を広げるNPOをともにつくり毎日活動し、「一緒に本を書こう」と林業の本をともに執筆させることを約束し、彼とともに見てきた景色を文字にし、一緒に書いてる気持ちがあるので、気も紛れて悲しみはないままこの日を迎えていました。

まさかの司会の涙

この会は、「まるで自分たちの側に甲斐さんがいるような機会にしたいね」と仲間内で企画していました。しんみりしたくないねと。

会場は、甲斐さんが活動拠点にしていたところと、参加者の自宅をオンラインでつなぎました。

「本部」の千葉県鴨川市に集まったメンバーたち

彼が「里山帰農塾」という集まりを開催していた千葉県鴨川市を本部にして、鳴子温泉(宮城県)、赤坂(東京都)、博多(福岡県)、高千穂(宮崎県)と個人参加とをオンラインで結んで3時間。それぞれの会場に、甲斐さんの写真があり、お酒がありました。

生前の甲斐さん(保原樹撮影)

会の最後には宮崎県に伝わる民謡「刈り干し切り唄(かりぼしきりうた)」を甲斐さん母のセツ子さんが歌い、故人を思うとともに終演の時間を迎えました。

甲斐さんを思う人たちと過ごした時間。物足りなさを感じながらも、みんなが揃いそれぞれの思いを知るひとつの機会になったことでしょう。

会の最後、私はこの日の朝を思い返していました。

日の出と共に目覚め、ここ数年感じたことない爽快感で朝を迎えていました。彼とともに過ごした人たちが集い、彼とのエピソードを語り合う日。甲斐さんがふと、現れてもおかしくないなと妄想していたのでした。

その想いを共有しようと、「今朝は、甲斐さんと久しぶりに会えるなと思って来ました」と言いかけた時、頬のあたりが急にこわばり、まぶたが押し上げられるような圧迫感を覚え、声が詰まってしまいました。

(まずい…)

会のスタートからエンドまで、誰も涙を見せず(ウルウルはいましたが)に明るい会を続けられていたのにあろうことか、司会がまさか。

(これ以上しゃべると……)

そう思い、「……終わり!」と叫んで強制終了し、私は画面からフェードアウト。涙なく!?いや最後やってしまったかもしれない。

「上垣さんの涙はみんなを代弁してくれてました」と高千穂サテライトからメッセージをもらっているから、実際はアウトだったのでしょう。

まぁよかったかなと、会を閉じることができました。終わってからも、企画メンバーにはメッセージが相次ぎました。

甲斐さんのご実家からも、「今日はありがとうございました。両親も最後まで嬉しそうに見ていました」とメッセージがあったそうです。

よかったよかった、いい会でした。

甲斐良治と鴨川と藤本敏夫と

今回の会。本部となったのは千葉県鴨川の会場でした。

そこは、「藤本敏夫記念館」でした。藤本とは誰か。知らなくていいかもしれません。でも、甲斐さんは藤本敏夫氏をインタビューしたことを「私のその後の人生を大きく変える機会になりました」(2018.7.31本人Facebook投稿)と語っていました。

棚田の広がる鴨川自然王国
王国内のカフェ「cafe en」のランチ。藤本敏夫さんの娘でミュージシャンのYaeさんの手料理でした

鴨川は、甲斐さんの人生を変えた場所でした。

そして、こんなことも言ってました。

「鴨川に来るとき、いつも思うこと。11年前、藤本さんに渡されたバトンをずっと若い人たちに渡していこうということ。」(2013年10月5日Facebookに甲斐さん投稿)

本部となったの会場の脇で遊ぶメンバーの子供たち。わが家の双子は甲斐さんの「思想的孫」として可愛がってもらっていた

僕の泊まらせてもらった民泊を営む首藤夫妻は、藤本さんと甲斐さんのバトンを引き継いだ農家です。彼らがいなくては作られなかった場所でした。

バトンを引き継ぎ、農に就く人たちがいるのが鴨川です。

イベント後の夜、その農家が言いました。「上垣くんのエピソード、聞いてないよね」と。僕は司会で、甲斐さんのエピソードを話しそびれました。

嬉しいことに楽しみが残りました。みなさんと会い、エピソードを語りあえる日が待ち遠しいです。

内緒で企画した甲斐さんの還暦祝いの時(中央が甲斐さん。その下に筆者/高木あつ子撮影)
甲斐さん(賀川督明撮影)

【関連】
以下、生前に仲間内でいくつかラジオを収録してました。


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